旧ポーランド領内で大規模な反乱が発生したとの報告はドイツ、ソ連、イギリス、日本などの主要国に齎された。小規模の反乱ならば隠蔽も 可能だったが、ここまで大きな反乱となれば隠しきれるものではなかった。
 この大規模な反乱に喝采を挙げたのは、まずソ連だった。ドイツの圧力を真っ向から受けている状況において、ドイツ領内での混乱拡大は 願ったり適ったりだった。

「ポーランド以外の地域でも蜂起を起せないか?」

 多くのソ連政府高官は、他の地域でも蜂起を煽れないかと考えをめぐらせていた。
 ナチスドイツが国力が回復すれば、今度こそロシア人を全て奴隷にするまで攻撃を仕掛けてくると思っている彼らは、ドイツを混乱させ 足を引っ張れるならば何だってするつもりだった。一部の人間は軽はずみな行動に対して危惧したが、奴隷化という最悪の未来に怯える人間達は 介入を主張した。共産党と対立することが多い軍でさえ、何かしら手を打つべきと主張した。

「何だって良い。赤軍の再建が済むまで、何とかドイツを撹乱して欲しい」

 それが赤軍将兵の偽らざる願望だった。
 何しろソ連赤軍の再建は困難を極めた。スターリンの粛清と無茶な戦争指導によって赤軍の屋台骨は文字通りへし折られていたのだ。 優秀な将兵は無茶な作戦や物資不足によってその多くが失われ、無茶な生産計画や熟練工の徴兵によって兵器の質も唯下がりとなった。 そしてトドメが最後のバクラチオン作戦だった。ドイツの名将モーデル、そして彼の配下に集ったエース達はソ連軍の突進を逆に粉砕 してのけた。まぁソ連軍の兵器の信頼性が地の底にまで潜るレベルになっていたのもソ連が負けた大きな理由なのだが……。
 何はともあれ、ソ連赤軍再建の道は果てしなく険しかった。

「士気を上げるために『親衛』の名をばら撒くのは良いが、名前にあった装備をもっと回して欲しいものだ」

 ドイツ軍相手に奮戦したワシーリー・チュイコフ大将はそうぼやいた。
 ソ連軍では景気づけのためか、親衛の名をかざした部隊が増えていた。しかしいくら名前が勇ましくなろうとも、装備がガラクタなら意味が無い。 日本から工業プラントを、華北や朝鮮半島から労働力を輸入しても、そうそう簡単に状況は改善しない。
 それを理解している故にソ連軍はT−39、T−44などの生産を進める一方で、生産が容易な突撃砲の開発と生産にも着手していた。勿論、軍内部では 色々と言われていたが、手っ取り早く対戦車戦力を手に入れるためと言うことで反対意見は押し切られた。
 同時にソ連軍はドイツ空軍に対抗するために空軍の再建も考えたのだが……先の戦いで多くのベテランパイロットを失ったためにその再建は陸軍以上に 苦難に満ちていた。バクラチオン作戦では教官さえ投入したのだ。そしてドイツ空軍に甚大な被害を与えたのと引き換えに、彼らの多くは還ってこなかった。 さらに航空機材も枯渇していた。重工業化が失敗していた上に、独ソ戦で消耗戦をしたのだ。ソ連空軍の編成表は穴だらけだった。

「いっそのこと日本からタイプ96(九六式戦闘機)を売ってもらうか。パイロット付きで」

 ソ連空軍上層部ではそんな意見さえ出る始末だった。
 冬戦争やBOB、そして日米、日中戦争での戦いから日本軍戦闘機の優秀さは誰しも理解していたので、そんな意見がでるのも当然だった。九六式の購入は まだ大人しい方で英国やフィンランドのように零戦や一式戦闘機・飛燕を買い込めないかと考える人間さえ居た。

「あんな腐れ飛行機より、マカーキが作った飛行機を配備してくれ!」

 飛んだ途端に空中分解するという経験を持つパイロット達、特に冬戦争で日本軍機と戦った者はそう声高に主張するほどだ。
 しかしそれが非現実的であることを空軍上層部は理解していた。「戦わなきゃ現実と」と某猫型ロボットに諭されるまでもなく、ソ連空軍は自前で既存の 機体の信頼性向上と新型機開発、搭乗員の補充に努めた。
 ただ哀れにも内陸の戦場に動員され壊滅したソ連海軍航空隊の再建は捨て置かれた。むしろ陸空軍の再建のために水兵まで借り出される始末であり、ソ連海軍は 急速に有名無実化することになる。
 何はともあれ、ソ連軍は非常に苦しかった(まぁそれゆえに元凶を作った共産党を恨み、ベリヤとジューコフは水面下で暗闘を繰り広げていたのだが……)。
 こんな状況であるがためにソ連はポーランドのみならず他の地域にも混乱が波及することを切に望んだのだ。ただ一部の人間はまともな武器も 指揮系統も無い蜂起など、あまり長くは続かないと判断していた。さらに前政権の愚行によって各国の共産シンパが壊滅していたこともあり、工作も難しいと 考えられた。共産シンパが多かったフランスにおいても、共産党の影響力が大幅に減衰しているのだから、どれだけ共産主義が危険視されているか判る。

「精々、各地でドイツへの不満を煽るのが限界かと」

 クレムリンの一室で開かれた密談の席でモロトフの意見にベリヤは頷く。

「我が国の勧めにのって蜂起する勢力はそうはいない……だとすればそれが限界か」
「それにあまりやりすぎればドイツに再戦の口実を与えかねない。折角、中国人を『贖罪の山羊』にした意味が無くなる」

 この状況で再戦すればドイツ以上にソ連がもたないのだ。日本と英国を味方に引き込めば、まだ勝ち目はあるかも知れないが……ドイツに誰もが認める 大義名分がある場合、日英の支援は期待できないと二人は考えた。

「ポーランドの惨状を喧伝することで国内の引き締めを急ぐべきだ。シベリアへの移転を進める口実にもなる」

 しかし彼らも軍の要望を無視する訳にもいかないことも二人は理解していた。

「……今は、上手く不満を煽ることでドイツが無視できない状況を作り出すことに専念するのが最善か」
「それ位しか手が無い。占領地の維持のためにドイツが動けなくなれば、『時間稼ぎ』はできたと言える。軍を動かさなくても、現地住民を懐柔するために ドイツが無駄な投資をすれば、それだけで我が国の利益になる」
「ふむ」
「そもそも、ただでさえ日米開戦を誘発したといわれている以上は露骨な真似は難しい」

 モロトフの意見にベリヤは黙った。ソ連にこれ以上ダーティーなイメージが着くと日本との貿易にすら支障が出かねない。

「我が国が多民族国家でありながら、ロシア人以外にも寛容であることを示すことで印象を良くするのも手か」

 ゲルマン至上主義を掲げるドイツとの差別化を図ることをベリヤは考えた。
 ちなみにこの考えがもとになり、後にソ連空軍では各民族から選びぬかれた美少女、美女から構成される飛行隊が設けられ、シベリアの空を 飛行することになる。
 ソ連同様、枢軸の圧力を受けているイギリスも相手の不幸を見て黒い笑みを浮かべつつも軽挙妄動には出なかった。

「インドでの借りは、別の場所で返してくれる」

 イギリスの然るべき立場の男達はそう嘯いた。インドの罠は順調だったし、フランス人(とドイツ人)に煮え湯を飲ませるための計画も進められていた。 後者の計画は日本との共同作業になるが、これが成功した暁には枢軸各国(特に独仏)は『ある意味』で感涙に咽ぶことになると思われていた。
 一方で日本政府上層部、正確には夢幻会の会合メンバーの多くは一連のポーランド反乱に頭痛を覚えていた。

(((どいつもこいつも、この世界の人間は脳筋だらけか?)))

 だが何もしないわけにはいかない。嶋田は閣議を招集し対策にあたった。

「ワルシャワを皮切りに各地でポーランド人が蜂起しました。主だった都市の内、ワルシャワ、クラクフ、ポズナンは既に無法地帯となっているとの情報があります」
「暴徒側の死者は少なく見積もってもすでに千人を超えている模様です」

 首相官邸に集まった閣僚達は、田中局長の報告を聞いて難しい顔をする。だが嶋田は敢えて平静を装い尋ねる。

「ドイツの反応は?」
「ドイツ側は断固鎮圧する立場を崩しておりません。旧ポーランド領へ反乱鎮圧のため援軍を送る準備を進めています」

 「そうか」と答えると嶋田は黙り、少しの間、一人考えにふける。

(正月早々に、この惨劇か……今年も血生臭い幕開けだな、おい。しかしこれはある意味、好機ではある。不良債権と化したポーランド人を何時までも 手元に置くことはないだろう。うまく条件を出せば自治領構想も早期に実現できる)

 些か冷徹だったが、嶋田は今回の反乱も「悪いことばかりではない」と判断した。

「……今回の反乱でドイツは、占領地の維持のためにさらに労力を費やすことになるだろう。我々にとっては好機到来と言える」

 この嶋田の台詞を聞いた4人の軍人達、古賀、山本、永田、杉山が頷く。

「ドイツは本気で反乱を潰すだろうが、それにかかる労力も相当のものだ。そして今後も強圧的な統治をするとなれば、同じ事態は十分に起こりえる」

 杉山はそう言った後、僅かながらドイツ陸軍に同情した。陸軍軍人の立場から、あれほどの領土と人口を統治することを考えると、半ば敵国とは言え 同情せざるを得なかった。同時にその維持コストを低減するために、ドイツがポーランド自治領構想を認めると閣僚達は考えた。しかし懸念もあった。

「だが自由ポーランド政府が暴走しないように手を打つ必要はあるのでは?」

 山本の意見に嶋田は首を横に振る。

「彼らには予め釘は刺している。二度は不要だろう」
「ふむ」
「ただポーランド人救出のためドイツと本格的な交渉を開始することは伝えておこう」

 そんなやり取りがされる中、大蔵のドンである辻は難しい顔をして沈黙していた。

「何か問題が?」

 嶋田の問いかけに対し、辻は少し躊躇った後、危惧を述べる。

「ドイツ人も我々が思っているようなことを考えるでしょう。彼らが果たして、その状況を見過ごすでしょうか?」
「それゆえに大軍で反乱を叩き潰すのでは?」
「だからですよ。彼らも判っているでしょう。反乱を起こされれば毎回大軍を投入することになる。それがどれだけドイツの体力を奪うかも」

 先の大戦でイギリスがヘマをしたとき、辻は嫌な予感を感じていた。この時、彼はそれとよく似た嫌な予感を覚えていたのだ。

(かつて赤いナポレオンは反乱鎮圧のために『アレ』を使った。黒いナポレオンが同じ手を使わないとも限らない。いや史実を見る限りは使う 可能性は低いが……この世界でも使わないとも限らない。万が一に備えて情報統制も必要か?)




             提督たちの憂鬱外伝 戦後編10




 空腹と寒さと未来への絶望から誘発された暴動の嵐は瞬く間にポーランド全域に及ぶことになった。

「侵略者を追い出せ!」
「ポーランドを我々の手に取り戻せ!!」

 ワルシャワでは老若男女関係無く、追い詰められた人々が立ち上がりドイツ軍や警察と激しい衝突を繰り返していた。
 ドイツ軍は質で押していたが、さすがにポーランド人全てを押さえつけることはできず、各地で分断、孤立する部隊が続発した。

「くそ、味方はまだか!?」

 遮蔽物で身を隠しつつKar98kで必死に応戦しているドイツ兵はそう叫ぶが、ポーランド全土が混乱しているためそうそう 援軍は来ない。

「この不良民族共が!」

 銃声の後、何人ものポーランド人が奇妙な踊りをした後、赤い水溜りに向けて倒れる。
 しかしそれでポーランド人は止まらない。ここで引いても明日は無いと思っている彼らは文字通り命がけで前進する。 ドイツ軍や警察から奪った銃だけでなく、包丁などの身近な物まで武器にして前進してくる有様はまるでかつてのソ連軍を髣髴とさせ、対ソ戦に 従事した経験がある兵士達は大いに顔を顰めた。

「くそ、スラブ人の津波から生き残れたと思ったら、今度はポーランド人の津波かよ!」
「口を動かす暇があるんだったら、手を動かせ! 連中に捕まったら死ぬぞ!!」

 運悪くポーランド人に捕らえられたドイツ人の運命は言うまでも無い。
 これまでの鬱憤を思う存分ぶつけられ、場合によっては無惨な姿で街灯につるされるのだ。すでにワルシャワのストリートにはズタボロに された数十名のドイツ人(男女問わず)が逆さに吊るされていた。

「この……」

 ドイツ兵達は再び発砲する。
 その背後の建物で怯えているのは、民間人たちだった。男達のうち、銃が使える人間は兵士達と協力して戦っているものの、そういった特技の無い 者達は後ろで固まっているしかなかった。

「軍は何をしているんだ?!」
「暴徒が迫っているのに……」
「これじゃあ、東方に植民するなんて出来ないぞ」
「俺は折角手に入れた家も、畑も焼かれたよ。暴動が終っても生活が再建できるかどうか」

 夢幻会の人間が聞いたら「いや、ポーランド人の土地を奪ったんだから反発が起きるのは当然だろう、JK」と突っ込むだろうが、残念ながら この場には突っ込み役が不在なので彼らの会話はそのまま続いた。その場に暴徒達が乱入するまでは。
 ワルシャワのみならずポーランド各地では、新年早々にも関わらず怒声と怒号、銃声、そして悲鳴が響き渡り続けた。
 当然のことだが、ドイツ第三帝国首脳部はこの暴動の徹底した鎮圧を指示した。これによってドイツ本国を含めた周辺地域から多数の部隊が 反乱鎮圧のため投入されることになった。

「忌々しい連中め」

 ヒトラーは当然のことながら激怒しており、叛徒共に対して容赦するつもりはなかった。民間人が虐殺されたとの情報が彼の怒りに 油を注いでいた。
 しかし同時に暴動を完全に鎮圧するためにかかる費用やその影響に頭を痛めていた。広がった勢力圏の維持、戦災と天災からの復興と ドイツがやるべきことは山ほどあるのだ。それに今回の大寒波でフランス北部で不穏な動きが活発になっていたこともヒトラーを 焦らせていた。
 シュペーアを含めた財務、軍需の実務者達は今回の一件で必要となる労力、そして今後、占領地維持に必要になるコストの増加を考えて 顔を青くしている。レーダー元帥などの海軍関係者は、今回の影響が拡大することで海軍予算が大幅に削減されるのではないかと気が気で なかった。

(今でさえ厳しいというのに)

 しかし陸軍大国ドイツにおいて、軍事予算を減らされやすいのは海軍だった。
 そうならないことを切に願いつつ、レーダーはヒトラーを見守った。そのヒトラーは頭の中で日本から受けた提案をどうするかで悩んでいた。

(日本からはポーランド人を北米に移送し、自治領を作ることが提案されたが……これは容易に頷けん)

 ポーランド人の大規模な暴動はすでにドイツ国内でも報道されている。あれだけ大規模な暴動となると隠蔽しきれるものではないし、何より英国の BBCが活発に放送していた。すでにポーランドの大規模暴動はドイツ国民の知るところになっていた。
 これによってドイツ国内では反ポーランド感情が爆発していた。元々、ポーランドに対してよい感情を抱いていなかったのだ。その彼らがドイツも 苦しい時期に暴発したというのだから、激怒するのは当然だった。ポーランド人の行動はドイツを背後から刺す行動だった。

「ポーランド人を叩き潰せ!」

 そんな声が挙がるのは自然な流れだった。
 反ポーランド世論が満ちる中、ドイツがコストを支払ってまで(日英と折半だが)ポーランド人を北米に送るなど到底認められないだろう。また ポーランドを北米で存続させることに異議を唱える者たちも少なくない。

「『あの抜け目がない』日本人が、ポーランド人のためにわざわざ自治領を作ると? 何かしら途方も無い企みをしているのでは?」

 そんな声が挙がっていたのだ。
 諸外国からすれば不可能、無駄なことと思われような事業、政策でも、それが後に途方もなり成果として現れ、今の日本を築き上げたという事実も、その声を 助長させていた。

(確かにヨーロッパから奴らを追放するのは、我々の悲願でもある。しかしそれは再起を与えるためのものではない)

 日本人の支援の下、ポーランドが北米の地で強大な国家(それも反独)として再生するということも十分にあり得るのではないか……そんな疑念がヒトラーの 脳裏に過ぎる。しかしポーランド人の問題を早期に解決できる方法でもあるというのが彼にとって悩ましかった。

「………」

 暫し沈黙した後、ヒトラーはカイテル元帥に『ドイツの切り札』の現状を尋ねた。
 一瞬、何故その話題が出たのか判らなかったカイテルだったが、答えを考えるよりもまずはヒトラーの機嫌をとるように「量産計画は軌道に乗っています」と 答えた。しかしその後、答えたカイテル本人を含めた出席者達は、ヒトラーの意図を察した。

「総統、まさかポーランドの反乱鎮圧のために……」
「……」

 ヒトラーは苦虫を百匹を噛み潰したような渋い顔で頷く。

「反乱の早期鎮圧のため、我々が反乱に対して容赦しないという姿勢を示すため、そして日英に対してメッセージを送るためだ」

 ヒトラーも『切り札』……『化学兵器』を使いたくない。
 第一次世界大戦で自分を失明寸前に追いやった兵器を彼は嫌っていた。史実ではユダヤ人殺害にも化学兵器だけは使わなかったと言われる位に。 しかしこの状況に至り、彼は使用を決断することになった。

(欧州を原子爆弾の惨禍から救うために、我が国の意思を見せる)

 ドイツは必死に富嶽への対抗手段を構築しつつあったが、それとて万全ではない。
 さらにあの忌々しい弾道弾に対する防御方法など存在しない。アレに核が搭載されれば、欧州枢軸は危機的状態になる。日本側は今のところ核を 積極的に使う意思はないようだが、それが永遠に続くとは限らない。メキシコのメヒカリにのような地獄が欧州の地で再現される事態は避けなければ ならないとヒトラーは考えていた。

(幸い、夢幻会とやらは欧州を核の惨禍に晒したくないと考えているようだが……)

 夢幻会の情報はすでにドイツも察知するところとなっていた。
 さすがのヒトラーも、この秘密結社の存在に驚愕したが、同時に日本が躍進した理由に納得もした。そして夢幻会が比較的、穏和な組織であるとの 情報にも安堵した。夢幻会に属する嶋田元帥は表向きは強硬派であるが、ドイツを核攻撃するほどのタカ派ではないことも彼を安心させた。
 しかし夢幻会がいつまでも主導権を発揮できるか判らないし、夢幻会内部でも日本が優位な内に第三次世界大戦を仕掛けようとするタカ派が台頭するかも 知れないことを考えると将来も安泰とは限らない。最悪の事態は常に想定しなければならないのだ。
 最悪の事態を防ぐために一番有効なのはドイツ側も核兵器と日本本土を攻撃する手段を持つことなのだが、現状ではどちらも不可能だった。 デーニッツは日本近海に進出させたUボートから化学兵器を搭載したロケットを人口密集地帯に発射するというアイデアを出してはいたが、報復と してはまだ弱すぎる。
 このため現在、ヒトラーが考えているのが日本の同盟国、友好国を人質にとることだった。

「お前らが俺達を核攻撃するなら、化学兵器を用いた無差別攻撃で北欧諸国とイギリスも道連れだ! 北米防疫線も崩壊させる!」

 嶋田たちが聞けば頭を抱えるだろうが、自国が劣勢と判断していたヒトラー本人は大真面目だった。そしてドイツがその気になればイギリスや北欧の 大都市を軒並み死滅させることが可能だった。ドイツはそもそもその手の兵器では世界でも最先端であった。また万が一に備えてサリンなどの神経ガス の生産も進んでいたのだ。この反乱で大規模に化学兵器を使用することで、ドイツがすでに十分な報復能力を有していることを示す……それがヒトラーの 狙いだった。

「で、ですが総統、大規模な反乱とは言え、化学兵器を使うほどでは」
「化学兵器がなくとも鎮圧は可能です。それに日本人の提案に乗って、ポーランド人を北米にたたき出せばコストは安く済みます」

 側近から反対意見も出るがヒトラーは頭を振って、それらの意見を否定する。

「鎮圧した後が問題なのだ。このままでは我々はポーランド以外でも大兵力を張り付かせる破目になる。そうなれば核開発がますます困難になる」

 ヒトラーの視線を受けた側近達は次々に沈黙した。

「メヒカリで起きた惨劇を、我が国で起すわけにはいかんのだ」

 『公式上』、世界で最初の被爆地となったメヒカリには各国から調査団が派遣され、その現状が調査された。
 そこで各国関係者が目にしたのは目を覆いたくなるような地獄絵図であり、後遺症に苦しむメキシコ人の姿だった。ドイツの科学者の中には 遺体や被爆の後遺症で苦しむメキシコ人に嬉々としてメスを入れる物もいたが、多くの人間はあまりの惨状に絶句した。
 そしてヒトラーも、メヒカリの惨劇で絶句した人間の一人であり、核兵器を化学兵器と同様に危険な兵器と認識した。しかしそれゆえにその危険な 兵器への対抗手段、すなわち核兵器を保有していないことにヒトラーは焦ったのだ。
 自国も開発に着手できていたなら、まだ焦らなかっただろう。だが今のドイツでは膨大な予算を必要とする核開発は不可能だった。その現実が ヒトラーに最後の一押しをすることになった。彼には祖国・ドイツを守る義務があるのだ。そのためなら劣等人種を生贄にすることを躊躇わない。

「日本が徒に核を使うようなら、我々もあらゆる手段で反撃する用意がある。それを見せ付けるのだ」

 独裁者によって方針は決した。





 暴動発生から1週間後の1月16日。
 この日、嶋田はオーストラリアのオーストラリアの首都キャンベラに居た。
 ホテルの一室からキャンベラの光景を見ながら、帝国首相・嶋田繁太郎は列強筆頭の帝国の宰相らしからぬ安堵のため息をついていた。

「オーストラリアが漸く態度を変えたおかげで南は何とかなるな」

 テーブルの向い側にいる特使・松岡洋右も同意する。

「はい。ただし豪州軍への梃入れも必要になりますが……」

 嶋田はその台詞を聞いて笑った。ここに居るのは夢幻会に属する二人だけ。故に独裁者という仮面をつけずに嶋田は話す。

「インドネシアが色々と文句を言うでしょうが……インド洋や南太平洋の安定化のためなら安いものですよ。南太平洋にまで来た甲斐もある」

 政府専用機の富嶽で嶋田がオーストラリアに乗り込んできたのは、オーストラリア首脳との会談のためであった。
 来るべきインド方面の混乱に備えるため、少しでも味方が欲しい日本としてはオーストラリアは何とか味方に引き込んでおきたい相手だった。 確かに現状のオーストラリア軍は、強敵ではない。日本がその気になれば叩き潰せる相手だろう。だが味方に引き入れて梃入れすれば、心強い軍になる存在でも あった。手が足りない日本としては魅力的な存在だった。
 さらにオーストラリアは食糧生産でも魅力があった。日本が緑の革命の恩恵を与えることで、オーストラリアの食糧生産能力がさらに伸びること も期待された。
 今のところ、緑の革命に関する拠点(研究施設)はフィリピン、カリフォルニアなどに建設される予定だったが、オーストラリアの態度次第では オーストラリアへ優先的に技術供与を行う事も夢幻会は考えていた。

「まぁ我々が支援したオーストラリアとインドネシアが衝突しないように手を打つ手間を考えると、また仕事が増えたと言えなくともないですがね」
「下手な手を打つと反日感情が爆発しかねません」
「判っていますよ。自分で育てたオーストラリア海軍に手を噛まれたくない」

 オーストラリアの反日の理由の中には、白人の文明とは異なる異種文明(それも自国より強大)への恐怖に加え、その異種文明が自国の隣にある 東南アジアの原住民(インドネシア人)に露骨に肩入れしていることもあった。
 元々、オーストラリアは原住民(有色人種)を駆逐して成立した国だ。その彼らが有色人種の復讐を恐れないわけが無い。ましてオーストラリアと 同じような形で成り立ったアメリカ合衆国と言う頼れる大国が津波というアクシデントがあったとは言え、有色人種(日本人)との戦いに敗れて崩壊 したのだ。彼らがどの程度恐怖を覚えていたかは言うまでも無い。
 そんな状況で、日本はインドネシアを武力と黄金を背景にオランダから譲り受けて、傀儡国家(オーストラリア人主観)を建国する準備に入っている と聞けば、次の標的は自分達と思うのも無理の無いことだった。
 オーストラリアの近くに、頼りになる白人国家があればまだオーストラリアも安心できたかも知れないが周囲にそんな国は無い。宗主国のイギリス などは日本に歯向かえない有様だった。
 このため彼らは独自に自分の身を守れるような軍事力、特に海軍と空軍の整備に乗り出していたのだ。
 しかしその軍備拡張も、イギリス本国の危機的状況によって躓いた。イギリス本国は尻に火が付いた状況であるにも関わらず、ポーランドでの反乱 が起こる要因の一つとなった大寒波への対応で大忙しとなり、南太平洋で緊張を高めかねない豪州の軍備増強に手を貸す余裕は無くなったのだ。
 それでも足掻くオーストラリア人はカリフォルニア政府にも秋波を送り、旧アメリカ合衆国海軍艦艇の売却を打診したのがそれも失敗。空軍の 増強についても上手くいかず、最終的に軍備増強の試みは頓挫することになった。
 このためさしものオーストラリア政府もここに至り方針を転換した。

「日本に与することで、我が国の安全を確保する」

 日本と対抗するのではなく、多少のことには目を瞑り手を組む道を彼らは選んだのだ。
 日本政府内ではオーストラリアの人種差別政策を是正させるべきではないのかという意見も挙がったが、夢幻会側はこれを抑え『内政不干渉』と いうことで妥協した。近衛たちは嶋田が出発する寸前まで不満を漏らす人間達を宥めて回った。

「彼らがその血で帝国の利益を齎すなら、その代償も必要だろう。白人優位の世界に篭りたいなら篭らせてやれ」
「公的な差別をなくしたカリフォルニアとは実利面で差別化を図ればいい。公的差別がメリットに繋がらないとなれば彼らも考えを改めるだろう」

 嶋田も「いずれは飴と鞭で切り崩せるから、そう慌てるな」と宥めて回り、その結果、彼はここで松岡と会話をすることになったのだ。些か 強行スケジュールだったが、自国の足場を固めてドイツとの交渉をより優位に進めるためにも嶋田は精力的に動いていた。

「我々にもう少し余裕があれば、もっと強気の交渉もできたが……これが日本の限界といったところか」
「これ以上、勢力圏は拡大できないと?」
「その余裕があったら、インドはもっとスマートな形で解決できていますよ。次に本格的なアクションを起すのに数年は猶予が欲しいところです」

 インドで焦土戦を行うのは、それだけ日本側も苦しいという証だった。

「アラスカ、ハワイといった新領土の運営もあるし、台湾、樺太の内地編入も進めなければならない。それでいて一連の天災への対応。 全くもって気が休まる暇も無い。それでいてインドと北米で枢軸と睨みあいだ。一体、どれだけの仕事を並行してやらなければならないのやら」

 台湾、樺太では内地編入を求める声が高まっていた。
 さらに朝鮮半島への植民がない分だけこの地域への日本人の植民が活発に行われていた。よってこれらの地域の日本化は進んでいた。

「大蔵省や陸軍省では台湾を自治領化したいという声があったそうですが」
「負担が大きいのが理由です。しかし昨今の異常気象の影響を免れている台湾では安定した食糧生産を行えたという実績から内地への 編入は必要だとの意見が強かったので今回のようになりました」
「……」
「一部では、北米の穀倉地帯を支配できないかという意見もありましたが、陸軍が反対しました。まぁ今のところは東南アジアやカリフォルニアでの食糧生産を 梃入れするしかないでしょう。あとは南米」

 日本は南米への介入も進めており、手応えは悪くなかった。ただし問題もあった。

「その南米では最近、支配層であった白人を追い出したいという機運がありまして。日本人にやれたことが俺達に出来ない道理はないと」
「……」

 嶋田は思わず頭痛を抑えるように額に手を当てた。そんな彼の態度を見て、慌てた松岡は続ける。

「勿論、我々はそのような過激な動きを制止しています。エリート階級であり富裕層である白人を追い出しても百害あって一利なしですし……そもそも現地では 混血も進んでいますので下手な排斥は混乱を生むだけです。幸い、向こう側にも理解してもらえました」
「ま、まぁ混乱が拡大していないなら問題ないでしょう」

 「はぁ〜」とため息をつく嶋田。

(どいつもこいつも……連中は我々と白人世界に全面戦争をさせたいのか?! 日本国内でも頭のめでたい連中はいるし……ああいった連中が 手を組まないように目を光らせておく必要があるな。後は北欧諸国を仲介として欧州国家との交流を行って見聞を広める事業をさらに進める必要があるな)

 フィンランド、スウェーデン、そして独立を回復したノルウェーは日本と友好関係を結んでいた。
 イギリスの裏切りや、中国やアメリカ、ソ連の陰謀によって外国に不信感を持つようになった日本国民も、冬戦争で共に血を流し、最後まで日本支持を 表明してくれたフィンランドへは特に好感を持っていた。このため盟友フィンランド、そしてその友好国であり国際機関がおかれた関係から中立国となった スウェーデンを介した欧州諸国との交流は可能だった。ちなみに中立国として有名だったスイスは枢軸に囲まれた上、枢軸の外交、経済攻勢から中立国としての 立場を失いつつあった。日英も枢軸側の勢力圏に取り残されたスイスを支援する余裕も意思もなかった。このためスイスの枢軸加盟は時間の問題と言われている。

(フランスとドイツは今のところ、論外だから交流するとなるとイタリアか?)

 何故か国家を擬人化した某漫画のキャラが頭に浮かんだ嶋田は、とりあえずその画像を振り払うべく頭を軽く左右に振った。

「……かつての強敵が頼りになる『友』になる、か。全くどこの少年漫画だ?」

 かつて嶋田はイタリアに赴任したことのあるため、いくらかのツテがあった。現時点で日伊の交流は実現する可能性は十分にあった。

(……歴史の神はよほど皮肉がお好きなようだ。それとも歴史を修正不能なまでにひっくり返した人間への回答か?)

 しかし嶋田にはそんなことを長時間考える暇は無い。
 この会談を無事に終えたら、すぐに日本本土に戻り、欧州情勢に備えなければならないのだ。

「忙しくなるな……」

 オーストラリアから日本に戻った嶋田は確かに忙しくなった。
 ドイツがポーランド人に対して化学兵器を使ったという凶報によって。









 あとがき
提督たちの憂鬱外伝 戦後編10をお送りしました。
ヒトラーは嫌っていた『切り札』を使います。史実でもヒトラーが使用を決断していれば大戦はもっと悲惨なことになっていたでしょう(冷汗)。
悪名高いサリンを筆頭に、強力な化学兵器が見せしめとばかりにポーランドを襲います。
恐るべき威力を持つ原子爆弾への恐怖と、それへの対抗手段の構築が遅れていることへの焦り、相次ぐ天災による復興の遅れなどがヒトラーの背中を 後押しした形です。
夢幻会はあれほどの苦境の中で追いすがってくるドイツに恐怖を抱き、ますます歩みを速め、一向に追いつけないドイツは日本への恐怖を抱き、さらに 前に進もうとする。恐怖の連鎖といったところでしょうか。 さてカリブ海演習は開催できるのだろうか(汗)。
それでは戦後編11でお会いしましょう。