西暦1944年12月7日。
その日は後世でも有名な地震『東南海地震』が発生する日でもあった。だが幾ら転生者がこの地震が起こると判っていても、戦時でない以上は
帝国政府も露骨に強権を発揮できない。夢幻会の影響力をもってすれば、軍部と議会を動かすこともできるが、ただでさえ色々と諸外国から注目されて
いる中で、わざわざ相手の不審を買うような真似は出来ない。このため打つべき手は事後対応のものしかなかった。
そんな中、11月15日に行われた『第二次満州事変の真相の暴露』、そしてその後、各地で発生した漢人によるテロが絶好の口実を与えた。
「漢人によるテロが計画されているとの情報を掴んだ」
日本帝国政府は12月5日に緊急発表を行い、非常事態が宣言された。
「この忙しいときに弾劾した甲斐がありましたね」
「山本たちも不審に思わなかった」
首相官邸の執務室で嶋田と辻は胸を撫で下ろしていた。嶋田は机で安堵の息を吐き、辻は嶋田の正面に立ったまま軽く笑う。何はともあれ
安心したとばかりに椅子に体を預けた後、嶋田は気分転換も兼ねて引き出しから知恵の輪を取り出す。
「阿部さんは?」
知恵の輪を玩びながら嶋田は尋ねる。辻は新たな嶋田の趣味に意外そうな顔をした後に答える。
「張り切っていますよ。田中さんも共産主義者や反政府主義者、カルト宗教団体に加えて東遼寧にいる抗日組織もまとめて処分できると言っていました」
「そう言えば阿部さんは根っからアカが大嫌いでしたね……」
「内務省が警察を握っている間に少しでもアカを狩りたいのでしょう。一応、物には限度があるとは釘を刺しておきましたが」
日本帝国は巨大化した勢力圏の再編成を急ぐ一方で、官庁再編も水面下で進められていた。
中でも内務省はあまりにも巨大になりすぎるという事で、その権限の一部を別の部署に移すことになっていた。内務官僚たちには反発する者も
いたが飴と鞭で切り崩された。また今後の世界情勢から情報局、軍、警察の連携が必要との説得もあり、最終的に内務省の傘下にあった警保局は
『大本営の一員』である内閣総理大臣が管轄する内閣府の下に移されることが決定した。
「政治家先生と外務官僚、ソ連、ああそれと支那の住人達には感謝しましょう。彼らのおかげで移管が後押しされたんですから」
「おかげでこちらの仕事量は大して減りませんでしたがね。折角、軍令部総長を古賀さんに押し付けたのに。これでは後継者育成も出来やしない」
関係者には「軍部と中央情報局を掌握した上で警察まで掌握するつもりか!?」と詰問する者もおり、諸外国では「独裁体制の完成か?」とまで囁かれた
程だ。当の本人は今後の世界情勢に対応するためと言ってその正当性を主張したが、『国民から支持を受け、さらに軍部に顔が利く男が警察まで握る』という
事実があると色々と痛くも無い腹を探られるのは避けられなかった。
「これから厚生や労務も切り離せれば良いが……まぁ簡単には権を手放さないのは目に見えている。全く官僚から権限を取り上げるのは色々と骨が折れる」
「あまりやりすぎれば面倒なことになりそうですからね。それに阿部さんの立場もありますし」
2人ともお互い高級官僚(海軍、大蔵)であるが故に相手が如何に手強いかを理解していた。
「それにしても、漢人があのタイミングでテロをしてくれたのは僥倖でしたよ。何しろ『東南海地震』が史実と同規模、同じ時間に起きるかどうか
断言できないのですから」
衝号作戦以降、史実の気象データは役に立たなくなっていた。
そして夢幻会が更に恐れていたのは、あの大噴火によって地震などにも大きな変化が見られることだった。地球の反対側の事象とは言え、今後も影響が
絶対にないとは限らないのだ。漢人のテロを口実に怪しまれること無く軍と警察を事前に動かせたのは彼らにとって幸運と言えた。
「これまでの地震は史実どおり。しかし今後も同様かは判らない……全く先の見えない未来ほど恐ろしいものはないとはよく言ったものですよ」
「後ろ歩きで未来に向かって進むのが人の本来の姿ですからね。我々は『手鏡』で前方の情報をある程度知っていたから、ここまでこれましたが」
「その手鏡は、あの巨人を倒すために使って割れてしまった……」
「仕方ありません。あの巨人を倒すためには、相応の代償は必要ですよ」
「等価交換という奴ですか」
「どこぞの錬金術師が言っている通りなのでしょう。何かを得ようとするなら、何かを支払わなければならない。社会の基本ですよ。それに『ただ』ほど
高いものはないという言葉もありますよ」
「……やれやれ、どこに行っても世知辛い話ばかりですね」
「世の中、そんなものですよ。それにそんな旨い話があってもそうそう人には話さないでしょう。利益は独占。不幸は押し付けあうのが人なんですから。
尤も我々は人のことをあれこれ言えませんよ。何しろ我々は日本に降りかかる不幸を、倍増して世界に押し付けたとも言えるのですから」
これを聞いた嶋田は同意するように苦笑して呟いた。
「不幸を他国に押し付けて一人勝ちしているおかげで、妬みや憎悪も買っている。ますます他国に弱みは見せられない」
彼らが天災対策に注意を払うのも、他国に弱みを見せないためだった。日本が弱体化したと見られては、列強には舐められ、影響下の国々は動揺する。
そうなれば勢力圏が侵食されかねない。
「間に合わなかった決戦兵器『疾風』をうまく宣伝すれば、枢軸への牽制にもなるでしょう。それに連山改にかわる機体の存在を聞けば……」
「うまくいってもらわなければ困りますよ。どれだけ軍事予算に金を使っているか判っています? まして現状で再戦は絶対に御免ですよ」
「……判っていますよ。こちらも再戦なんて御免ですからね」
疾風のジェットエンジン開発で得た技術を利用した新型高速爆撃機開発計画を陸海軍共同で進めていた。
しかし相次ぐ新兵器開発と生産は予算の圧迫も招いており、大和型が完成するまでは『見せ金』として保持するつもりだった長門型戦艦も予定より早く
退役せざるを得なくなるのではないか、との声が挙がっていた。
長門型を除けば戦艦と巡洋戦艦と言ってもよい超重巡洋艦あわせて4隻のみ(最盛期の3分の1以下)となる戦艦派は不満だったが、大和型戦艦2隻の
建造を勝ち取った以上はそれ以上の贅沢は言えないのが実情であった。
尤も一方の空母派も戦艦のせいで予算が圧迫されると不満を持っていた。しかし対艦ミサイルなどの新装備が完成し、信頼できるレベルに達するまでは
相応の時間が必要であり、その間の空白の期間を埋めるためには大和型の保有も止む無しとの意見だった。さすがの航空主兵論者も飛行機の傘の下、満足な
護衛艦を伴って行動する大和を撃沈できるとは言えなかったのだ。史実米海軍のように戦術核に傾倒するつもりは彼らにはなかった。
何はともあれ、日本軍全体が「金がない」の一言に尽きた。他国の同業者が聞いたら「贅沢言うな!」と激怒するだろうが、当事者からすれば深刻な
問題だった。
「人材チート揃いのドイツ軍と全面戦争を戦うとなると現状では心細い。何しろ我々にはアメリカほどの補充能力はないですからね。
小規模の戦いでも相応の被害を覚悟しなければならないと言うのが軍部の考えですが……」
「物には限度というものがあるのですよ。史実米帝の真似事は『絶対』に無理ですので、今の予算の中でやり繰りしていただかないと」
「やれやれ、現場から怨嗟の声が聞こえてきそうだ。火葬戦記なら日本やドイツも化物じみた戦艦やら空母やらを量産しているのに」
「まぁこの国でも出来るでしょう。建造費用と維持費用でソ連のように国を傾けるつもりなら」
当然だが、辻が言う『ソ連』とは『史実のソ連』を指す。何しろこの世界のソ連は史実ソ連の末期よりさらに悲惨であり、市民生活はお世辞にも
良いとは言えない。金も資源も日本に吸い取られている最中であり、もはや夢幻会の面々が知るような強大な陸軍を編成する力も無かった。
そして化物じみた国力で米帝と恐れた史実の超大国も、もはやこの世界では悪評と共に歴史書に乗る存在でしかなかった。
「そう言えばソ連ですが、彼らの返礼はどうします? 必要以上に彼らに実利を与えるのは気が進みませんが」
嶋田の問いかけを聞いて辻は少しだけ逡巡する。
「……第一次満州事変の影響で低下した北満州でのソ連の影響力を戻すことを認めれば良いでしょう。我々は一銭も失わずにソ連に謝礼を言えます。ソ連指導部は
大きな得点を得られる。列強も狂人が奪ったソ連の権益が元の状態に戻るだけと言うことで難癖はつけないでしょう。北満州で人狩りをしてもらえれば向こうも
『静か』になり、理想的なWIN−WINな取引になります」
「まぁソ連がそれでも不満なら漢人によるテロを口実に多少国境線を引き直しましょう。さすがに北満州をソ連が領有するのは陸軍の反発もあって
認められませんが、一部を削る程度なら問題ないでしょう。ああ、ついでに大陸の住人には反ソ連感情も持ってもらい抗日よりも反ソになってもらったほうが
有難いですね」
旧アメリカ人には裏切り者・中国人を恨ませ、中国人には旧アメリカ人と漢民族を奴隷にするロシア人、そして同胞を売り渡して利益を貪る奴隷商人を恨ませ、
ロシア人にはドイツ人を恨ませる……それが日本にとってはベストだった。
(まぁそこまでうまくはいかないだろうが……やらないよりはマシだろう。不満の捌け口は必要だからな)
知恵の輪で戯れつつも、人の機微を利用したドス黒い戦略を考える嶋田。それが判ったのか辻は笑った。
「やれやれ、我々も今やフィクションの世界では正義の味方によって滅ぼされるべき悪の組織ですね。世界の半分を滅ぼし、残った世界に火種をばら撒き、
それさえ利用して富を収奪している。全くここまで悪辣な組織はそうそうないでしょう」
「悪を滅ぼすのは、正義ではなく、より巨大な悪でしかありませんよ。この世には『アメリカ人』や『子供』が信じるような『絶対の正義』など存在しませんからんね」
「判っていますよ。冗談です。さて、もうそろそろ仕事に戻りましょうか」
そこで丁度、知恵の輪が外れる。だが嶋田は同時に面倒な仕事の数々を思い出すと爽快感を感じることが出来なかった。
「やれやれ。こうも時間と仕事に追われるとは。全く、独裁者って何なんでしょうね?」
知恵の輪に視線を向けつつ嫌味っぽく言う嶋田だったが、辻は気にもせず答えた。
「強大な権力を持った調停者じゃないですかね。まぁこの国では権力の後に(笑)がつくかも知れませんが」
「それは笑えませんよ」
「とりあえず笑っておけばいいと思いますよ。笑う角には福来るという言葉もあります」
「……『福』なら良いんですがね。私の場合は『腑苦(胃痛の意味で)』のような気がしますよ」
「座布団が持っていかれますよ。まぁ捉え方にも依るでしょう。ようするにポジティブシンキングが重要と言うことです。おっと、逆境に強い嶋田さん
には釈迦に説法でしたかね」
実に意地の悪そうな顔をする辻。しかしさすがに耐性が出来たのか嶋田も揺るがない。
嶋田は分解した知恵の輪を机に置いた後、言い返す。
「ポジティブなのも時と場合によるでしょう」
そんなやり取りが国の頂点付近で行われているなど露も知らないまま、多数の国民は12月7日の『東南海大地震』を迎えることになる。
提督たちの憂鬱外伝 戦後編8
西暦1944年12月7日に日本の東海地方で大地震が発生したとの情報は瞬く間に世界に駆け巡った。
大西洋大津波の記憶が生々しい中、地震と津波で日本が大打撃を受けたとの報告を聞いた白人と大陸の住人の中には喝采を挙げた者もいた。事実上一人勝ちを
している日本に対する天罰だ、とさえ言う人間がいるのだから日本が如何に妬まれているかが判る。
「今こそ、日本鬼子に鉄槌を!」
日本領に組み込まれて鬱憤を貯めていた東遼寧の住民や租界の住人の中に紛れていた反日派はこぞって蜂起した。
日本が大きな被害を受けたとのニュースを受け取った者達は「今が好機」とばかりに動いたのだ。尤もそれが日本側の罠であったことは言うまでも無かった。
「飛んで火に居る何とやら、だ」
トレンチコートがトレードマークになっている村中少将は皮肉な笑みを浮かべつつ、現場で指揮を取った。
彼らは地震発生後、参謀本部並びに中央情報局から被害状況を知らされていた。東海地方の被害こそ大きいものの、テロを警戒して軍が準備していたために救助活動や
非難は順調に進められること、救援のための増援(連合艦隊第1艦隊含む)がすでに急行していることも周知されており、部隊の動揺は少ない。
逆に日本政府中枢は今回の一件を逆手にとって、11月15日以降、活発化していた反日派を罠に掛けるように指示したのだ。
「各国のマスコミへの配信も怠らないように。連中の間抜けな姿を全世界に晒してやれ」
「はい」
天津で暴動を起した人間達は、動揺しているであろう日本租界に殴り込みを図った。
だがそんな彼らの前に現れたのは整然と行動する帝国軍と租界警察であった。二式突撃銃を構えた兵士たちは、何の躊躇もなくその引き金を引く。
「この火事場泥棒共め!」
第二次満州事変の真相が暴露され、さらに租界で漢人によるテロが多発したことで兵士達の反中感情は天井知らずだった。その中でのこの暴動。もはや
暴徒に対して情け容赦を掛ける人間などいなかった。
情け容赦なく降り注ぐ6.5mm弾の前に、大した武器を持たない暴徒は瞬く間に追い散らされていく。
「畜生、日本人は動揺して反撃して来ないんじゃなかったのかよ!」
「知るか! 今は逃げるぞ! 逃げ切ってしまえばこっちのものだ!!」
装甲車や一式軽戦車まで持ち出して鎮圧する日本軍の姿を見て、邦人たちは安堵し、尚且つ日本の窮状に付け込む支那の住人への怒りを露にする。
「何て非道な連中だ! そこまでして日本を滅ぼしたいのか!!」
「あんな連中とは共存なんて出来ないな……情けをかけることさえ害悪になる」
避難先のビルの一角では反中感情が否応無く高まっていた。11月15日の発表で対中不信が煽られているのだ。その状態でこの暴動。
燃えあがっている反中感情にガソリンが注ぎ込まれるのは当然の流れだった。
「そういえば支那人に騙された外務省の役人もいたそうだが……」
「ああ。閑職に回された後、退職だそうだ。もう外務省に居場所も無かったらしい」
「馬鹿じゃないのか、外交官なのに騙されるなんて」
「それだけ支那人の交渉能力が高いということだろう。知り合いの会社の話なんだが……」
次から次への暴露される悪行の数々。それを傍で聞いていた人々は、目の前で起こる暴動の影響もあってそれをあっさり信じた。
勿論、それは日本国内でも同様だった。地震と津波で日本が弱ったと判断した支那人が反日暴動が起したことが伝えられられると、反中感情は
ますます確固たるものとなった。
「華北の一件はこれで終わりだ。華南人と福建人も諸外国の目を気にして下手な行動は取れなくなる」
貴族院の議場で報告を聞いた近衛はそう呟いた。
近くに座る男達も一様に小さく頷き、一人の貴族院議員が小声で囁くように言う。
「東遼寧の現地人を叩き出す法案も容易に可決されるでしょう」
「密入国を手引きする者も少なくありませんでした。これで煩わしさは消えます」
日本が中華民国から割譲させた東遼寧では、日本の支配に反発する現地人が少なくなかった。
日本政府は『日本人としての義務を果たせば権利を保障する』というスタンスだったのだが、大陸出身者は日本人が自分達の故郷で大きな顔を
するのが我慢できなかった。それに加え、11月15日の発表以来、日本人が大陸出身者に向ける視線は厳しくなっており、それが両者の間に更なる
隔意を生んでいたのだ。
加えて日本の支配に反発しない人間の中には、親族を東遼寧に呼び寄せようとする者もおり、色々と頭の痛い問題を呼んでいたのだ。台湾の
ように同化政策を取るという提案もあったが華僑系の工作拠点にされる可能性があることや租界でのテロなどが問題視され国外退去処分の執行が
内々に決定されていた。今の日本に不穏分子を放置する余裕はないのだ。
しかし将来を見据えて、国外退去処分を実行するにはもう一押しが必要と判断された。だから夢幻会は今回の地震を逆手に取ったのだ。
「北京はどうなっていますか?」
この問いに近衛は満足げに答える。
「同胞達を引き受けると言っている。移送は問題なく進むだろう」
「なるほど。それにしても朝鮮が思ったよりも静かなのが驚きです」
「あの皇帝は決して暗愚ではない。半島の人間にもまともな人間は居るということだ」
驚くべきことに朝鮮半島では暴動は起きていなかった。
戦中から戦後にかけて行われた反日派の狩り出しで反日派が大打撃を受けたこと、第二次満州事変の真相発表で反日派=支那の手先とのレッテルを
張られるようになっていたこと、そして日本こそが新たな『中華』との印象が強まっていたことから反日暴動を起すのは自殺行為との考えが浸透しつつあった。
また皇帝以下、良識派が必死に反日を抑えているのも大きい。彼らは日本が決して侮れない存在であることをよく理解していたのだ。
さらに近衛にとって頭の痛いことに韓国政府は『大韓帝国』の名前そのものを変更したいと政府に打診していたのだ。彼らは大日本帝国政府と
同格と思われかねない『帝国』の名を外し、自らの格に相応しい『王国』を名乗りたいと申し出たのだ。
(後に生まれるのは韓王国か、朝鮮王国というわけか)
反日派を処分し、日本に平伏し、帝国の名前さえ自主的に返上するとなれば半島への見方を変える人間も出てくる可能性があった。
少なくとも必要以上に半島を叩く政策は採りにくくなるのは確実だった。「まだ反日を掲げてくれた方が対処が楽」というのが近衛の本音だった。
何しろ相手は「敵にすると頼もしく、味方にすると恐ろしい」存在なのだ。
「……侮るな。半島と大陸の住人は決して侮ってはならん。侮りは油断を招き、連中に付け入る隙を与えることになる」
「私達も衆議院議員の二の舞は御免です」
「まぁ鼻息が荒かった連中が多少静かになったのは、僥倖でしたが」
世間には貴族院を「保守派の牙城」、「反政党の牙城」などと言う人間もいたが、華僑に篭絡された議員が出たという報道から衆議院議員に対する国民の
目が厳しくなったこともあり、衆議院の威勢も幾分小さくなっていた。当然、貴族院に属する議員の溜飲が大いに下がったのは言うまでも無い。
片や衆議院では篭絡された議員とその所属政党への攻撃が行われると同時に、次の選挙に向けて対中強硬政策を掲げる政党が増えていた。
「あとは諸外国による工作を防ぐための法整備。これも手は抜けん」
近衛が有志達と押し進めている法案の中には、諸外国による国内への工作を阻止するための物があった。
そしてそれは単にドイツやフランス、ソ連などの有力な仮想敵国だけでなくイギリス、福建共和国、カリフォルニア共和国、華南連邦、東南アジア諸国などの
味方とされる国々からの工作を防止するための法案でもあった。
「アメリカの二の舞になるのは嫌でしょう?」
近衛はチャイナロビーによって対日強硬路線をとったとされるアメリカの先例を出して、周囲を説得していた。
加えて大量の移民を受け入れていたアメリカが、最後には無惨に瓦解したことも近衛にとっては有難かった。労働力の不足を補うには移民も必要では
ないかという意見もあったのだ。そのような意見を封殺するには移民大国アメリカの末路は恰好の先例だった。
「期間限定の出稼ぎ労働については受け入れを考慮しても良い。だが安易な移民の受け入れは絶対に阻止する」
史実のEUでの移民問題を良く知る人間としては、安易な移民受け入れなど自殺行為でしかなかった。今は苦しいかも知れないが、今は耐え凌ぐべき時期と
いうのが近衛の判断だった。会合もその判断は支持している。「産めよ増やせよ」の推進と共に、子育てのための支援も拡充する予定だった。
「まぁ何はともあれ、今は復興対策を最優先だ」
1944年以降から起こるであろう大災害に対処するため、日本政府は事前に予算や物資をプールしていた。あとはその予算を執行するための
手続きが必要なだけであった。
「復興を進め、この程度の災害では日本には付け入る隙は生まれない……諸外国にそう思わせることが重要だ」
この後の日本政府の迅速な対応は、日本政府の危機管理能力の高さを示すものとして語られていくことになる。
当然、日本の弱みに付け込もうとした者達の行動も後の世まで語り継がれることになり、21世紀以降も大陸出身者(特に華北出身者)に対して
厳しい視線が向けられる理由となっていく。
そして帝国の政策決定へ外国(特に大陸)が関与することを嫌悪する傾向は華南連邦や福建共和国による各種の対日工作を大いに阻害し、一部の不逞の輩が
望むような野望を阻止していく一助となった。
確かに大陸出身者は策謀に長け、交渉でもタフだった。しかし相手が交渉と言うテーブルにさえ上がることさえ避けるようになり、さらに力ずくも難しいと
なれば打つ手は限られるのだ。さらに言えば華北の愚行によって、華北出身者と同じような工作は絶対に出来なかった。何しろ同じことをすれば華南や
福建も華北と同レベルと扱われかねない。大陸が失った信頼と信用はそれほど大きかった。
「華北の馬鹿共が……」
彼らに残されたのは僅かな裏ルートと、正攻法による交渉だけだった。
大陸住人がいくら金を積んで賄賂を贈ろうとしても、贈られる側がそのことをネタに強請られかねないと思われたら話にならないのだ。裏の交渉でも信頼と信用
は必要不可欠なのだ。
そして日本人さえこれだけ反応が出るほどなのだから、白人達が大陸に向ける感情や視線がどれほど厳しいかが判る。
東西の境界に位置するトルコ。
親日国でありながら、枢軸との関係が深いこの国は日英と欧州枢軸が接触するには丁度良い位置にあった。
イギリス人とドイツ人、そして日本人の男性3人はイスタンブールにあるホテルの喫茶店で茶を飲みながら、ラジオニュースで報じられる暴動の様子を
聞いていた。チューリップの形を模した小ぶりのグラス『チャイバルダック』で甘い紅茶を飲み終えた後、男達は口を開いた。
「この程度の情報で引っ掛かって暴動を起すとは……呆れて物も言えん。日本人が侮れないことは判っているだろうに」
「所詮、中国は古臭い歴史と無駄に多い人口しか自慢がなかったということだ」
イギリス人は呆れたような顔をし、ドイツ人は二度目の醜態をさらした大陸の住人達を嘲笑った。
「おや、良いのですか? そのような言い方は重慶の友人に失礼なのでは?」
「ふん。連中も似たような物だ。あの山奥に引篭もっているが、将兵の士気はガタガタだ。全くあれだけ軍を梃入れしてやったというのに」
蒋介石に軍事支援をしていたのはドイツだった。ゼークト将軍など有力な将校を派遣して、中国軍の近代化に協力していた。しかし彼らの投資は見事に
無駄になった。蒋介石はアメリカの支援を受けた張親子に大敗。今や重慶に引篭もるだけで手一杯だった。市場としての価値は激減していた。
そして蒋介石を追いやった張学良率いる北京政府も瓦解して、支那は戦国時代に突入していた。残る有力勢力は日英側。ドイツは大陸への足がかりを
殆ど失っていた。蒋介石を支援しようとしても、下手な行動を起せば華南連邦にあっさり潰されてしまうのだ。彼らは日英の黙認の下、ほそぼそと商売
するのが手一杯だった。
「アジアで我々に対抗できるのは君達だけということかな」
ドイツ人から最大の賛辞を送られた日本人は、「いえいえ」と首を横に振る。
「日本がいくら急速に発展していると言っても、一国で白人世界全てと対抗するのは難しいでしょう」
「謙遜は日本人の特徴ですが、それも過ぎれば嫌味になりますよ」
イギリス人の発言に、日本人は苦笑する。何しろ日本帝国はその気になれば列強海軍全てを叩き伏せることが出来る海軍を保有しているのだ。
さらに超重爆富嶽と核兵器が組み合わされば、欧州列強と言えども唯では済まない……それが彼らの認識だった。
ちなみに三式弾道弾、そしてその後も開発が進められている弾道弾の存在が欧州枢軸の軍人達を焦らせていた。何しろ富嶽に対抗できる
手段さえ未だに開発途上なのだ。『あの』日本人がアラスカから直接欧州を叩ける弾道弾を、それも核を搭載した代物を作らない保証は無い。
((海と空から、世界は連中に支配されるのではないか?))
イギリス人とドイツ人は共通の疑念を抱いていた。
イギリス人の場合は裏切りの代償を払えば、まだ何とかなるが……奴隷制度を導入して、日本人と張り合っているドイツ人は気が気でない。
日本人の威を借りた有色人種たちがこぞって復讐してくる可能性を捨てきれないのだ。
そんな恐れが影響してか一時期のドイツでは超兵器で武装し、白人世界を植民地にしようとする日本軍と戦う正義のドイツ軍(+親衛隊)が描かれる話が
増えることになる。
勿論、夢幻会会合の面々はそのような話を読むと「ねーよ!」と総突っ込みを入れた。
彼らは日本の国益から考えて、有色人種を救うための大戦争など御免だったし、ドイツと張り合うために過剰な軍備を好き好んで保有したいとも思っていない。
しかし日本の爆発的といっても良いレベルの発展、そしてこの度の戦争で見せ付けた圧倒的な力が過大評価に繋がっていた。21世紀には日本が世界を征服する
のではないかと真顔で言って憂慮する人間さえ居るのだから今の日本がどんな目で見られているか判る。
ドイツの外務大臣であるリッベントロップは日本と直接勢力圏を接するのは危険すぎるとさえ主張していた。
「ソ連を潰してヨーロッパロシアと極東シベリアで分割するにせよ、ソ連中央は各民族を割拠させて独日の緩衝地帯とするべきです」
彼はそうヒトラーに進言していた。
一部では弱腰との意見もあったが、日本と勢力圏を接して日本と敵対して戦った国々が悉く滅亡の憂き目にあっていることを考慮すれば彼の意見も
嘲笑することは出来ないものだった。「ゲルマン民族万歳」のナチス高官たちでさえ日本と正面決戦で勝てるかと聞かれれば容易に「勝てる」とは
言えないのだ。中でも頭が痛いのは海軍関係者だった。
日本海軍の空母部隊が大西洋に出てこなくとも、高速潜水艦部隊が暴れまわれば大西洋のシーレーンはズタズタにされてしまうことを理解している
レーダー元帥とディーニッツ大将など、帝国との戦いは自殺行為でしかないと考えていた。
「たとえイタリアとフランスが海軍を整備しても、今の対潜装備では歯が立たない」
折角、膨大な国費を投じて戦艦や空母を建造しても、瞬く間に日本海軍ご自慢の高速潜水艦によって喰われてしまう危険があった。
しかし既存の護衛艦を量産しても、的が増えるだけで意味が無い。イギリス人の対潜装備を参考(パクリ)にして新たな装備を開発しても、大きな
成果は出せないというまさに八方塞な状態だった。これまで商船を狩る側だったドイツ海軍は、守る側となって初めてその困難さを理解できた。
「いっそ、日本から対潜装備を駆逐艦ごと購入できないか?」
冗談半分(半分は本気)でそんな意見すらある程、彼らは追い詰められていた。
有名なポルシェ博士は「今日、予算と人材を惜しんで日本との競争に遅れを取れば、明日のドイツは膨大なツケを支払うことになる」と言って憚らない。
日本から言えば迷惑この上ない過大評価なのだが……その評価が日本に恩恵を与えているのも否定できないのが痛し痒しだった。東南アジアに日本の威光
が届くのも、『欧州枢軸と張り合える(又は恐れられる)有色人種の雄』との看板があるからなのだ。
「まぁ何はともあれ、ご愁傷様です。本国は大丈夫ですか?」
イギリス人の問いに、日本人は頷く。
「ええ。沿岸で大きな被害が出ましたが、初動が早かったので被害は抑えられました。何しろ漢人のテロが予想されていましたから」
幸運でした、と言う態度を取る日本人を2人は胡散臭そうに見る。
しかし確証がない以上、追求はできない。何の根拠も無い馬鹿な陰謀論を展開して、折角築いた関係を壊すのは愚か者のすることだ。まして相手はその気に
なれば欧州に核や化学兵器を投下できる存在。一方で欧州側は日本本土を叩く力はまだない。ドイツはサリンなどの化学兵器を当面の切り札にすることにして
いるが、日本本土に大量に撃ち込む力がないのが大きな問題だった。故に何事も慎重に運ぶ必要がある。
「それにしても、素晴らしい即応体制です。全く、本国にも見習って欲しいものだ」
イギリス人は上から聞いた情報を思い出していた。
「帝国軍と警察は現地に展開。救助活動を開始」
「警戒中の日本海軍第1艦隊が現地に急行。海上保安庁も急行中」
「帝国政府は矢継ぎ早に対応を指示し、日本国内の動揺は最小限に留まる模様。経済、軍事への波及は最小限に留まる可能性大」
様々なルートで情報が流れたが、その多くが日本帝国政府の危機管理能力の高さを物語るものであった。
一方、イギリスとイタリア政府は、被災した日本に対してお悔やみの声明を発表すると同時に人道支援を申し込んでいる。ドイツ人とフランス人も
付け入る隙がないと判断すると直ちに行動方針を切り換えていた。
「大西洋大津波の教訓から、災害への即応体制の整備が必要不可欠であることは明らか。今後は、その分野を貴国から学びたいと思っています」
「イギリスとの関係を強めるのは、我が国にとっても大きな利益になると思っています。それに不幸な行き違いこそありましたが、友好国と思っていますので」
実際には、対英不信が未だに強いのだが……日本人は平然とそう告げた。
世論の動向は確かに警戒しなければならないが、世論を気にしすぎて動けなくなるのは本末転倒だった。
実情を知っているだけにイギリス人も内心では苦い思いをしたが、それを表には出さない。ドイツ人のほうをチラリと見て頷く。
「『今後』のためにも我々の協力はますます重要になるでしょう。紅茶の生産地の代替地の件もありますし」
紅茶の産地であったインドをかき乱してくれたドイツへの皮肉だった。
「新たな主人達も『紅茶』を我々の代わりに買ってくれるでしょうから、彼らは生活できるでしょう。まぁ何かあっても全てあの坊主達の所為ですから
我々はもう関知しませんが」
「我々としては、彼らが我々と同じ立場に立ってくれれば良かったのですが……アレが彼らの選択ですから仕方ないでしょう」
ドイツ人はニヤリと笑う。
インドを枢軸に引き込めたのは、近年稀に見る大成果だった。まぁ周辺地域(セイロン島、パキスタン、バングラディシュ)については日英側へ割譲を余儀なく
されるが、あの亜大陸を支配できるのは大きな利益だった。
尤も彼らは後に思いっきり後悔することになるが。
「何はともあれ、最低、あと3年は現状のままで固定でしょう」
日本人の意見に反対意見は無かった。イギリス人もドイツ人も国土再建で忙しい今、これ以上、他所で小火騒ぎを起す余裕は無かった。
今は民力休養の時期である……これが彼らの共通認識だった。逆に言えば小火騒ぎが起きない程度の工作なら進めても構わない訳であり両者は
水面下で激しい駆け引きを繰り広げていた。中東、インド、アフリカなどがその舞台だった。
イギリス人はもう一度紅茶を飲んだ後、ドイツ人に向けて嫌味を籠めた口調で言う。
「しかしそちらの蛙食いたちは納得しますかね? 東洋の諺で言うなら『二匹目の泥鰌を狙った』動きがあると聞きますが?」
インドの成功に味をしめたフランス人がカナダにも食指を伸ばそうとしていること、そしてそれをイギリスが掴んでいることをイギリス人は暗に
示していた。これに日本人も続いた。
「カウボーイ達も色々ときな臭いと聞きます。疫病の封じ込めを疎かにするのはどうかと思いますが?」
「判っている。何としても止める。こちらもこれ以上、領土を拡張するつもりはない」
「ミュンヘン会談で同じ台詞を聞いた気もしますがね」
痛烈な嫌味だった。
そして彼らの前には、早期にドイツの脅威を見抜いてドイツを潰そうとした国の人間がいた。2人の視線を受けた日本人は真意を掴みにくい
笑みを浮かべつつ口を開く。
「その台詞が履行されることを期待しています。ただ……」
「ただ?」
「先ほどの台詞でもありましたが……二匹目の泥鰌はいないことをお忘れなく。我々は他所の内情に細かく文句は言いませんが、我々の縄張りに
手を出してくるなら……相応のやり方で対応させて頂きますので」
「上に伝えておこう」
席を立つドイツ人。
そのドイツ人に向けて日本人は言い放った。
「カリブ海大演習が中止にならないことを願っています」
カリブ海大演習。それは日本、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアといった世界を主導する国々が参加する演習(実質は観艦式)であった。
メキシコが事実上降伏して2年が経つ1945年5月17日に開催が予定されているこの演習の準備を各国がその威信をかけて進めている。
日本はこの大演習のため世界最大、そして最新鋭の超大型空母『白鳳』、祥鳳型軽空母2隻の3隻を中核とした艦隊を編成。この艦隊を西回りの航路で
カリブ海に集結させることになっている。日本海軍に次いで有力なイギリス海軍は改KGV級戦艦1隻と空母アークロイヤル、ビクトリアスを中核とした艦隊を
参加させる予定だ。
「我々もカリブ海演習の中止は望んでいない」
そして枢軸側の目玉は旧米海軍将兵の協力の下、イタリアが完成させたばかりの最新鋭空母『アキラ』だった。枢軸側は『自分達も空母を運用するようになった』
ということを世界にアピールするつもりだったのだ。尤もその空母は日英だけでなく、枢軸側陣営から見ても『鳳翔』のような実験艦のようなものであった。
欧州側は未だに日本海軍のように空母機動部隊を運用できる水準にまで達していない。だが、それでもある程度インパクトはあり、お披露目を行う意味はあった。
「それでは失礼する」
ドイツ人を見送った後、イギリス人は日本人に尋ねる。
「欧州枢軸は戦力を増強しているようですが、そちらはどう思っているのです?」
「負けはしないでしょう。電子技術では、こちらには及びません。電子戦では間違いなく勝てると考えています。それにアメリカの特許はこちらが押さえました。
おかげでニューヨークの金塊の分配については少々、彼らに譲歩しましたが……将来的には効いて来るでしょう」
レーダー等の開発でドイツは日英側に対して大きく遅れを取っているのは事実だった。
さらに日本はアメリカが持っていた特許を軒並み差し押さえている。これを存分に使えば技術大国ドイツを引き離すことも可能だった。
「ただドイツ軍の将兵の質は侮れません。兵器の質で圧倒できても、油断できない相手と軍は判断しています」
「我々としては、電子技術でも提携したいと思っているのですが」
「我々もドイツと相対するためにイギリスとの協調が必要と考えています。ですが国民の間では未だに不信感が強いので色々と
苦労しているというのが実情です。この状態で、電子技術の分野で提携するのは不可能です。部品の売却すら難しいでしょう」
電探、近接信管、電子計算機などは軍事機密だった。戦前ほどの関係があれば提携も不可能ではなかったが、現状では難しかった。戦場での切り札になる
ことが判っているものを『裏切り者』である英国に渡すと言ったら海軍が猛反発するだろう。彼らは多くの戦友を地中海で失ったのだ。さらに英国は旧式とは
いえ、日本軍の戦闘機を米国に売り渡したという前歴がある。これではドイツに横流しされる危険があると言われても仕方が無かった。
「これ以上、市場を開放せよと?」
「貴国にも養うべき民が居る以上、無理強いはしません。ですが別の形でも良いので、もう少し対応してもらえると助かります。それと貴国でファシスト勢力が
台頭しているというのも懸念材料として挙げられています」
「……本国に伝えましょう」
大日本帝国、大英帝国、ドイツ第三帝国。
水面下で壮絶な駆け引きを繰り広げつつ世界を主導する三大国が主催するカリブ海大演習の開幕は着々と迫っていた。
あとがき
提督たちの憂鬱外伝戦後編8をお送りしました。
東南海地震終了で、1944年のイベントは全て終了しました。次のカリブ海演習の一端に触れました。
大陸問題は今度こそ、これでひと段落になる予定です。
……このぺースで書いていたら何話掛かることやら(汗)。
提督たちの憂鬱外伝戦後編9でお会いしましょう。