不愉快な気持ちを表に出すことなく、表面上は『にこやかな』顔で退出していった尾崎、そして手駒として取り込んだ二人の日本人を
見送った華僑達は次なる手を考えていた。
「さて、日本人はどうでる?」
「反応を見る限り、望み薄だろう」
「近衛公が動いたとしても、日本は容易には動かんだろう。今の宰相は海軍出身で大陸への深入りを嫌っている」
「そもそも海軍出身の男が陸軍の拡張に手を貸すつもりはないだろう。大陸進出となれば陸軍の出番だからな」
「それに日本陸軍もアラスカ、北米、東南アジアと広がった版図の維持に力を入れざるを得ん。これまでの行動から日本陸軍が政府の命令に反して
大陸に食指を動かすことはないだろう」
「ふむ。では、やはり軍が積極的に動くことは無い、か」
男達は飄々とした顔で話し続ける。
「民間から動かすしかないだろう」
「大陸支配の夢を見せる、と?」
「日本人は今、威勢がよい。対外信用を失墜させ、孤立無援となった中国など蹴散らせる……そう判断する人間は少なくない」
「『無敵皇軍』の力で『野蛮な』中華の民を組み伏せ、支配すれば、貧乏人も豊かになれる……そんな夢を見せる、と?」
「日本は豊かなのだろう。だが全ての人間が満ち足りている訳でもあるまい」
『多少』、目減りしているものの中華の民はまだ多い。ソ連やドイツがしているように中華の民を情け容赦なく酷使し、搾取すれば
利益をあげられるだろう。しかしそれを日本が実行したとき、彼らはこれまで中華を支配した異民族を組み込んだように、日本を取り込む
つもりであった。
中華を支配した異民族たちの多くは一時の繁栄と引き換えに、最終的に中華の地に呑み込まれていった。その実績を考慮すれば、この大地は
一種のブラックホールと言っても良かった。
「そして日本が大陸支配に注力すれば、必ず隙が出来る」
「日本を警戒している欧州列強は、日本の大陸支配を邪魔するために反日派を支援せざるを得なくなる」
「今すぐは難しいが、将来的には欧州列強との関係を修復する切っ掛けにもなるだろう」
「我らと欧州に挟み撃ちになった日本はいずれ弱体化する。その時が好機となる。日本人が築き上げた領土も、文化も、技術も何もかも我らのものとするのだ」
日本人が聞けば「ふざけるな!」と激怒すること間違いなしな陰謀だったが、彼らはまるで当然とばかりに話を進めた。
「だが日本人の威勢も、日本政府が迅速に手を打った所為で一時よりも落ち込んでいる。これを盛り上げるのは些か手間が掛かるかも知れん」
「……忌々しいことだ」
「あの総合戦略研究所とやらはよほど優秀のようだ」
「その研究所設立を後押しした連中もな」
男達は威勢のいい日本人を挑発、或いは甘言で惑わして大陸に誘い入れる策略を、総研の政策によって木っ端微塵にされたと思っていた。
故に大陸封じ込めを提唱しているとされる総研、そしてその総研を後押しする者達は目障りな存在だった。
「日本を陥れるには、総研が邪魔になる」
「今回の件が総研に漏れれば、必ずや彼らは動くだろう。その反応を分析し、連中の手を読めるようにしなければならん」
今回の彼らの工作は、あくまでも序盤戦。
日本の政策立案中枢と言われ、各界への影響力が強いとされる総研、そして総研の後援者たちの出方を分析するためでもあった。
「判っている。そして奴らの力量を図り終えたら、日本人を分断し対立させ、彼ら自身の手で、かの研究所を排除させる。或いは
その方針を転換させる」
「日本人は熱し易く冷めやすい。そして脇も甘い。我らが付け入る隙は幾らでもある。幸い、かの国の政治を司る者は選挙で選ばれた者だ」
「そして帝国軍がいくら強大であっても、皇帝に代わってその統率を行う者が無能ならば……」
彼らはニヤリと笑った。
「ただし長期戦になるだろう。香港経由で華南連邦への影響力を確保しなければならん」
「福建にも浸透する用意を進めておくのが良いだろう。東南アジアの同胞とも連絡を密にせねばならん」
「たとえ、華北の大地が荒廃しても後背地があれば幾らでも立て直すことが出来る」
「幸い、資金調達には事欠きませんからな。流民のおかげで」
彼らが新たな資金源としたのは、ソ連との奴隷貿易であった。そう彼らは故郷を捨てた、或いは捨てざるを得なかった流民達を売りさばいていたのだ。
当然、ソ連は奴隷を安値で買い叩いたが、それとて『数』が多ければ大きな利益となる。だが男達には同胞を売り渡しているにも関わらず、良心の呵責に
苦しめられている様子はない。例えその行いを咎められても、彼らは平然と言い返すだろう。
「中華だけではない。世界中で間引きが行われているのだ。我らがそれをやって何が悪い?」
そんな彼らと別れた尾崎は、車の中で今後のことを憂慮していた。
(早速、連中はこちらの懐に手を突っ込んできたか……長期戦になるだろうな)
一度彼らの工作を払いのけたとしても、彼らは手を変え品を変えて工作を仕掛けてくる……尾崎はそう確信していた。
「近衛さんとも話をしておかないと」
そう小さく呟いた後、尾崎は窓の外を見る。そこには内戦中にも関わらず、平然と生活する中国人達の姿があった。
「ふむ。さすが中国人は図太い」
「連中にとって内戦は恒例行事のようなものです。尤も裏切り者だらけの連中には相応しいかも知れませんが」
無表情で毒を含んだ言葉を口にしたのは現地で尾崎の部下を務める男だった。だが驚くべきことに、尾崎の右横に座る男の肌の色は白かった。
「中国人にもまともな連中は居るだろう。極僅かだろうが……」
「大勢に影響がなければ意味が無いのでは? 悪貨は良貨を駆逐するという諺もあります」
「一本取られたな。それにしても随分と日本語が上手くなったな」
「奴らに復讐できるのです。そのためなら私は何だってしますよ」
男は暗い憎悪を瞳に宿して車外の中国人を睨む。
上海で同僚を、部下を、家族を裏切りによって無惨に殺された男の憎しみは深かった。彼にとって嘗て敵であった日本人よりも目の前の裏切り者
のほうが遥かに憎い存在だった。
「仕事熱心なのは有難いが、あまり無茶はしてくれるなよ?」
「判っています。それと件の記事……『上海虐殺の虚構』ですが」
「ああ大々的に出せそうだ。うまくいけば列強も喜んで連中を叩くだろう。国内の憂さ晴らしもかねて、な」
「それは良かった」
男の笑みを見て、尾崎は元アメリカ人が抱く『敵意』がまだ持続していることを確信できた。
(元アメリカ人と中国人の対立は根深いか。まぁ我々にとっては都合が良い)
特に上海大虐殺を経験した者達は、中国人を毛嫌いしている。中国人も上海で民間人を大量に殺害した元米国人を忌み嫌っていた。まして
日本人という同じアジア人に敗北し、国家が崩壊した連中など恐れるに足らずというのが一般的な中国人の考えだった。そんな考えにますます
元米国人は反発しており、負の連鎖は止まる気配が無い。
(尤も、そう仕向けたとは言え、こうも暗い情念を燃やす人間を長時間相手にするのは些か疲れるな)
尾崎は気分転換も兼ねて窓の外を見る。だがそれも余り気分転換にはならなかった。
「羽振りが良さそうな人間もいるな……奴隷成金か」
奴隷貿易と飢餓と内戦によって華北の地は荒廃していた。
しかしそれでも尚、同胞達を踏み台にして富を得る者はいる。そして富を得た者達はその富を増やすために、或いはその安全を
確保するために信用して運用、或いは保管できる場所に富を移動させる。
だがこの荒廃した大陸で安心して財産を預けられる場所は少ない。その少ない場所のひとつが国際都市である天津や上海だった。さらに
その財をもってすれば日本企業、銀行に一定の影響力を与えることは出来る。
(最近、元大陸浪人が経営する会社が国会議員に多額の献金をしていると聞く。先の会食でもあの議員は件の会社について少し話していた。
ふむ。その点も突いていく必要があるか)
新聞記者ということでその手の情報には聡い尾崎は、今後の展開を想定して眉を顰めた。
(大陸を封鎖すると言っても、完全に交流を断つ訳にはいかない。まして大陸で活動しているからと言って日本企業からの献金を
禁止するわけにもいかないだろう。会合の面々も頭が痛いだろうな)
日本の威光が高まれば高まるほど、大陸から富は集まるだろう。
しかしその富によって日本自体が振り回されることもあり得る……今回の事例はそんな可能性を示しているように尾崎には思えた。
(煮ても焼いても、喰えない連中だ。我の強さとその粘りっぷりに限ればアメリカ人並だな。いや、だからこそ連中は手を組んだのかも知れないな)
夢幻会とは言え、苦戦を強いられるのではないか……そう憂慮する尾崎。
しかしその彼らに、予想だにしない心強い(?)援軍が北の国から訪れることになる。
提督たちの憂鬱 戦後編第4話
日本から大量に輸入される重機や工業用プラント、そして中国、朝鮮から買い叩かれた大量の奴隷によって極東シベリアは開発ラッシュに沸いていた。
スターリン時代の閉塞感など遥か彼方と思わせるほど極東各地は活況であり、市民の顔も明るくなっていた。
「食糧事情はまだ苦しいが、あの頃に比べれば天国さ!」
飲み屋ではウォッカを飲んで真っ赤になった男が、カウンターでそう喝采を挙げていた。この意見に近くの男達が頷く。
「集団指導体制になって世相も少しは明るくなったからな」
「ああ。八月革命万歳だ」
無謀な戦争を続ける指導者スターリンを排除した八月革命とその後の停戦によって、ドイツ軍による占領を免れた地域のソ連人民の負担
は大きく軽減された。
まず軍需に極端に偏った生産計画は大きく是正され、民需品の生産が進むようになった。さらに兵士として前線に借り出されていた兵士も少しずつである
が故郷に戻ってくるようになったのだ。
「そういえば中国人や黒人の農奴が増えたようだが」
「ああ、連中か。当然の報いだ。気にする必要もないだろう」
「中国人? いや連中は『元アメリカ人』なのだろう? なら問題ないさ。世界の嫌われ者の連中を扱き使っても文句はつけられない」
スターリンを裏切って生き残ったベリヤ、ジューコフ、モロトフを中心にした集団指導体制を構築して国家再建を進めていた。何しろドイツも国家再建を
進めている。負けるわけにはいかない。
「奴隷なら幾らでもすり潰しても構わん! 兎に角、ひとかけらでも多くの資源を採掘し輸出するのだ!」
その大号令と共にソビエト各地では過酷な環境の下、奴隷を使った資源の採掘が進められた。あまりの過酷さに脱走も後を絶えなかったが、過酷なロシアの
環境と軍、警察の監視を突破して生き残ることはほぼ不可能だった。死体を満載した馬車が、毎日採掘施設から『処理場』と呼ばれる施設に向かっていた。
食糧や医薬品などの生活物資の不足によって苛立っている市民(特にウラル以西在住)や一般兵士は不満を容赦なく奴隷達にぶつけた。彼らは奴隷を新たな農奴と
して扱った。ただこの『農奴』は国の『資産』なので、下手に痛めることは出来ない。故により陰惨な行為が横行した。酷い話だが、人間とはそういうものだ。
史実でドイツ人捕虜や日本人捕虜を強制労働させ、大量死させた国は、この世界でもその恐ろしさを遺憾なく発揮していた。一部の理想主義者は
顔を顰めたが、奴隷を酷使することで生まれる当面の利益の前には口を紡ぐしかなかった。
勿論、多大な打撃を受けた挙句に、一方的に領土を奪われた共産党への不満は大きかった。だが共産党の新指導部は全ての責任をスターリンに被せて
責任を回避した。「赤い魔王が全て悪い」……新指導部はそう言い張ったのだ。
そして同時に国家再建と市民の懐柔も兼ねて、限定的であるがロシア正教の復活や資本主義の導入を進めていた。また日本企業の進出によって新たな
雇用も創出されつつあった。
「日本の租界にいけば、手に入らないものは無い」
そんな声さえ囁かれ、日本の租界は大賑わいだった。
日本企業は進出が許されたとは言え、好き勝手に動かれては堪らないソ連は各地に租界の建設を許可し、そこの中での商売、或いは日本資本の
施設の建設を認めていた(ただしこの制限と引き換えに税制面では多大な優遇が行われていた)。ソ連からすれば資本主義の思想が流入するのを制限するのが
狙いだったのだが……残念ながらその試みは破綻していた。
「何で搾取されているはずの資本主義国家の国民の方が豊かな生活をしているんだ?」
日本の情報に触れれば触れるほど、そんな疑問を持つ人間は増えていった。
ソ連国内では、資本主義国家では人民は資本家によって搾取され苦しい生活を送っていると教育されていた。これに疑問を持つことは国、そして共産思想
そのものに疑問を持つことだった。
当然、ソ連政府はこの危険な兆候を掴んでいた。だがそれでも、日本と縁を切るわけにはいかないのがソ連の悲しい懐事情だった。
「新たに建設中の工業地帯のインフラは全て日本製なのだ。日本との関係を絶てば、これらの維持にすら事欠くぞ」
実務を司る官僚達はそう言って、日本企業締め出しを主張する意見を封殺した。
戦前に頓挫した重工業化は、独ソ戦の疲弊によってソ連単独ではまず実行不可能になっていた。加えて現在、ソ連相手に商売してくれる工業国は日本以外に存在しない。
ドイツは敵国だったし、イギリスは自国の再建に手一杯。むしろソ連向けに輸出している物資の一部を、イギリス向けにしてくれないかと頼む始末だった。
この状況では日本との関係を破綻させるわけにはいかない。ましてソ連は赤い魔王によって国際的地位も信用も失墜させている。ここで日本と事を構えては
ドイツの思う壺だった。
尤も仮に日本の手を借りて工業力を強化したとしても、今度は日本無しではソ連の工業力は維持できなくなる。各種インフラは日本企業や日本製の部品なしでは
維持できないのだ。技術移転については日本も厳しく取り締まっていた。このため産業スパイで細々と盗むしかないのが現状だった。
この日本での技術面での嫌がらせ(テクニカルハラスメント)に、ソ連も困り果て、そして将来を危惧していた。
「このままでは我が国は日本の経済的植民地になってしまいます」
クレムリンの会議室では、そんな声が挙がっていた。
だが軍の代表者であるジューコフは苦い顔で反論する。
「しかし日本製機械を使わなければ、まともな兵器が作れないのは判っているだろう。先の戦争での、我が国の兵器の体たらくを考慮すると日本との
関係を悪化させるのは賛成できん」
ジューコフの脳裏に浮かんだのは、独ソ戦末期に行われた『バクラチオン』作戦での光景だった。
この作戦のために集められたソ連軍は数こそ多かったものの、その内実はお寒い限りだった。歩兵には満足な武器どころか、軍服すら与えられなかった。
当然、食糧もだ。少なくない数の歩兵は気休めに与えられたウォッカで死への恐怖を和らげた状態で、スコップや斧を手に突撃を余儀なくされた。配給する
ウォッカすら与えられなかった部隊は……麻薬を使って恐怖を麻痺させてドイツ軍に突撃させた。
(あのようなこと、二度と繰り返してはならない!)
この麻薬漬けにされた兵士達は戦後に後腐れがないように、まともな装備すら与えられずにドイツ軍に突撃させられ……一兵残らず全滅していた。
ドイツ軍に少なからざる打撃を与えたものの引き換えに残されたのは、痩せ衰えた麻薬中毒者の遺骸の山だった。その光景はあまりにも悲惨だった。
だが小銃を配備された部隊が活躍できたという訳でもなかった。工作精度の低下によって暴発する銃は後を絶えなかった。ソ連軍内部では「ドイツ人に殺されるより、
自国の兵器によって殺傷された兵士が多いのではないか」と冗談半分で言われていた。
切り札であった戦車部隊は惨憺たるものだった。エンジンはマトモに動かない。主砲を撃てば暴発し、装甲がすぐに割れるなど全く戦力にならない車両が
ごまんとあった。主砲さえ撃てれば、トーチカ程度には使えるのだが、それすら出来ないのだ。もはや的であった。
ロシア帝国陸軍と同様にソ連赤軍ご自慢の砲兵も満足に補給を受けておらず、途中で弾切れを起して戦場のオブジェとなった砲も少なくなかった。
地上部隊がこの有様である以上、ソ連軍は空軍を頼りにしなければならなかったのだが……その空軍も似たりよったりだった。まともに飛ぶどころか離陸さえ
できない航空機が多かった。ソ連空軍は旧式の複葉機すら全てつぎ込んで、何とか制空権を完全に奪われないようにするだけで手一杯だった。
搭乗員不足から女性パイロットも多数参戦していたが、彼女達の乗機は旧式機であったため、ドイツ軍パイロットにスコアを献上するだけに終っていた。史実
では史上2人しかいない女性エースの内の一人であったリディア・リトヴァクは戦死こそ免れたものの、生き延びるので手一杯であり、エースにはなれなかった。
「先の戦争で、赤軍は多数の兵士を失っている。この補充は容易ではない。日本との協定で引き上げた極東軍を前線に当てているが状況は楽観できない」
日本の工作で骨抜きにされた極東軍では、数合わせでしかなかった。使い物になるようにするには時間が掛かる。
「前政権の失政のツケを赤軍将兵の血で支払った。それでもまだ足りないというのか? まだ将兵に無駄に血を流せというのか?」
スターリン失脚後、中央に復帰したフルシチョフがジューコフを支援する。
日本の工作によって散々に煮え湯(金銭的意味で)を飲まされて来た人間達は尚も危惧した。しかし前政権のツケを一身に背負いながらも体を張って国を
何とか守った軍部の意見を無碍には出来ない。
さらに軍の苦境を知るベリヤはこれを援護する。
「祖国再建のためには産業の再建が必要だ。過酷な資源採掘には……『元アメリカ人』と『出稼ぎ労働者』、『囚人』を使えても、労働力は不足している。
兵士を増やすことが難しい以上は、兵器の質を上げる必要がある」
ここでベリヤが『元アメリカ人』、『出稼ぎ労働者』と言ったのはそれぞれ『元アメリカ人の有色人種(他称含む)』、『朝鮮人(ソ連在住の朝鮮系含む)』を
示す。当然だが囚人も、単に罪を犯した人間だけではない。ドイツに内通したという罪状で、大々的に強制連行された少数民族も多いに含まれている。
「ですが……」
「優先順位を見誤ってはならん。ドイツに敗北すれば……次に待ち受けるのはロシア民族の総奴隷化だ。連中が占領地で何をしているか、君も承知しているだろう?」
反論しようとした男は沈黙した。
何しろドイツ占領地ではロシア人は最下級の扱いであり、これまでロシア人によって抑圧されてきた民族によって厳しい弾圧を受けていたのだ。ドイツ占領地
から逃げ出してくる人間は後を絶たない。そして着の身着のままで逃げてきたロシア人のやせ細った様相を見れば、どんな人間でもロシア人がどのような扱いを
受けているか理解できる。
「「「………」」」
彼らの脳裏にはソ連の滅亡、そして滅亡したかつての祖国の大地で、ドイツ人によって奴隷にされたロシア人の姿があった。そしてそれはあまりにおぞましい
光景であった。
「我々はドイツに敗北することだけは絶対に許されん。ドイツに敗北すれば……ロシアの民は地上から抹殺される」
「……」
「当面の方針は不変だ。ひとかけらでも多くの資源を輸出し、引き換えに工業化に必要な機材を輸入する。だが技術移転についても交渉を行う。国内では市民の不満の
ガス抜きも進める。ロシア正教との対立を緩和することが出来れば、少しは面倒が減る。ただし帝政復活を図る動きには注意する……これでどうだろうか?」
「……はい」
こうして議題は変わり、クレムリンの住民たちは昨今の食糧事情に触れた。
「缶詰工場の稼動は?」
「順調です。日本製機材の導入で工場の稼働率も上がっています。それに『処理場』から送られてくる『材料』も豊富ですので」
『材料』という単語が担当者から出た途端、事情を知る人間は眉を顰めた。
だがそれ以上のことはしなかった。何しろ食糧事情は逼迫しているのだ。『どのような肉』が材料であれ、人民の胃袋を満たせるなら問題は無かった。何しろ
飢えは革命を誘発する。革命で起きたソ連が、革命でひっくり返るという冗談にしか聞こえない事態が起きかねないのだ。
そして共産党が潰えた後に、登場するのは新たな革命政府か……或いは帝政の復活だった。帝政を否定することで生まれた共産政権にとって後者『帝政の復活』
だけは阻止しなければならない。
「中国人共に比べれば十二分に恵まれていますが……」
「比較対象が間違っているだろう」
この台詞を聞いた面々に苦笑が広がった。
統一政府が事実上瓦解した上、異常気象による凶作で華北は飢餓状態だった。各勢力は自分達を守るために地雷(福建共和国製)を大量にばら撒き、同時に
他勢力の資源や食糧、奴隷を奪い取るために戦闘を繰り返している。華北は旧アメリカについで悲惨な地域となっている。
「日本人は英国人と組んで、麻薬や中古武器を大量に流し込んでいます」
「処分に困った麻薬や中古武器の最終処分場にするつもりなのだろう。実に容赦が無いな」
フルシチョフは日本人のやり方に感嘆した。
「日本人は甘いと言っていた人間がいたが、その評価は真っ赤な嘘のようだな。我が国への嫌がらせと言い、中国の扱いと言い……あの帝国主義国家・イギリスと
同盟を結んでいただけのことはある」
当事者達が聞けば「いや、俺達は連中(腹黒紳士)ほどじゃないから」と言うこと間違いなしな評価だった。何はともあれ、このあともスターリン時代とは
打って変わって活発な意見交換が行われた後、会議はお開きとなった。
だが出席者がそれぞれ次の仕事に向かう中、ベリヤとモロトフはクレムリンの別室に向かった。
ベリヤの部下達によって『綺麗』にされた簡素な部屋で二人はそれぞれソファーに座り、顔を突き合わせると……ベリヤから重い口を開いた。
「今のところ、軍部は押さえられるが……これからも軍部を押さえられるか油断は出来ん。前政権のツケは大きい」
これにモロトフは顔を顰める。
「同志スターリンの負の遺産だな」
「ああ。軍内部では共産党への不満が燻っている。私も寝首をかかれないように注意しなければならない。何しろ私を殺したがっている連中は数え切れないからな」
軍人達からすれば、重工業化を頓挫させ、さらに赤軍を大粛清によって弱体化させたスターリンとその支持基盤である共産党は忌まわしい存在でしかない。
まして今の赤軍にはかつてシベリア送りにされていた優秀な将校が多数居るのだ。彼らが共産党への忠誠など持っている訳が無い。
さらに言えば、ベリヤは赤軍大粛清を行った当事者の一人。赤軍将校からすればスターリンのように排除したい人物の一人だった。このためベリヤは万が一襲われた
場合に備えて護身術も必要になるのではないかと思い、その手の修行も影でするようにしていた。尤も何故かその護身術の中に『セ○シーコマンド』なる武術が存在して
いたのだが……幸か不幸か、ベリヤ以外、誰もそのことを知らなかった。
「貴方が失脚するようなことがあれば、私もすぐに後を追う羽目になりますよ……外交の責任者として」
赤い魔王スターリンの陰謀の暴露後、ソ連の外交は大打撃を受けた。周辺国からは常に白い目で見られ、かつては小国と侮っていたフィンランドなどの北欧
諸国にも常に気を配らなければならない立場に陥った。
「何故、あんな小国共に……」
ソ連の外交官達は屈辱のあまり顔を黒くした程だ。しかし今やソ連は世界中から敵視、あるいは不信の目で見られていた。その視線を無視して強面で交渉することを
可能にする軍事力はソ連には存在しなかった。ソ連自慢の陸軍は独ソ戦でボロボロ。空軍も似たようなものだった。そして海軍については……貧弱なことで知られる
ドイツ海軍よりも遥かに悲惨な状態だ。ソ連海軍の某提督がドイツ海軍の陣容ですら「羨ましい」と呟くほどなのだから、ソ連海軍の凋落振りが判る。
これまでの居直り強盗のような行いの数々も相成ってソ連の立場は失墜していた。当然、スターリンに近かったモロトフへの批判は強かった。
ソ連側にとって不利とは言え、日本との通商ルートを構築できなければモロトフも責任を追及されて失脚していただろう。尤も日本との通商ルート構築できた
今では、ソ連の産業基盤を日本に乗っ取らせる原因を作ったと言われて失脚しかねない状況でもあった。
軍部も国内の不満のガス抜きのために、モロトフをスケープゴートにする位しかねない。モロトフが生き延びるためには、ベリヤと組むしかなかった。
軍部に対抗するために外務と内務の担当者が手を組んだ、との噂は流れていたが実際のところは双方共に保身のため呉越同舟であった。
「……フルシチョフのように、赤軍将校と仲の良い人間が共産党内部では台頭しつつある。連中はいずれ我々を追い落としにかかるだろう」
「むぅ……」
ここで二人は沈黙する。何しろ自分達の命が掛かっているのだから必死だ。
「この際、綱紀粛正という口実で軍の発言力を抑止するのも手だろう」
「綱紀粛正と言うと?」
「大祖国戦争が外国でなんと言われているか、知っているでしょうに」
「……なるほど、数々の蛮行で失墜したソ連赤軍のイメージ向上を図る、と」
「スターリン時代とは違う……それをアピール出来る」
「しかし綱紀粛正と言っても、一歩間違えれば粛清と言われかねないのでは?」
「絶好の口実がありますよ」
そう言ってベリヤが取り出したのは、赤軍内部で発生した性犯罪についての報告書だった。
「祖国のために立ち上がった女性達を食い物にした連中を叩きのめす……国民だけでなく、諸外国の婦人達へのアピールにもなる。そしてこれなら
ジューコフも反対できない。仮に反対すれば……性犯罪を容認するのか、か弱い女性を見捨てるのか、と攻撃することも出来る」
「なるほど。そしてこの手の取り締まりには多少の冤罪は付き物、と」
「ええ。まして逮捕されなかったとしても、嫌疑が掛かったとなれば……さぞや居づらくなるでしょうな」
ニヤリと黒い笑みを浮かべる二人。
「尤も私個人としては、祖国のために立ってくれた気高き女性たちに狼藉を働いた連中など、一人残らず銃殺刑にしたいですが」
「ははは……」
過去のベリヤの所業を知る人間としては、ブラックジョークにしか聞こえない台詞だった。
「し、しかし最近変わりましたな。女性への扱いが」
NKVDの長であるベリヤが、女性に対して紳士になったことは有名だった。そして性犯罪に対して厳しくなったことも。
何しろNKVDの人間で美少女(広報誌に出せるほどの容姿)に狼藉を働いた者など「反動分子」と直に罵った挙句に、自分の手で処刑するほどなのだ。
この上司の変貌にあわせるようにNKVDは性犯罪には厳しくなった。国内からは嫌われた組織であったが、女性から一定の評価がされるのはこのためとも
言われている。
モロトフの言葉に、ベリヤは厳かに頷く。
「私は過去の行いを悔い改めた結果と言っておきましょう」
「はぁ」
ちなみに彼の今の心情は「イエス・ロリコン、ノー・タッチ!」であった。仮にこの心情(しかも改心した結果)を知ったらモロトフは彼との協力関係を
続けるべきか少し悩んだかもしれない。
「ただしアピールするだけでは弱いかも知れません」
「ふむ……」
ソ連の悪行から目を逸らすものがあればいいのですが……と呟くモロトフを見て、ベリヤはあることを思い出した。
ベリヤは慌てて部下に電話を掛けて、ある資料を持ってこさせる。
「これは……」
「旧アメリカ合衆国の資料ですよ。日米開戦前のものです」
戦前、ソ連のスパイは世界各国に入り込んでいた。
特にアメリカ合衆国には重点的に工作が行われ、国務省を中心にソ連のスパイは暗躍していた。このためアメリカの情報は、ソ連に漏れていたのだ。
尤もあの戦争によってアメリカが滅亡したこと、そしてソ連の国際的地位の失墜と諜報網の壊滅で情報機関はてんてこ舞いだったため旧アメリカの
情報は倉庫の片隅に放置されていたのだ。
「そこに何が?」
「他国の足を引っ張る材料、いやその材料になりえる『何か』ですよ」
そう言ってベリヤとモロトフは資料を読みふける。そして二人は同時に一つの可能性を見出した。
「第二次満州事変は日本の仕業ではない可能性がありますな」
「ええ。そしてこの場合、日米対立が起きて一番得をするのは……」
二人は故人となった男『張学良』の存在を思い出す。
「しかしソ連の信用が失墜している今、この資料を発表しても信用されまい」
モロトフは苦い顔をする。だがベリヤは諦めない。
「約束を必ず守る国、かの国ならば有効に使えるでしょう。幸い彼らは大陸封鎖を国是としている」
日本が大陸勢力を封鎖する戦略を採用していることは、ソ連でも知れ渡っていた。
その気になれば、幾らでも切り取れるにも関わらず日本は、中国の海への出口を全て封鎖すると後は中華民国の分裂を煽るだけで
領土を掠め取ろうとする動きはなかった。
勿論、日本は新領土の整備に忙しいために何もしないだけという声もあった。しかしこれまでの日本の様子を見る限り、露骨に大陸を侵略する
とは考えられないというのが大勢の見方だった。
「もしも張学良が自作自演で日米対立を煽り、日本の国際的孤立を招いたのが事実であれば……日本はこれまで以上に大陸への干渉を強める。
何しろ、アメリカが完全に崩壊するまで戦争を止めなかった国ですからな」
「勿論、中華民国に嵌められたことを理解した各国も怒り心頭になって日本に協調して中国を叩く。そして自作自演を知りながらそれを黙認した
旧アメリカ合衆国へも怒りは向く……我が国には都合がよいですな」
上海大虐殺で中国は列強から怒りと不信を買っていた。
ここでさらに第二次満州事変が自作自演であったと露見すれば……中国は袋叩きにあっても文句は言えない。それどころか世界中で
華僑系が排斥されることになるだろう。
((これまで築いた物(人脈や富)が破壊される苦しみを貴様達も味わえばいいのだ……))
地獄へ道連れ……そんな後ろ暗いことを二人は思った。
しかしすぐにモロトフは苦い顔になる。
「ふむ……ですが、彼らも我が国の言うことなど信用するでしょうか?」
「『彼ら』もこの情報が有益と判断すれば十分に使うでしょう。『彼ら』の抜け目の無さは大臣もご存知でしょうに」
ベリヤが言う『彼ら』が夢幻会のことを示しており、さらにそのことをモロトフも理解していた。
「共産党の弾圧、そして第一次満州事変で散々に我々に喧嘩を売った者達だ。そのツケを払ってもらとしよう」
こうして日本に援軍が送られることになる。
あとがき
提督たちの憂鬱外伝 戦後編4をお送りしました。
中華主義の方々は色々と策を張り巡らせますが、これまで張学良が散々に喧嘩を売ってきたアカの方々の横槍が入ります。
因果は巡る……そんな感じでしょうか。
中国中心というより、ソ連中心の話になってしまいました……それにしてもベリヤがネタキャラ化していくのは何故だろうか……。
『セクシーコ○ンド外伝・すごいよベリヤさん』なる意味不明なタイトルが脳裏に……疲れているのかも知れません。
最初はベ○ヤフラッシュ(美少女限定)の使い手にするつもりだったのに(汗)。
それでは拙作にも関わらず最後まで読んでくださりありがとうございました。
提督たちの憂鬱外伝 戦後編5でお会いしましょう。