辻が対英外交のキーマンになるというトンデモ決定が下された後、会合は大陸で行われている人体実験の話題に入った。


「成果は?」


 嶋田の質問に杉山が答える。


「現在は脳の働きについて、普通の人間との差異を調査している。その結果、多少の差異が見られた」

「脳に?」

「前世の記憶もちは、脳内の電気的伝達速度が若干だが向上しているようだ。勿論、個体差があるが……」


 細かい情報が記された書類が回されると、誰もが食い入るように読んだ。

 何しろ自分達についてのことなのだ。気にならないほうがおかしい。そして一通り読み終わった嶋田が再び尋ねる。


「……憑依の際に、脳に何か変化が?」

「その可能性は否定できん。交霊実験では脳波に変化が見られるとも言う。別の魂が、いや意識が体に宿るということで何か変化が

 生じたのかも知れん。だが自分達の能力の過信は禁物だろう。何しろ、現状でこの始末だからな」


 対米戦争回避に失敗したという失策を指摘されて誰もが苦い顔をする。


「そこまで他人と差異があるというわけではない。気にするほどのことではないだろう」

「そこは安心できますが、転生や憑依の原因はまだ不明。いえ糸口さえ無いとは」

「多少時間と金をかけてもやる必要も、価値もあるでしょう。そもそも未知の分野の研究です。短期間で成果は出ませんよ」


 辻の言葉に嶋田は反論できない。実際、未知の分野の研究というのは容易なものではない。何十年も掛かる場合もあるのだ。

それを理解せずに成果が上がらないからといって研究を軽視するのは愚かなことだ。しかし未来知識が当てにできなくなりつつ

ある状況だと、新たな未来知識の持ち主の登場に期待してしまうのが、人の性だった。


「結局は我々の手で何とか進めていくしかないってことか。まぁ状況は良いとは言えないが史実のような末期でもない。

 情報機関も整備してあるし、何とかできる余地はまだあるか。しかし自然災害などの情報が当てにできないのは厳しい……」


 嶋田の呟きに何人かが頷く。災害が多い日本列島で自然災害の情報は有益だった。

 しかし衝号作戦によって地球環境は激変している。地震については兎に角、気象については史実情報は参考程度にしか

ならない。それでも多数の情報があるために、より正確な予測、そして災害への対処は可能だろうが、これまでのように軽微な

被害で済むということは無くなるだろう。


「まぁ愚痴っても仕方ない。観測態勢の強化など、できることを進めましょう。他に何か成果が挙がった事は?」

「医療分野については新薬や新規の治療方法の確立で成果は挙がっています。やはり大々的に実験できるのは大きいですね。

 史実でアメリカや欧州で医療技術が発達した理由がよく判りますよ。何とか遺伝子操作の研究までもっていきたいところです」


 辻はそう言うと、詳しい情報が書かれた書類を配る。メンバーは閉口したくなる実験内容に顔を顰めつつ、成果を見て予算を

投下しただけの価値はあったと判断した。しかし辻が遺伝子改造まで視野に入れているのを見て何人かは苦笑した。

 「コーデ○ネイターでも作る気か?」と軽い口調で突っ込みが入るも、辻は否定はしなかった。


「遺伝子を弄くる技術は欲しいと思いますよ。疾患への対策、それにデザイナーベイビー。応用できるのは幾らでもあります」

「宗教団体が煩いのでは?」

「否定はしません。ですが次世代の産業、日本の飯の種になる可能性がありますから」


 技術の発達によって製造業もいずれは必要な人手が少なくなる。そうなれば新たな雇用の受け皿が必要だ。

飯の種は一つでも多いに越したことは無い。そして種を早めに用意するのも必要だ。

 だが相変わらず金を優先するような辻の台詞に、杉山は嘆息する。


「……津波で億単位の人数を冥府に追いやって、さらに無茶な人体実験か。後世で何と言われることやら」


 実験を担当する731部隊が所属する陸軍の参謀総長である杉山のぼやきに、辻は不敵な笑みを浮かべる。


「勝てばいいのです。前にも近衛さんが言われましたが、勝者が歴史を作るのです。アメリカ先住民を虐殺し、さらに多数の

 有色人種を殺し、人体実験の材料にしてきたアメリカが、史実の世界では世界の覇者、世界の警察官を名乗っていたんですよ」

「勝ち続けた引き換えに大きなゆり戻しがなければ良いがな。まぁ良い。軍人は戦争に勝つのが仕事だ。給料分の仕事はする」

「お願いします」


 杉山が引き下がると、辻は人体実験の継続を求める。


「暫く人体実験を続けましょう。使い捨てに出来る被験者には不自由しませんし、アメリカ風邪の治療薬開発にも役立つでしょう」


 匪賊、犯罪者、共産主義者を使った実験。史実の人権保護団体や某組合が聞けば目を剥き、抗議してきそうな所業であったが

会合はこれを承認した。

 20世紀から21世紀にかけて日本の産業の一翼を担うであろう技術の育成は必要だった。それが例え、後世からは外道と言われ

るものであったとしても。彼らからすれば守るべきは日本の国益であり、日本人の命であり財産であった。それ以外は些事だった。


「あとは経済ですね。色々とやることは多いですが、取りあえず食料不足の懸念もあるので当面は経済の統制は必要になるでしょう」


 この辻の意見に出席者の多くが頷く。しかし財界の人間は少し渋い顔だ。


「経済の統制が必要なのは判りますが、長引くのは好ましくありません。その辺りは理解していただきたい」

「あと輸出先の米国が滅んだのは痛いですね。資源は何とかできる目処が立っているにしても、北米市場の代わりは必要です」

「判っています。ですから西部三州を市場として残すのです。福建共和国の梃入れも急ぐ必要もあるでしょう」

「タイ、フィリピン、ベトナム、いえインドなどの市場もいずれは必要です」


 遠まわしに南方進出の必要性を主張する財界。勿論、彼らとて日本の限界は理解している。だが経団連を通じて夢幻会に

参加している企業群の突き上げも激しい。嶋田は対外強硬論が活発なのは、あの連中のせいかと苦い顔をする。


(金の亡者どもが……)


 尤も自分のすぐ傍に、彼らなど比較にならない金の亡者がいることを思い出すと、苦笑した。


(人のことは言えないな。それに彼らだって養うべき家族や従業員が居る。一概に悪とは言い切れない)


 そう自身に言い聞かせると、嶋田は表情を引き締めて口を開く。


「勿論、財界の要望はわかっています。すぐに東南アジアの植民地を『我が国のために』解放するのは難しいでしょう。

 ですが、すでに手は打ってあります。もう暫く辛抱して貰えませんか?

  新たに確保できるであろう領土、資源地帯の開発を促進することで新たな需要は喚起できるでしょう」


 そう言って嶋田は辻に視線を向ける。これを見た辻は頷く。


「問題ありません。まぁどの程度、金を出せるかは省に戻って関係部署や機関と話し合う必要があるので即答できませんが」


 辻はそう言うが、この場に居る人間達は辻が金を作るためならあらゆる努力を惜しまなかったことを知っていた。故に財界の

人間達も引き下がった。そしてさらに議論を進めた後、会合は終了した。


「何はともあれ、暫くは重厚長大型産業を、そして少しずつ別のものにシフトしていく。これが夢幻会が描くグランドデザインと

 いうわけか」


 嶋田の感想に辻は頷く。


「確かに未来情報はあまり当てにはできません。ですが技術の発達が何を齎したのかを理解できれば、ある程度の手は打てます。

 我々は経済戦争で負けるわけにはいかないのです。国民に貧困を強いるのは為政者として失格ですから」

「確かに」

「それに国が貧乏だとお嬢様学校が作れませんし」

「おい。結局、そこか。前半は良いこと言ったと思ったのに」

「当然です。組織化された社会。その最大は国家であり最小は家庭。家庭の崩壊は社会の不安定化を招き、最終的には国家自体に

 悪影響を与えます。それを防ぐためには良妻賢母は必要ですよ。尤も私だって女性の全てをそうできるとは思ってはいませんが

 ある程度の数は必要です。次の世代のために、次の次の世代のためにもね」

「国家百年の計か」

「何度も言いますが、我が国にとって最大の資源は人ですからね」


 そう言ってニヤリと笑う辻に、嶋田は嘆息する。


(俺も資源のうちだったら、少しは大事にしてくれよ……)


 先進国筆頭になろうかとしている日本帝国。表向き、その実権を握る男は、色々とお疲れ気味だった。











                 提督たちの憂鬱   第50話








 日本が戦後に向けて動き始めていた頃、崩壊した連邦政府の首脳の面々は、バラバラに活動していた。ガーナーは臨時首都で

あるシカゴを脱出して自分の地元であるテキサス州に避難していた。

 尤もそのテキサス州でも反連邦機運が高まっており合衆国大統領であったガーナーの肩身は狭かった。何しろ彼は日本という

黄色い猿に負けた大統領なのだ。これまで一度でも日本に勝っていれば少しは言い訳も出来ただろうが、全戦全敗の上に連邦の

崩壊を止められなかった。故に彼は地元の人間の白い視線に晒された。


「こんなことなら、シカゴで死んでいたほうがよかったかも知れないな」


 ガーナーは自室でそう後悔した。

 テキサスに脱出した当初は、連邦政府の再建を考えていたガーナーであったが、それがすでに果たせぬ夢であることを嫌と

いうほど思い知らされていた。


「……私は結局、大統領の器ではなかったということか」


 ガーナーは振り返って、自分の後ろの壁に貼り付けてあるアメリカ合衆国、いや旧アメリカ合衆国の地図を見る。


「私はアメリカを滅ぼした大統領として名を残すことになるのか……ロングが、あの若造が地獄で笑っているだろうな」


 この時代、人種差別は公然と行われていた。保守的な南部では一際酷い。そんな土地で黄色い猿にむざむざ敗北したガーナーが

政治家として復活する芽はなかった。誰もそんな無能者を使おうとは思わないのだ。そのことを知るが故に、誰もが彼から離れた。

これまで仲の良かった人間でさえ彼とは距離をとった。一番の側近であるはずのハーストはとっくの昔に逃げ出している。


「この大地は列強による草刈場になる。もはやアメリカが強国として復活することはないだろう……だがそれを見るつもりはない」


 その後、ガーナーの部屋から一発の銃声が響く。

 ジョン・N・ガーナー。後の世でアメリカ合衆国最後の大統領として、そして自分の名誉や権勢のために無謀な対日戦争を

強行した挙句にアメリカを滅ぼしたと記憶される男は73年の生涯を閉じた。

 一方で地元に戻ったデューイは必死に地元の再建を図った。連邦再建は無理としてもニューヨーク州は再建したい。その情熱が

彼を動かした。これまでの彼の行いから、政治家としての手腕は信頼されていた。故に多くの人間がデューイに従った。

 無い無い尽くしの中、彼は出来る限りの手を打って再建を図った。その手腕を知った辻が惜しい人材だったというほどなのだから

彼がどれほど尽力したかわかる。


「欧州各国とも連絡をとって支援を要請しなければならないだろう」


 必死に建て直しを図るデューイだったが、現場を鼓舞することが多かったことが祟ってか、彼もまたアメリカ風邪に罹った。


「こんなところで……私はまだ死ぬことはできないのに」


 病床で苦しみぬいた挙句、トーマス・デューイもまたこの世を去った。

 こうして2人の男が、アメリカ合衆国最後の大統領と副大統領が相次いでこの世を去った。しかし、だからといって歴史が大きく

変化することはなかった。

 列強にとってアメリカの分割は既定路線であった。たとえ彼らが生きていてもそれは変わらない。むしろ戦前の豊かで強い国

だったころを知る者たちは、2人はアメリカの末路を見なくて幸せだったとさえ考えた。

 何故なら無政府状態、いや内戦状態と言ってもおかしくないアメリカをさらにどん底に突き落とす動きが、日本と欧州において本格的

に始まったからだ。







 パルミラ、ジョンストンを陥落させた日本海軍はすぐにハワイ攻略作戦の準備に取り掛かっていた。加えて中央情報局等の

日本の情報機関はアラスカ準州政府へ接触し、日本への恭順を呼びかけた。

 一兵も動かすことなくアラスカを攻略することが出来れば何も言うことは無い。主だった都市を押さえるだけでも必要に

なる労力は少なくないのだ。勿論、その気になれば攻略もできなくは無いが、減らせるコストは減らすに限る。

 この日本側の呼びかけに対して当初は無視していたアラスカ準州であったものの、ハワイ陥落は時間の問題であり、西海岸

の各州も積極的に日本と戦う意思がないことから日本の武力を交えた恫喝には逆らえなかった。

 何しろアラスカに配備されていた旧連邦軍の陣容はお寒い限り。州軍と併せても強力な日本軍の前では一蹴されてしまうのが

目に見えている。

 勿論、アラスカ準州は『イエローモンキー』に併合されたくないので、カナダ政府へ併合を打診したが、津波の被害によって

大打撃を受けていたカナダに、宗主国に逆らってまで日本を敵に回す真似も、統治費用が嵩むような政策も取れなかった。

 これに加えて連邦崩壊の影響で経済的にも彼らは追い詰められた。ドルは紙切れとなり、本土からの物資も入らなくなった。

勿論、アラスカが本土へ販売していた物品も倉庫で在庫の山となっている。

 アラスカに残された道は2つ。日本への恭順か、それとも自壊か。この2つだった。生命と財産をとるか、プライドをとるか

アラスカ政府は選択に苦慮することになる。

 一方で比較的余裕がありそうなカリフォルニア州、もといアメリカ財界の生き残りは日本への併合を希望して日本政府を

苦慮させた。


「……お前はどこの半島国家だ」


 首相官邸で報告を聞いた嶋田は頭を抑えた。


「もはや形振り構っていられないって言ったところですね」


 打ち合わせを行うために首相官邸に居た辻も嘆息した。

 彼としてもカリフォルニア州を含めた西部三州は傀儡、もとい衛星国家にしておくのが適当と考えていたので併合など

願い下げだった。何しろ、ただでさえ広いアラスカを押さえるのに、カリフォルニアまで併合したら手が回らない。

さらに人口が多いあの地域は同化政策も難しい。強硬な手を打ってテロの嵐になったら目も当てられない状況になる。


「連邦崩壊、それに経済の崩壊によって旧アメリカ合衆国領内は内戦状態。東部の難民だけでなく、内陸州から食うに困った

 人間が流れ込み、南にはアメリカ人に恨み骨髄のメキシコが控えている。

 まぁ彼らの行動は理解できなくは無いですが……やや短絡的ですね。それだけ追い詰められている証拠と言えなくも無いですが」

「しかしこの調子だと、カリフォルニアは民需の市場としては絶望的なのでは?」

「でしょう。戦後暫くは兵器ばかりが売れる世界になりそうです」


 辻はそう言って肩をすくめ仕草をする。

 実際、日本製の商品で一番需要が高いのは兵器だった。仮に日本が軍縮で兵器を放出したら多くの国が買い求めるのは間違いない。


「まぁさすがに併合は無理として、状況が安定するまで相応の駐留軍はいるか。核兵器だけには頼れないし」


 天井を仰ぎ、苦渋の顔をしつつ嶋田はそう呟いた。これに辻は苦い顔で同意する。


「ここまで不甲斐無いとなると活を入れるために、連中を安心させるためにも相応の規模の駐留軍は必要になるでしょう。

 まぁ占領軍とするとカリフォルニア州民からの反発もありそうなので現地政府の要請に従って、という形ですかね」

「軍縮を考慮すると、兵力のやり繰りが大変になるな」


 太平洋戦争の勝者にも関わらず、ぶつぶつと不平を漏らし続ける嶋田。

 死に追いやられたガーナーやデューイからすれば贅沢極まる悩みであると言えたが、当の本人からすれば頭の痛い問題だった。


「無料で無限に艦隊や兵器が湧き出る魔法の壷でもあれば……」

「気持ちは判りますが、無いものねだりですよ。それに作ったとしても保守整備が問題になるでしょうに」

「それは承知していますよ。でも、子供の妄想の中でしか出てこないような物でも欲しいと思うときはあるでしょう?」

「まぁどちらにせよ、この件は後で検討しましょう。今言っても仕方ないですし」

「……はぁ〜。辻さん、いっそ貴方が首相になったらどうです? 適職でしょうに」

「ははは。私は影で動くのが一番ですよ。それに私はイギリス人とやりあう仕事がありますし」


 世紀の腹黒対決に燃える辻を見て、嶋田は少し嫌な汗をかく。だがその直後、重要なことを思い出す。


「そういえば、もうそろそろ始まるか。欧州連合軍よる北米侵攻が」

「涙ぐましい努力の末に、強引に仕立て上げた輸送船団と護衛艦隊で大西洋を渡る彼らにエールでも送ったらどうですか?」


 辻の皮肉に嶋田は苦笑する。


「まぁ涙ぐましい努力といえば、努力でしょうね。我が国からすれば火事場泥棒もいいところですけど」

「欧州各国は相次いで北米への侵攻を決定しています。勿論、自由フランスや自由オランダも利権目当てに参戦を打診。

 フィンランドは権益を要求しないという態度で義勇軍の派遣を決定しているというのに」


 全く嘆かわしいとばかりに首を横に振る辻。嶋田は「お前も十分に強欲だろうに」と思うが敢えて突っ込まない。


「ま、彼らが上手くやることを祈りましょう。ですが南米やメキシコの動きには注意を払わなければ。揉め事はもう十分です」

「嶋田さんが言うと、フラグにしか聞こえませんね」

「……不吉なことを言わないでください」












 西暦1943年3月21日、7個師団からなる第一次北米侵攻部隊を抱えた欧州連合艦隊が出撃した。

 掻き集められた輸送船団は日本のアラスカ侵攻作戦・星一号のために集結していた輸送船団に準じる規模であり、護衛の艦隊

も戦艦4隻、空母2隻、装甲艦2隻を中核とした大艦隊だ。勿論、主力はイギリス海軍であったが、地中海最大(最強?)の海軍

となったイタリア海軍、さらに水上戦力が弱体のはずのドイツ、フランス海軍も参加していたことから、欧州連合艦隊と言っても

嘘偽りではない。中でもこれまで出番がなかったドイツ海軍が虎の子の装甲艦2隻を参加させていたことは特筆に価した。

何しろシャルンホルスト級は無く、ビスマルク級も1隻しかないドイツ海軍にとってこの2隻は黄金よりも貴重であった。

このことから、どれだけヒトラーが気合が入っているのかが判る。そして実際、ヒトラーは閣僚達の前で気炎を挙げていた。


「何としても南北アメリカ大陸をゲルマン民族の新たな生存圏とするのだ! イギリスや日本に遅れをとってはならぬ!!」


 海軍力が乏しいドイツにとって北米への侵攻は、イギリスの協力があったとしても非現実的と言えた。だがそれでもヒトラーは

アメリカへ侵攻する道を選んだ。それだけアメリカの遺産は魅力的だった。

 ソ連との果てしない泥沼の戦いはドイツに無視できない被害を与えていた。ソ連は確かに史実より弱体であったが、この世界に

おいてはスターリンはドイツとの戦争が不可避と判断して防御に力を入れていたため、緒戦から大きな消耗を強いられていた。

加えて戦争が長引くと畑から兵士が取れるのかと思わせる程の人海作戦、強制収容所から出された優秀な赤軍将校の指揮が加わった。

さらにドイツ軍にとって誤算だったのがロシアという国が持つ領土の広さだった。占領地が広がるにつれて増える負担は、ドイツ軍

の兵站に悲鳴を挙げさせた(ソ連は国家体制そのものが悲鳴を挙げていたが)。

 ドイツは占領地から収奪を行う事で何とか物資を賄っていたが、占領地からの収奪は現地住民の反抗を呼んだ。勿論、ドイツ軍は

それに武力による鎮圧で答え……状況はものの見事に泥沼と化した。そんな際にさらに津波による追い討ち。ドイツの財政は文字通り

火の車だった。

 周辺国からの収奪にも限りがある。故に新たに収奪する場所が必要だった。そしてヒトラーは戦前は世界一豊かであったアメリカに

目をつけたのだ。荒廃したとはいえ、残された物は富以外にも多く、それらはドイツにとって魅力的だった。

 同時にヒトラーはアメリカ風邪の治療薬開発を厳命していた。肺ペスト系の病気と言う、欧州人からすればトラウマものの病気の

特効薬を開発できれば多大な利益となると同時に、各国への影響力を強めることも出来るのだ。


「欧州を纏めなければソ連は倒せぬ。そしてイザと言うとき、日本に対抗するのも難しい」


 この言葉に異論を唱える閣僚や側近はいなかった。さすがの彼らも日本を軽視するほど無能ではなかった。さらに最近になって

漸く突き止めた秘密結社『夢幻会』の存在がさらに警戒心を煽っていた。

 何しろ『夢幻会』という組織は彼らから見れば異様そのものだったからだ。表に出ることなく国を動かし続け、後進国を、それも

有色人種の国をわずか70年余りで先進国筆頭に押し上げる。彼らから見ても、これは異常な功績だった。


「総統閣下、しかし現状で日本に対抗心を丸出しにするのは……」


 レーダーの諫言に対してヒトラーは判っているとばかりに頷く。


「余もいますぐに日本と競い合うつもりはない。ドイツが繁栄を手にするには暫くの間、日本をうまく利用することが必要だろう。

 夢幻会は確かに脅威だ。だが、利用できればこれほど利益がでる存在は無い」


 日本嫌いのはずのヒトラーの方針に誰もが息を呑む。


「宜しいのですか?」


 リッベントロップの問いかけにヒトラーは平然と答える。


「今、我々と日本が敵対して喜ぶのはソ連、そしてイギリスだ。日本と雌雄を決するとしたら、この2カ国を片付けた後だ」

「しかし宥和となると、場合によっては対日講和が必要になるのでは?」


 公式ではドイツと日本(+連合国)は休戦状態に過ぎない。講和となると各国の亡命政府の取り扱いが問題になる。

有名無実と化している日英の同盟関係などから日独単独講和という道もあるが、あの義理堅い日本政府が他の亡命政府を容易に切り

捨てるとはリッベントロップは思えなかった。特にベルギーやオランダは戦前からの友好国(後者にいたっては江戸時代からの)だ。


「手綱さえ握れれば西欧の大半は手放しても構わん。ただし自由フランス政府の復帰は絶対に認められん」


 ヴィシーフランスは枢軸国の有力国家であると同時に反英感情が強い国家であり、利用価値は高かった。故に自由フランス政府の

本土復帰は認められなかった。ポーランドはいうまでも無い。ヒトラーはあの忌々しい国を復活させるつもりはなかった。


「イギリスとも本格的な講和を進めなければならないだろう。ひとまずは米国の分割が優先だ」


 このようにドイツが対日、対英講和交渉を考え始めている頃、イギリスも対独講和と対日関係修復に向けて動いていた。

 前者はドイツも対英関係改善を考慮していたので何とかなりそうだったが、後者の対日交渉は芳しくなかった。日本人から

すればイギリスは許しがたい裏切り者なのだ。いくら日本政府が対英関係修復を考えても、この根強い国民感情は抑えられない。

 さしものイーデンも苦戦していたころ、夢幻会の最高幹部会・会合のメンバーの一人である辻政信が対英交渉に当たることが伝え

られた。


「これで日本の真の中枢にコネクションが出来た」


 報告を聞いたイギリス政府首脳は安堵した。辻政信は財務担当としてやり手であり、各省庁への顔も利くと言われている。

表立っての関係修復はまだ無理だったが、それでも日本の有力者とツテができるのは大きな利益だった。


「本格的な関係修復は当面は無理としても、緊張を緩和しなければ話にならない」


 ハリファックスの言葉に閣僚達は頷いた。世界帝国を誇っていたはずのイギリスはそれほどまでに追い詰められていた。

 イギリスにとっては欧州に強大な統一勢力が出来たというだけでも頭が痛いが、どうしようもない。対抗するには陸軍ではなく

海軍と空軍の増強が必要になるが、現状では海軍の増強どころか現状維持すら危うい、いやほぼ不可能という状況だった。

 これに頭を痛めているのは当のイギリス海軍だった。


「KGV級の改良型も建造できるのは精々2隻が限界だろう。それ以降となると……見当が付かない」

「それでも引き換えに足の遅い戦艦は軒並み退役、解体せざるを得ない」

「馬鹿な、数が減りすぎてイタリア海軍に対応できなくなる。せめて旧式艦は改装して使えるようにしないと」

「全部は無理だ。レナウン、レパルス、フッドを騙し騙し使うしかないだろう。装甲は薄いが足は速い」


 イギリス海軍省は連日、お葬式のような状況だった。戦債償還、復興費用の捻出によって軍事予算の削減は必至。しかし自国を

巡る状況は戦前より悪化している。どん詰まりだった。勿論、この事態を招いた政府への怒りと不満は天井知らずだった。

 そのことをハリファックスは承知していた。故に夢幻会中枢とのコネクションが出来たという好機を利用するつもりだった。


「航空機や、航空魚雷のライセンス生産を打診する」


 最新鋭の零式戦闘機、一式戦闘機などは無理としても九六式戦闘機、九七式艦爆、九七式艦攻をライセンス生産できれば

イギリス軍の戦力は大きく向上する。そうなれば軍の不満を和らげると同時に、今の状況を多少なりとも改善できる。

加えてライセンス生産は外交カードにも使える。対価は安くないだろうが、やる価値はあった。

 勿論、東洋の新興国の飛行機をライセンス生産することに感情的に反発する者もいるだろうが、この状況で下らない感情に

任せて状況判断を誤れるほどイギリスに余裕は無かった。


「しかしこうなると、フィンランドが羨ましいですな」


 軍令部長アンドリュー・カニンガムはそう言って嘆息した。日本の数少ない友好国としてフィンランドは優遇されている。

これはフィンランドがドイツと組んでソ連に戦争を仕掛けなかったことが大きかったと言えた。仮にフィンランドがドイツと

組んでいれば、日本人はフィンランドをドイツと同類と考えてもおかしくなかった。

 最新の情報によれば日本はフィンランドへの更なる支援さえ進めている。ソ連との関係も考慮して最新鋭兵器の供与は控えて

いるが、それでもイギリスとの扱いの差は明らかだった。尤も優遇される当の本人達(特にマンネルハイム元帥)は日本の

必要以上の気遣い振りに困惑していたが。


「……過去を悔やんでも仕方ない。今はアメリカ侵攻。これを成功させなければならない」


 すでに賽は投げられた。イギリスに、いや欧州各国は後戻りはできなかった。

 欧州連合艦隊は津波によって更地になったアゾレス諸島やバミューダ島を拠点として大西洋を渡っていった。

 一方でスターリンは当初、ドイツ軍の矛先が北米に向いたことに安堵すると同時に、体制の立て直しを目論んだ。何しろソ連は

国内の至る所がボロボロだった。何とか状況を打開しないと国家そのものが崩壊してしまう。

 しかしソ連の状態は悲惨を通り越しており、何とかするには独ソ戦を早期に終らせる以外になかった。だが軍事的にそれは不可能で

あり、戦争を終らせるとなると停戦、又は講和しかない。しかしこうも一方的に殴られた状態で矛を収めることは容易ではない。


「何としても反撃に出るのだ!」


 スターリンはそう厳命した。勿論、現状で総反撃に出ても犠牲が大きすぎるのは明らかだ。赤軍の将校達は十分な物資と兵力を蓄えて

反撃に出るしかないとスターリンに訴えた。戦前なら即座に粛清される類の行動であったが、現状ではさしものスターリンも納得せざる

を得ず、赤軍は東部戦線でのドイツ軍の活動が停滞したのを見計らい、軍の再建を急ぐようになる。

 ただし生産量が足りないため日本からの物資に依存せざるをえないという状況は続いていた。特に工作機械は予備の部品も含めて不足

気味だった。このためソ連はさらに人手(少数民族や囚人)をすり潰して資源を採掘し日本に輸出することになる。

 一方でソ連内部では、スターリンへの不満が拡大しつつあった。何しろこれまで多大な犠牲が出ている。スターリンの責任が追求されて

もおかしくない。さらに赤軍を支えているのは収容所に送られていた将校達だ。収容所生活を送った彼らに共産党に対する忠誠心などある

筈が無かった。


「スターリンに全ての責任を被せて、一時的にでも戦争を終らせなければソ連の未来は無い」


 先が見える人間達はそう考えて行動を開始する。勿論、ベリヤに発見されたら全てが終わりなので、慎重に振舞った。

こうして欧州連合軍による北米侵攻は、独ソ戦の行方にも影響を与えようとしていた。















 欧州連合艦隊の出撃を知った旧アメリカ財界人は、北米分割が本格化したことを理解した。そして、この潮流に逆らう

ことは自殺行為であるとも理解していた。


「いよいよ始まったか」


 大西洋を守っていた海軍はすでに無く、一旦侵攻が始まればこれを止めるものは居ない。南部では抵抗する者も現れる

可能性があるが、それも大したものにはならないと彼らは考えていた。


「もはや南部に欧州と戦う力は無い。せいぜいゲリラ戦が関の山。それもドイツやイギリスが医療品の提供をチラつかせれば

 沈静化するだろう」

「アメリカ風邪への恐怖は大きいからな」

「カリフォルニアへの流入は阻止しなければならないぞ。ここまでやられたら……」

「あとはオーストラリアやカナダ、南米に逃げ出すしかない」

「いっそのこと、今すぐ逃亡するというのも手だろう。もはやメーカーの中には、アメリカでの商売を諦めて海外へ逃走するところも

 ある。カナダ経由で第三国への本社移転も考慮するべきだろう」


 アメリカの早期の崩壊によって軍需産業を中心に多数の産業は大打撃を受けた。本来は西部州の連合体として新国家が誕生する

はずだったのにバラバラに独立状態になったことで需要は激減し、必要な資源や部品も入手しづらい状態になっている。

商売上がったりと見て海外に逃亡する企業が出ても不思議ではなかった。


「おいおい、君達はいいが、我々はそうはいかない。カリフォルニアの油田まで手放せない。それに日本との関係はどうする?」

「判っている。だが日本が来るまでに我々が力を失っても意味は無い。時間が経つほど、我らの力は弱まる。新天地で再起を

 図るという手も捨てるべきではない」

「しかし逃げると言っても限られている。カナダは津波であの様。まともな経済活動は難しいだろう。南米に移転したとしても

 現地の動きやドイツの進出を考慮すれば財産は保障されん。オーストラリアや、我々の資本があるインドネシアか?」

「どちらにせよ日本の影響下だ。我々が逃げ出したことでカリフォルニアが破綻すれば、後々拙い。今は踏ん張り時だろう」


 しかし状況は甘くは無かった。米軍を追い出し、傀儡と言っても良い親米政権を打倒したメキシコが北上する気配を見せていた。

散々に殴られ続けたメキシコ人の怒りは凄まじかったのだ。

 冷静な人間は、この辺りで一旦止まるべきだと主張したが、その声は大多数の熱狂によってかき消された。彼らは恨み重なる米国が

崩壊した今こそが旧領回復のチャンスと主張した。

 加えてアメリカ崩壊によって、メキシコは貴重な収入源であった出稼ぎができなくなった。このままでは貧困層の生活が苦しくなる

のは確実。故に彼らは富の収奪、いや奪還を目論んだのだ。彼らから言えばアメリカの富の何割かはメキシコから不当に奪っていた物

なのだから。

 かくして、かつてのアメリカとメキシコの国境周辺では不穏な空気が漂うことになる。









 あとがき

 提督たちの憂鬱第50話をお送りしました。拙作ですが最後まで読んでくださりありがとうございました。

 勝ったのに、揉め事が一向に減らない嶋田さんでした。このままだと日本で初めて過労死した首相になりそうです(笑)。

 貧乏神の呪いで海軍、陸軍ともに四苦八苦することになるでしょう。

 また憑依現象の秘密の解明には暫くかかるでしょう。というかメンバーが生きている間に解明できるかな?

 次回、山本大将の久しぶりの登場になる予定です。尤も折角、海軍大臣を彼に押し付けても嶋田さんの気苦労はまだ

 無くなることはありませんが。

 それでは提督たちの憂鬱第51話でお会いしましょう。