1944年11月15日に大日本帝国政府が発表した『第二次満州事変の真相』は全世界に途方も無いインパクトを与え、旧アメリカ合衆国と
中華民国(北京政府)の名誉を完全に失墜させた。特に戦中の行いによって各国から白眼視されていた中華民国の対外信用は、イギリスよりも
低いものになり、世界中から排斥される羽目になった。
さらにチャイナロビーによってアメリカが動かされたことも、殊更に大きく扱われたために、各地に浸透を図っていた華僑も排斥されることに
なった。
「日本鬼子は、我々を徹底的に追い詰めるつもりのようだな」
上海の某料理店では、老人達が苦い顔をしていた。
「我々は清王朝で200年ほど待ちました。あと百年、二百年、待つくらいどうということはありません。次の好機を待ちましょう」
「左様。永遠に繁栄する国は存在しない。かつての王朝のようにな」
「それに今回の一件から、日本帝国の実権を握る者達は大陸封鎖を国是としていることがよく判った。幸い、上海と天津は国際都市として
維持される。陸海の境界線上で力を蓄えて機を待つことは出来る」
男達は今は雌伏の時と判断していた。
「しかし手足をもぎ取られたのは痛いですな」
「さらに福建共和国と華南連邦への浸透工作は頓挫する可能性が高くなった。奴らは我々(華北出身者)を排斥し、それを手柄にして
日本に取り込むつもりだ」
「日本鬼子に尻尾を振るとは……」
忌々しい、とばかりに何人かが首を横に振る。
しかし彼らにそれを止める手段は今のところない。何しろ華北出身者は徹底的に狙われている。さらに華北出身者が築いたコネクションも根こそぎ
破壊されそうな勢いだった。
日本は戦前の報復とばかりに徹底的な反中宣伝工作を行っていた。さらに中華思想や漢民族が幻想に過ぎないとまで言い切り、大陸勢力の分断
を進めていた。華南や福建では、華北の失態に巻き込まれるのは御免被るとばかりに華北と距離をとる動きが相次いでいた。中には積極的に
華北出身者をたたき出す者さえ居る。
「それだけではない。朝鮮人さえも我々を格下に見る始末だ」
「調子に乗りおって」
大韓帝国は、戦争中の裏切り行為の発覚によって準敗戦国のような扱いだった。
そして裏切りに関わった人間が始末されると、大韓帝国には日本の情報機関が後押しする軍事政権が誕生した。誰が見ても日本の傀儡政権だった
が、当の本人達は列強筆頭のお墨付きを得た政府であると喧伝し、それを自負していた。さらに今回の張学良の陰謀暴露で世界の敵となった中華の
住人達を自分達(朝鮮人)より格下の蛮族と呼ぶ者さえいた。
勿論、日本(新たな中華)から離れた位置にある東南アジア諸国を格下と見る動きさえあったが……これについては日本が抑えた。
「前任者の後を追いたくなければ黙っていろ(意訳)」
「次に下手なことをすれば……半島全土が焦土になると思え(意訳)」
日本政府からのメッセージ(警告)を聞いた韓国政府高官は震え上がった。前任者達が、どのような末路を追ったかを知っているからだ。さらに
日本の警告に逆らったメキシコの事例を見れば、軽挙がどのような結末をもたらすかは理解できた。故に大半の人間は大人しくなった。
ただし「水に溺れた犬は叩く」という諺を持つ国が、溺れている最中の中華民国を叩かない訳がなく……彼らは中華民国を散々に酷評した。
韓国政府は日ごろの鬱憤を晴らすかのように、列強や日本に倣って弱者となった中華民国北京政府を叩いていた。
しかし長年、中華の属国であった半島が偉大な中華を格下に扱うという態度を見れば、彼らが腹を立てるのも当然だった。
「虎の威を借りてやりたい放題しおって」
「日本人が、あの国の住人を人間扱いするからこうなるのだ」
力を取り戻したら、この借りは百倍にして返す……彼らはそう誓った。そして彼らは不愉快な存在を頭の隅に退けて話を再開する。
「蒋介石は?」
曲がりなりにもドイツ、日本、ソ連と交渉ルートを持つ男の名前が挙がる。
「重慶に引篭もるだけで精一杯だ。下手に動けば華南連邦に踏み潰されて終わりだからな」
「本人は再起を図って列強から支援を引き出したいと思っているようだが、日本は華南連邦寄り。ドイツは今回の一件で中華勢力から距離を取っている。
望み薄だろう」
かつて巨大な勢力を形成した国民党も、もはや重慶を残すのみ。さらに蒋介石が頼みの綱としていたドイツとの交渉ルートも、張学良の愚行によって
大打撃を受けていた。蒋介石からすれば自分を重慶に追いやり、さらに中華民国と漢民族の名を失墜させた張親子は怨敵そのものだった。
「黄河周辺の軍閥は、食糧確保のために南下。流民も同様。このために中原での衝突は激化しつつある」
「南京では内陸の農村から流れてきた者達が暴動を起して鎮圧されたと聞く。ただ、鎮圧までにかなりの被害が出たようだ」
「各勢力は日本や福建、英国から流す地雷で防戦するようだ。しかしこれでは中原が分断されかねん」
「中原の安定は100年、いえそれ以上は掛かりそうだな。さらに飢餓が拍車を掛ける、か」
住民達によって中華と呼ばれる大地の状況は、途方も無く悪かった。そしてそこに住む住人とその親族達を巡る状況も最悪と言ってよかった。
「……思えば、第一次上海事変がケチの付き始めでしたな」
あの事件には中国共産党、ソ連の扇動も絡んでいた。だが国民党はそれに便乗する態度を取った。おかげで日本の行動は列強から是認され、
さらにアメリカが押す奉天派が急速に台頭した。そしてそれが英国の警戒を呼び、華南連邦が樹立されることになった。中華の分裂はあの事件から
進み始めたと言っても良かった。
「米国の深入り、そして張作霖の暗殺がさらに拍車を掛けた。張作霖が生きていれば、このような事態にはならなかっただろう。あの男は
それなりにバランス感覚に優れていたからな。あの『愚か者』と違って」
「全くだ」
彼らの言うとおり張作霖が長生きしていれば歴史は変わっていたのかも知れない。しかしその張作霖を殺したのも、中華の住人達であるので
今の状況は自業自得とも言える。
「中原の争いが収まるにはかなりの時間が掛かりそうだ。その間、いかに我々の力を蓄えるかだが」
「問題は先の暴露だ。何しろ租界でも反中感情は高まっている。我々への不信感も止まるところを知らない」
「商売に支障がでかねませんな」
「商売の看板に大陸浪人の日本人を使うのも手でしょう。表向きは日本人が経営者となれば、それなりに商売でも出来る」
日本人全員が、善良と言うわけではない。また発展したとは言っても日本の社会に日本人全員が適合できた訳でもない。社会からはみ出す者は必ず存在する。
さらに言えば日本社会を窮屈と感じて飛び出す者もいない訳ではない。
しかし日本社会から飛び出した者でも日本人は日本人。日本全体の努力で『日本の国籍を持つ者』が諸外国から得られている信用は使い物になった。
「貧乏人には使いきれない金を奴らに与え、我らは引き換えに力を蓄える。問題ないでしょう」
他人(他国)が築いた信用や信頼にタダ乗りするような行為であるが、彼らにはそれを躊躇するような精神はない。ある物は有効に使う。それだけだ。
だがそんな図太い彼らの目論見は直後に大きく後退することになった。
追い詰められた海外の同胞達が相次いでテロを起し、それが更に各国の反中感情を煽ったからだ。ドイツ第三帝国を筆頭とした欧州枢軸はこの生意気な
抵抗に激怒した。ドイツは重慶政府との関係もあって『僅か』に配慮したが、他の国は情けも容赦もなく中華系を駆逐する方針を採ることになった。
「テロリスト共を入国させるな!」
一般国民のそんな大合唱の前には、生温い意見など一顧だにされない。
ソ連は中華民国の失墜に黒い笑みを浮かべつつ、支那出身者を現代の農奴として扱き使うことを正当化した。『少しでも報酬を渡せば、どんな悪巧みを
するか判らない』というソ連の主張を、奴隷制度を採用している枢軸諸国が真っ先に肯定し、反共を掲げるカリフォルニア共和国も積極的に否定できなかった。
奴隷制に嫌悪を抱く日本でさえ反中世論を前にしては、積極的に庇うことはしなかった。
「同盟国である福建共和国、友好国である華南連邦については擁護するが、それ以外についてはその義務はない」
日本政府はそう言って中華民国を突き離すだけでなく、中華民国北京政府の影響力が失われた地域に積極的な工作を行い同地域の破壊と分断を煽り立てた。
日本は百年単位の時間を大陸の住人達に与えるつもりなど毛頭も無かったのだ。そして近代科学をもってすれば、彼らが世界の中心と誇る大地を不毛の地と
することなど難しくない。そもそも過去において支那が中華として成り立ったのは、彼らが進んだ世界であったからだ。だが今回は彼らが後進地域となる。
それも単なる後進地域ではなく全世界から嫌われ、蔑みの目で見下された地域となる。
それは有史以来、中華の住人達が経験したことのない状態だった。
「アジアの長兄に教えてやれば良いでしょう。『もう貴方の時代は終った。そしてアンコールもない』と」
「『不毛の大地で過去の栄光に夢を馳せながら朽ち果てるのが貴公にはお似合いだ』、と言っておこう」
辻と近衛の言葉が日本帝国中枢の意思を端的に示していた。
提督たちの憂鬱外伝 戦後編7
日本政府の告発によって中華民国の没落は決定的となり、かつて支那の過半を支配した国とは思えぬほどその勢力圏は縮小した。
政府内や国民の怒りを向けられたのは張学良の出身閥であった旧奉天派だったが……旧奉天派は先の大戦で地盤であった満州が戦場と化しており、
さらに重要拠点が日本陸軍によって悉く制圧されていたこともあってすでに消滅寸前であった。
戦後は何とか東遼寧以外の拠点こそ返してもらったが、その弱体化と求心力の低下は歯止めが掛からず、南満州の旧奉天派は排斥され日本の息の
掛かった者達によって実質的な統治がなされていた。尤もその統治も決して良いものとは言えなかったが……。
中華民国に残されたのは今や直轄の北京市と河北省に限られ、残りの土地は果てしない内戦の舞台になっていた。そして内戦が行われている地域は冬
になってますます食糧事情が苦しくなった。よってそこの住人達は、上海の老人達が語ったように少しでも暖かく、食糧があるであろう南を目指した。
しかし南に住む者たちも決して生活に余裕がある訳ではなかった。
「食糧を奪え!」
「俺達の村を守れ!」
僅かな食糧を巡って流民と農民達が壮絶な争いを続けた。
しかし現地民にとって敵はよそ者だけではない。自分達の土地を支配する軍閥もまた敵だった。彼らは食糧だけではなく、ソ連に輸出する
ための奴隷を確保するために人狩りを行っているのだ。
最近では不足する食料を補うために人肉さえ使われるようになり……幼子まで攫われるようになっていた。この世の全ての悪行が横行する
この大地は、第三者からすればまさに地獄であった。そしてそれだけ荒れれば繁栄を謳歌する日本への羨望、嫉妬、憎悪が高まるのは当然の
流れだった。
「何で日本ばかり美味しい思いが出来るんだ」
「我々から何もかも奪いやがって」
「何が有色人種の庇護者だ。我々を地獄に叩き込みやがって」
一人勝ちを続ける日本への反感は大陸では確実に広まった。中華のプライド云々の前に、自分達が窮乏している横で我が世の春を謳歌している人間を
いれば負の感情を抱くのが人間という生き物だった。
いくら負の感情を抱かれても、それを行動に移さなければ日本に害は無いのだが……残念なことに、大陸の住人達は無駄に行動力に溢れていた。
租界の警備を行う警察、軍は勿論のことながら忙しかったが、日本への密航、密入国を図る者たちへの対処で海上保安庁も大忙しだった。
拿捕、或いは撃沈される船は数知れず。泣き叫びながら大陸に強制送還される者など掃き捨てるほど居る。老人、やせ細った子供といった弱者を
逮捕し、元の国に送り返す仕事は普通なら決して気持ちが良いものではなかった。だが中華民国の過去の悪行が暴かれていた上に下手に中華系が
入り込めばアメリカのようになるという風潮があったため、多くの人間は自分の仕事を確実に、そして黙々と進めた。
「日本に来ても、まともな仕事にはありつけないだろうに」
渤海で取り締まりに従事している保安官達は純白の巡視船の艦橋でそうぼやいた。
確かに労働力は不足していたが、日本語もまともに喋れず、いつ雇用主を裏切るか判らない人間を迎え入れる酔狂な人間は皆無だった。
真っ当ではない職業なら多少の需要はあるかも知れないが、いつ雇用主を裏切るか判らないとなれば……その待遇は低いものになるのは
当然だった。尤もその低い待遇でも大陸での扱いよりはマシだという事実が、難民の流入を招いているのだが。
「連中からすれば食べるものがあるだけ天国なんだろう」
「ふん、連中の自業自得だろ。帝国を陥れて、負けたんだから」
髭面の保安官の目は厳しい。彼からすれば、支那の人間など全員が信用できない嘘吐き共だった。
「原子爆弾を量産して、大陸を更地に変えてしまえば良いのに」
「おいおい、さすがにやりすぎだろう」
「連中のせいで、俺達は世界の敵になりかけたんだぞ。それくらい当然さ」
日本では中華民国出身者は蛇蝎のように嫌われていた。戦中の悪行に加えて、戦前の陰謀まで暴露されたのだ。
無実の罪である自分達(日本)を陥れ、名誉を毀損し、滅ぼそうとした国に対して寛大になれる人間など居ない。一般的な日本人の間でも
華北出身者は露骨に白い目で見られており、彼らは非常に肩の狭い思いをしていた。しかし日本を飛び出しても、新天地は無い。むしろまともに生活
できるだけでも、日本はまだマシだった。カリフォルニアなどに行けば、間違いなく収容所送りなのだから。
「裏切り者の朝鮮人もまとめて始末すればよかったんだ」
「おいおい、あまり過激なことは言うなよ」
「ふん」
しかしその意見は決して少数ではなかった。何しろ新聞社の中には反中、反朝鮮を煽っているところもあったのだ。
彼らは福沢諭吉の脱亜論を取り上げて「日本の不幸は朝鮮と中国が隣にいること」と言って憚らず、中朝は滅ぼしてしまったほうが
良いとまで主張していた。この髭面の保安官は、そんな過激な新聞を読む人間の一人でもあった。
「やれやれ」
同僚は肩を竦める仕草をしてため息を付く。しかし彼らの無駄話もそこで終る。不審船発見の報によって。
彼らはこの後に不審船を追撃し、搭載している40mm機関砲で見事に撃破することになる。生存者は皆無だった。
そしてその報告は様々な連絡と共に、東京にいる彼らの親玉の元にも届くことになる。
「冬になってから、さらに(事件の件数が)増えたな」
軍人であるにも関わらず海上保安庁の長官を務める南雲は、庁舎の長官室でため息をつく。
大将昇進も近いと噂される海軍中将であるが、地味な仕事で縁の下の力持ちを続けていたために無敵艦隊を率いて暴れた小沢中将やハワイ沖海戦で
米戦艦部隊相手に完全勝利を勝ち取った高須大将に比べると知名度で劣った。しかしそれでも各地で起きた災害で軍と見事な連携を取って被害を極限
したことで海保の親玉として名前は売れていた。本人が聞けば「俺は海軍軍人なのだが」と頭を抱えるだろうが……。
何はともあれ、激動の昭和19年ももうそろそろ終るというのにこの苦労人(嶋田に次ぐ程と噂される)の仕事は減る気配がなかった。
「酒匂を回してもらって助かりました」
部下の言葉に南雲は頷く。
海上保安庁は南雲の根回しもあって、海軍から地中海の戦いで辛うじて生き残った阿賀野型『酒匂』を回してもらっていた。尤も日本本土に戻ってきた
時には損傷していたため、修理と改装を受け、今ではヘリを搭載した艦となっていた。当然、その能力を活かして今では海上保安庁の大黒柱として活躍していた。
「しかしまだ数が足らん」
南雲は渋い顔だった。
南雲は海軍時代に築いたコネクションも使って船や航空機、飛行船などの調達を進めていたが、それでもまだ数が足りなかった。
何しろ急速に拡大した日本の勢力圏(ほぼ太平洋全域)をカバーしなければならないのだ。さらに若い労働力が民間で必要とされているため定年で
退役した海軍軍人にすら声をかけて人手を確保しなければならないほど彼らには人手が足りなかった。
(旧アメリカ海軍の将校を雇いたいほどだ)
枢軸諸国に流れている旧アメリカ海軍将兵の一部でも雇いたいというのが南雲の本音だった。
仮に雇えたとしても中華民国とイザコザを起しそうなので、彼らを配置できそうなのは東アジアから離れた管区になるだろうが……。
(それにしても、まさか対米戦争前よりも忙しくなるとは)
夢幻会に所属する者達の大半は、戦前よりも遥かに忙しいスケジュールをこなしていた。
対米戦争終結時には多少気が抜けた者たちも大勢いたが、アメリカが崩壊した戦後世界の様々な問題が顕現化するとさすがに腑抜けたままではいられなかった。
史実の知識の多くが役に立たない状態になっているとなれば気は抜けない。
さらに次に日本の前に立ち塞がる敵は史実では悪名高く、火葬戦記では日本の敵として出てきやすい国・ナチスドイツ第三帝国なのだ。おまけにこの
世界では奴隷制という時計の針の向きを逆転させるようなことまでしている。
「これまで以上に同胞達との連絡、連携を密にしなければならない」……それが大勢の意見であり、南雲も同意見だった。
「全く。米国が早期に崩壊して余裕が出来ても、これか」
「『神波』様様と言いたいですが……」
「米国相手に早期に完全勝利を得たことを考えれば文句はあまり言えんよ(色々な問題を除いても、余りに都合が良いような気もするがな)」
南雲以外にも都合よく津波が起こったことに疑問を持つ人間もいたが、衝号作戦の存在を察した人間はいなかった。元々核兵器開発はトップシークレットであり
夢幻会の人間ですら開発計画が進んでいたことを知る人間は一握りだった。さらに言えば衝号作戦の予算や資材はまったく別のダミー計画(謀略)を口実に
様々なルートで調達されており、疑いを持った人間が調査してすぐにばれるほどカモフラージュは甘くはなかった。
さらに実験すらしていない核兵器でラ・パルマ島を噴火させて大規模な地滑りを発生させて津波を起すというアイデア自体が突拍子もないことも衝号作戦を
誤魔化すのに役立っていた。
そして衝号作戦を知る者たちは『歴史改変の影響』と言う形にして前世を持つ者達を宥めていた。このため多少疑念をもってもこの忙しい中、余計な詮索を
しようとする人間など居なかった。また多くの人間は敗戦が確実視される対米戦争における生贄役を嶋田に押し付けたことに後ろめたさも持っていた。それが
さらに詮索しようとする機運を更に押し下げていたのだ。
「……まぁ良い。来年度の予算ではさらに増額を要求しておこう」
「お願いします。長官が頼りなので」
「ははは。おだてても何もでないぞ」
海軍軍人でありながら真剣に海上保安庁のために尽力してくれる南雲は役所の役人達、現場の保安官達の双方から信頼と信用を勝ち取っていた。何しろ
南雲は遣芬艦隊司令官さえ勤めたことがある人間なのだ。表面上は降格人事といわれても仕方が無いにも関わらず、南雲は腐ることもなく職務を遂行し海保を
切り盛りしていた。さらに災害発生時において軍との連携を取るためには南雲のコネクションと交渉力は必須であることも、これまでの経験から多くの人間が
理解しており、海上保安庁の誰もが南雲を必要な人材と見做していた。
「いっそのこと、このまま海上保安庁の長官でいてくれないかな?」
そんな声さえ囁かれる始末だった。彼が本来の部署(海軍)に戻れて活躍できる日は遠そうだった。
中華が勝ち組(福建共和国、華南連邦)、負け組み(中華民国、国民党、共産党)に分かれているのと同じように、他のアジアの国々も
勝ち負けの線引きがはっきりしていた。
インドネシアは日本側の提案であった『アチェー、パプア、東ティモールの分離独立』に同意した。これによって同国は国内を安定化
させることが容易となり、勝ち組の席を約束された。
分離独立に対しては当初は反対意見も多かったが、南北対立が激化しつつあるインドや内戦真っ最中となった中華民国が反面教師になったのか
最終的に反対意見は少数派になった。
「インドの混乱と裏切りは確かに痛恨事であった。だが、皮肉なことにインドの行いによって東南アジアの平穏が約束された」
担当者として現地で交渉に当っていた吉田茂は、後にそう述懐した。
傍目から見ればインドの混乱が有難いように思える言葉なのだが、それを責める人間はいなかった。むしろ彼の言い草はまだ良いほうであり、
口の悪い外務省の某幹部はもっと露骨だった。
「ジョンブルの植民地だった後進国が、帝国の言うことを聞かないからこうなるんだ」
プライドの高い外務官僚などは、そう言ってインドを侮蔑した。
さらに日本人の中には非暴力不服従という綺麗ごとを唱えながらも、カースト制度維持のためにナチスドイツとの接近を是とするガンジーなどの独立運動の
指導者達への不信感が渦巻いていた。
おまけに今の日本は戦争によって成長と拡大を果たした国だった。故に『非暴力不服従』や『平和主義』と言った綺麗ごとも、胡散臭く感じるようになったのだ。
「非暴力不服従をやって追い出しを図っても、ナチスのような連中に生物兵器をばら撒かれて駆逐されたら、連中はどうするつもりなのだ?」
日本人がそんな疑問を持つほど、今の世界は弱肉強食だった。
かつては強者であった米中2ヶ国によって踏みにじられかけた経験がある日本人であるが故に、抵抗しないという選択肢は亡国への道にしか思えなかった。
そんな考えを持つ日本人が多いことが軍事予算の削減にブレーキを掛けていた。
「帝国を守るためには必要な経費だ」
そんな声が国会でも溢れていた。それが『メガドレットノート級』、『Y級戦艦』と言われ、核兵器の運用さえ可能な超大型戦艦『大和』型の建造さえ
後押しすることになった。通常の方法では撃沈が著しく困難な浮かぶ次世代の戦艦にして動く核基地……それは日本の威信を世界に示すには丁度良いと判断
されたのだ。
「まぁ説得する手間が省けたのは良いが……あまり軍事力重視に傾いて欲しくないな」
嶋田がそうぼやいたように、日本人は戦前よりも遥かに軍事力を重視していた。故に嶋田は軍人であるにも関わらず外務省を庇いたてることになった。
戦争は政治の延長であり最後は外交の出番となるのが常識だった。アメリカとの戦いだって、まともにやっていれば降伏条件を巡った交渉になっていた
可能性が大なのだ。ましてこれからは列強同士のパワーゲームが主流となる。力自慢だけでは世界を渡っていけない。
「何とか外務省を梃入れしなければならない」
それが会合の意思だった。梃入れが必要とされた外務省側も自分達の立場を理解していた。あっさり中華に取り込まれた官僚が外務省出身という醜聞も
あって彼らは必死だった。
「我々の存在意義を示すためにも、東南アジア問題は何としても円満に解決しなければならない」
そんな強迫観念とも言うべきものが外務省を突き動かしていた。
この珍しく精力的に動く外務省、少しでも負担を軽くしたい軍部、そして夢幻会の意向を受けた各省庁は協力して東南アジア各国の独立
準備政府の整備を急ぎ、日本は各地で大きな成果を得ることが出来た。
尤も中には手間取っている国もあった。
その名前はベトナム共和国。
かつて日本の制止を振り切って早期独立を目指した挙句、イギリスの衛星国であった華南連邦によって踏みにじられた国だった。
「帝国主義の尖兵を追い出す!」
今こそが独立の好機と読んで決起したホーチミンは、イギリスの要請で国土に侵入してきた華南連邦軍に対し得意のゲリラ戦で戦った。
しかし華南連邦軍も黙ったままではなかった。彼らは独立派、赤狩りと称して各地で独立派の拠点と思わしき村や町を徹底的に破壊して回った。
煩い連中がいないため、華南連邦軍はやりたい放題であり、関係ない民間人も含めて多数の死者が出た。
その果てしない報復合戦の結果が、ベトナム北部の荒廃だった。ハノイやハイフォンは半ば焦土と化しており、市民生活には多大な悪影響が
出ていた。
農村ですら、華南連邦軍によって踏みにじられた。正規軍が形振り構わず本気を出して叩きにくれば、どんな事態が発生するか……それを
ありありと示す光景が各地で繰り広げられた。
一般市民からすれば地獄のような光景だった。だがその地獄は、独立派の奮戦によってではなく、日本とフランスの政治的決着によって終った。
日本は『赤い黄金』で荒廃したベトナムを買い叩いたのだ。
金の力で戦いを終らせ、次の主人として意気揚々と乗り込んできた日本人は華南連邦軍が撤収すること、そして暫定的な日本の統治の後に
ベトナムを独立させることを発表した。
「戦争は終りました」
そう言った外交官の言葉に、ホーチミンが何を思ったのかは誰も判らない。
ただし誰の目にも判ることが一つだけあった。そう、彼ら独立派が単なる道化となってしまったことだ。
華南連邦軍が出血に耐え切れず撤退したのなら、あるいはフランス政府が直接、ベトナムの独立を認めることを独立派に告げるので
あれば、まだ彼らの立場はあっただろう。
これまでの独立派の奮戦、そして市民の協力がベトナムの独立に繋がった……そう胸を張って主張できた。
しかし彼らが地獄のような戦いを繰り広げた末にあったのは、『矮小なゲリラなど国際社会に何の影響も与えられない』という非情な
現実だった。
そして日本がベトナム独立派に対して決起を数年思いとどまることを要請していたことが明らかになると……市民の怒りは不用意に
決起し、ベトナムを混乱と破壊の坩堝に叩き込んだ独立派、とくにその急進派に向けられた。
さらにホーチミンが共産主義者であったことも大きかった。今や共産主義は世界を破滅させかねない危険思想とレッテルを貼られていたのだ。
「祖国を荒廃させた危険思想の持ち主を裁判にかけろ!」
そんな声が挙がり、独立派の雄であったホーチミン、そしてその関係者は一転して罪人として追われる立場となるのは自然な流れだった。
かつての味方から逃れるため、ホーチミン達は華南連邦軍によって破壊の限りを尽くされた北部の廃村や密林に隠れざるを得なかった。
「悪いのはスターリンのはずだ! 共産主義自体に間違いは無い!!」
共産主義者たちはそう主張するが、誰も耳を傾けることは無い。世界を滅ぼしかけたとされ、実際に祖国を荒廃させた思想を肯定する人間はいなかったのだ。
こうしてベトナム人自身の手によってホーチミンは排斥された。
史実を知る人間からすれば、悪質なジョークとすら思える状況と言える。
しかし悪質なジョークはこれからだった。日本はひも付きの支援を行って復興に努めていたのだが、その傷跡は深く、また反華南連邦感情も
根強いものとなった。これに第二次満州事変の真相暴露が拍車をかけた。日本の統制もあって大事には至っていないものの、ベトナム国内の華僑は居場所を
失って海外に脱出せざるを得ない状況となり、日本領である海南島周辺に展開する海上保安庁の巡視船は大忙しとなった。
(ベトナム戦争前倒しの影響か……)
総研の建物で開かれた会合の席で嶋田は苦笑した。しかしそんな嶋田を咎めるように辻が文句を言う。
「苦笑いしてばかりではいられませんよ、嶋田さん。海南島は鉄鉱石の産出地。影響が広がらないうちに対処しないと」
「判っています。海軍からもさらに船を出しましょう。南雲さんに負担をかけるわけにもいかないでしょう」
「迅速にお願いします」
「……やれやれ、戦後になっても休まる暇も無い」
嶋田のボヤキに誰もが苦笑する。
アメリカとの戦争では、最終的なゴールが見えていた。故に頑張れた。
しかし現在、彼らは全く先の見えないマラソンを走っているような感覚に襲われていた。国内外には、早めに解決しなければならない
問題が山積みだった。さらに言えば幾ら解決しても問題は中々減らない。一つ解決しても、すぐ別の問題が舞い込む状態だ。
「国内改革が軌道に乗り、東南アジアが独り立ちすれば、休まる時間も増える……と私は思っている」
「近衛さん、それってあと数年は無理ってことじゃあ……」
「そこは……我慢するしかない」
乾いた笑みが浮かぶ会合の面々。
「まぁ何はともあれ、海軍や陸軍が望む新兵器開発のためには様々な分野の梃入れも必要で、今のところ不急不要な騒ぎは勘弁して欲しいというのが実情ですね」
流星改の後継として史実の『A−4』に相当する攻撃機の開発が開始されようとしていた。陸海軍では連山改の後継機の開発計画も進められ
ており、他の新兵器開発計画(大陸間弾道弾、原子力潜水艦etc)も併せると膨大な予算が投じられている。
これでさらに大和型戦艦を目玉とした艦隊整備計画を進めるのだ。大蔵省としては軍部に対し、嫌味の一つも出したくなる。
「北米に拠点を設けた欧州も海軍力増強に踏み切っている。不本意なことだが軍備拡張に付き合わないわけにはいかない」
近衛の言葉に、辻は苦笑いしつつも同意する。
今や、日本帝国は太平洋の雄であり、多数の友邦の頂点に立っているのだ。故に弱気な真似は出来ない。やせ我慢をしてでも、張り合う必要がある。
「太平洋の向こう側で睨みあいというのは、負担が大きい。早めに対立は解消したいものだ」
伏見宮の言葉に全員が頷く。かつて辻がイギリスのエージェントに語ったように、この世界は日本という国のポケットに入れるには大きすぎた。
「それにしても大陸国家が無茶をしますね。フランスなど、我々から得た黄金で国土の復興に努めればいいものを」
「それだけイギリスが憎いということでしょう。最低でも、インドをチョッカイをだすくらいには」
近衛の台詞に数名が苦い顔をする。
「辻さん、英資本の引き上げと置き土産、分離独立の準備は?」
「順調です。ドイツとフランスの工作も一時的に停止しました。猶予は十分です。中央情報局は?」
「準備は進めています。進捗の遅れはありません。何しろ欧州人同士の諜報戦は非常に参考になりますから、皆張り切っています」
インドは焦土戦の舞台であると同時に、イギリスやドイツ、フランスの諜報戦を観察するための舞台となる予定だった。
「イスラムは?」
「万が一に備えて接触は進めています。仮にドイツが血迷った場合、中東は大火事になるでしょう。それが無くとも、一旦、枢軸に参加した
インドを見捨てれば中東諸国は一気に動揺するでしょう。ドイツ人は有色人種を捨て駒にしか考えていないと噂が広まれば彼らの中東政策は
破綻、或いは大きく後退することになる」
インドはドイツにとって巨大な蟻地獄だった。しかし夢幻会の目論見はそれ以外にもあった。
「インド人を厄介者扱いさせれば、ドイツ人たちの有色人種への蔑視はますます進み、ナチスは人種政策を変更するのが難しくなる。そうれなば
ドイツは優秀な人材を獲得する機会を減らす。さらに各国もドイツへの警戒を解こうとしなくなり、勢力圏の統制も楽になる」
嶋田の言葉に全員がニヤリと黒い笑みを浮かべた。
ちなみに同席していた山本は、嶋田の真っ黒発言を聞いて少し遠い目をしていた後、話に加わる。
「そう言えばオーストラリアは最近、英国に空母の購入を打診しているようだが」
「英が持て余している『フォーミダブル』のことだろう? だが艦載機がない空母に意味は無いさ」
日本の脅威に怯えるオーストラリアでは軍備拡張が叫ばれていた。尤も夢幻会はそれを冷めた視線で見ていたが。
「それにイギリスもあの問題児に空母を売るような真似はできないだろう。空母をもって気を大きくした連中が何を仕出かすか判った物じゃない」
オーストラリアの問題児振りは戦前から有名であり、宗主国であるイギリスでさえ頭を悩ませていた。オーストラリアは資源が豊かであったが、そこに
住む人間の思想がその価値を押し下げていると言えた。
軍令部総長に抜擢された古賀大将もしきりに頷く(後任のGF長官には近藤信竹大将が就任)。
「30機程度の旧式機を載せた裸の空母なら、すぐに対処できます。まぁ僅かながら目障りになるかも知れませんが」
「やれやれ、あの国が、もう少し親日なら海軍の整備を支援することも考えるのだが」
誰もがため息を付き、嶋田はぼやいた。
実際、オーストラリアが日本の有力な同盟国となるだけでも大きく違う。しかし実際にはオーストラリアは同盟国どころか友好国とすら中々言えない国だった。
何しろオーストラリア国内には白豪主義が蔓延っており、最近では躍進して太平洋を支配するようになった日本への警戒心が高まっていた。
オーストラリアが頼りにしていたアメリカはすでに存在せず、ドイツは遠すぎた。政府高官や国際感覚がある人間は日本と共存するのがベストだと判って
いたが、それが判らない、或いは判りたくない人間は日本の脅威に対抗するために軍備増強を叫んでいた。
「宗主国ですら戦闘機が足りないのに、日本機に対抗できる戦闘機を回せと言ってイギリス当局を困らているらしいですよ」
イギリス側から愚痴を聞いたことがある辻が苦笑いする。
「オーストラリア議会では遅れていた巡洋艦の整備を急ぐ声が挙がっているそうです」
「イギリスも枢軸も売る余裕はないだろう。連中、自力で建造するつもりなのか?」
「まぁ言うだけなら『ただ』ですから」
頑迷な白人至上主義者からすれば、神から祝福された白人が黄色い猿の後塵を拝することなどあってはならないのだ。しかし日本との共存を主張している
人間達も内心では日本の後追いというのは面白くないと思っていた。良識派さえも日本が短期間に躍進しすぎたことに恐れを抱いていた。
有色人種でありながら有色人種ではない正体不明の存在……それが日本人の評価であり、それ故に日本人は『宇宙人』に向けられるような視線で見られることもあった。
人間はいつの世も理解できない存在を恐れるものなのだ。
夢幻会も日本を発展させればさせるほど、脅威と思われることは理解していた。しかしその歩みを止める訳にもいかない。また夢幻会は白人の地力を過小
評価することはなかった。故に可能な限り突っ走るつもりでいた。
「連中がどんな暗い情念を燃やそうとも、実害がないなら放って置けばいい。ただしふざけた真似をするなら断固とした措置をとるだけだ。我々が
持つカードは軍事力だけではないことを判らせてやればいい」
伏見宮の言葉が締めとなった。
「しかしこの調子では、オーストラリアの食糧はますます頼れませんね」
「安い牛肉は供給できそうにないな」
「鶏肉を使った丼ものが主流になるでしょうね……」
嶋田も遠い目をした。彼ら程の地位なら容易に牛丼を食べることが出来るだろう。ただしそれは相応に高いものだ。
この場に居る者なら大抵がお世話になった食べ物、安価な『牛丼』がないというのは確かに寂しいものだった。だが今の世界情勢では安価な牛肉の
安定供給など不可能だった。カリフォルニアは自国で消費するための食糧の生産で忙しいし、オーストラリアを供給地にするのはリスクがあった。
勿論、日本でも畜産が進められており、庶民が牛肉を食べられないわけではない。ただし史実ほどお手軽に食べられないだけだ。だがその差異が
歴史が変わったことを改めて彼らに実感させる。
「フランス産のワインも手に入りづらくなったが、メキシコに核を落としたせいで、カクテルにも影響が出ている……やれやれ引退後の楽しみが
減ってしまう」
「私としては貯古齢糖、いえチョコレートの生産も活発ではないことのほうが」
「相変わらず、阿部さんは甘党ですね」
「饅頭茶漬けを食べる辻さんほどではありませんよ。まぁピザやパスタ、それにジェラードはイタリアとの関係を修復すれば食べられるようになる
かも知れないと言うのは嬉しいですが」
史実とは大幅にずれた道を歩む日本帝国。
その帝国の行く末に影響を与える会議は、食べ物に関する雑談を交えて進行していた。
あとがき
提督たちの憂鬱外伝戦後編7をお送りしました。
最近出番が無かった東南アジアとオーストラリアの様子にも触れました。まぁ後者の豪州は相変わらずの問題児ですが(苦笑)。
激動の昭和19年も終わり、いよいよ昭和20年、史実における運命の年が訪れます。
尤もこの世界でそんな激動の年になるかはまだ言えませんが(苦笑)。
それにしてもここまで米中がボコボコにされる戦記ってあっただろうか(汗)。
それでは拙作にも関わらず最後まで読んでくださりありがとうございました。
提督たちの憂鬱外伝戦後編8でお会いしましょう。