アジア艦隊撃滅作戦『魁一号作戦』のための準備が進められている中、日本国内では
辻と阿部の指揮の下で夢幻会内部の不穏分子の粛清が開始されることになった。
阿部が支配下に置く悪名高き特高警察と辻の要請で動いた帝国中央情報局は、夢幻会の
人間で特に悪質で国家に害をなす人間を、この世界から退場させていった。
事前に粛清が行われることを知らされた会合出席者達も、あまりの強引なやり方に眉を
顰めたが、不穏分子の中に戦争遂行の邪魔になる人間が居ることを知ると、最終的には同意
せざるを得なかった。
「戦争をやりつつ、同胞を粛清とは……やりきれないな」
嶋田はぼやいたが、どうしようもなかった。夢幻会の構成員の多くは、愛国心とモラルの
高い人間であったが、どうしても例外的な人間もいる。さらに最初はモラルを持っていても
富と権力に酔って人間的に腐ってしまった者もいる。
勿論、腐っても国益に貢献するのなら目を瞑れるのだが、腐った上に国や同胞を平然と他国に
売り渡そうとする輩には目を瞑るわけにはいかない。
「今回の粛清はあくまでも一番性質が悪い人間のみに絞っています。見せしめには十分でしょう」
辻の言葉を聞いても会合出席者の多くは渋い顔だった。
だが今回粛清される人間は、どうみても本人が悪いとしか言いようが無いので、庇うことも
できない。さらにこの裏切り者のせいで戦争に負ければ、真っ先に自分達が戦犯として裁判に
掛けられることを考えれば、辻のやったことは褒めることはしても貶すことはできない。
「辻さんの判断に間違いはないでしょう。不穏分子を放置すれば、戦争の早期終結だけではなく
夢幻会の情報が流出して、後々面倒なことになりかねない」
近衛はそう言って出席者達を宥める。それに続くように伏見宮が話題を切り換える。
「組織のあり方の議論については、戦後でも出来る。今は目の前の戦局に集中しよう」
この言葉の後、出席者達はすぐに話題を切り替える。
アジア艦隊撃滅作戦『魁一号作戦』の準備は順調なので、すぐに中国の問題に移った。
「陸軍の進撃によって奉天の陥落、そして沿岸部の制圧が時間の問題となりました。
これを受けて、この戦争で日本が勝利すると読んだ大陸の有力者がこちらに接触してきています」
情報局局長の田中の報告を聞いて出席者達は苦笑した。
「やれやれ、外野の連中は楽観的ですね。まぁ我が国も偉そうなことは言えないですが」
嶋田としては米海軍を完全に、完膚なきまでに壊滅させなければ安心できたものではない。
一時的にアメリカに勝利したとしても、いずれは容赦の無い復讐が待ち構えている。下手をすれば
日本列島が核の飽和攻撃で文字通りこの世から消滅するかも知れない。軍事的な報復がなかったと
してもあらゆる嫌がらせを受けて国家として行き詰る可能性が高い。
日本の繁栄を守るためには二度とアメリカが立ち上がれないように、完全勝利を手に入れるしか
ない……夢幻会はおおよそそのように考えていた。
故に楽観的に物事を見る連中が、ある意味羨ましくてたまらなかった。
「で、具体的にはどのような連中が?」
近衛の問いに田中は苦笑いしながら答える。
「まず浙江財閥です。支援していた国民党が倒れ、さらに張学良とアメリカが倒れつつあるのを見て
今が好機とばかりに日本にお伺いを立てています」
「信用できるのか?」
「上海から追い出された恨みもあるので、嘗ての栄光を取り戻せるなら国すら売るでしょう。
……尤も浙江財閥以外の連中も似たり寄ったりですが」
「売国奴は信用できないのだが……」
「あの国の気質です。それに連中は百年、二百年、いやそれ以上の長い視点から物事を見ます。
日本に利権を売ることで大陸に引きずり込み、日本の力を上手く吸い取るつもりかも知れません」
「確かに。地政学を理解していない資本家がこぞって内陸に進出する可能性は否定できん」
近衛は頭が痛いとばかりに首を横に振る。
「どちらにせよ暫くは中国は封鎖して弱体化させ、かつ分裂を煽る方法でいいだろう。
下手に関わると碌な事が起きない」
便衣兵や匪賊に頭を痛める杉山の台詞に誰もが頷いた。あの広大な大地と5億の国民の面倒を
見るなど誰もが御免被ることだった。
「あと今の問題は捕虜の扱いだ。まさかここまで多数の捕虜を抱えることになるとは思っていなかった」
中国戦線では日本陸軍が事実上の完全勝利をものにした。しかしそのために日本軍は大量の捕虜を
抱える破目になった。これが日本の懐事情をさらに圧迫していた。
「便衣兵や匪賊は兎も角、正規兵を粗末に扱えば後々面倒になります。追加予算を出してでも
対応しなければならないでしょう」
辻の言葉に全員が頷く。捕虜を虐殺などすれば、これから戦うであろう軍は日本軍に降伏しようとは
しなくなる。何しろ投降しても命の保証が無いのだ。それなら死ぬ気で戦う……そう思うだろう。
故に降伏した敵軍将兵は可能な限り丁重に扱う必要があった。そう、味方の損害を抑えるためにも。
しかし辻は転んでもただでは起きない。
「条約で可能な範囲で捕虜達に働いてもらい、少しでも赤字を穴埋めしたいですね。
それと米軍の捕虜が脱走しても逃げれないように、連中は上海などの元激戦区の近くに収容しておきましょう。
幸い、『上海大虐殺』のせいで反米感情は強いですし、アメリカ人を忌み嫌っている連中が周囲に
居ると成れば米軍捕虜達も脱走する気が失せるでしょう」
そんな辻の言葉を聞いて嶋田は内心で密かに突っ込んだ。
(それを煽っているのは他ならぬお前だろうに。おまけに中国人の蛮行を描いたニュース映画を黒澤氏を含む
日本映画界の総力を挙げて作ったうえに、欧米列強に配信する準備まで進めやがって。
いや、映画といえば近衛さんも一枚噛んでいたな……全くどいつもこいつも自重という言葉を知らないのか)
相変わらずえげつない手を使う辻達に呆れつつも、国益にかなう以上文句は付けれない嶋田だった。
「しかしここまで派手にやると、日本は戦後に世界中から警戒されるのは間違いない。
国交がいきなり断絶なんてことはないだろうが、技術導入や貿易で支障が出るかも知れん。
いや、下手をすれば日本文化を忌み嫌う人間によって、萌えや燃えが広まらないかも知れん。問題だな」
実際には色々なところで汚染(?)が広まっているのだが、その実体を詳しく知らない近衛は眉を顰めた。
(派手にやっていることを自覚しているなら、次は自重することを覚えてください)
心の中で突っ込む嶋田。しかしながら『自重、何それ美味しいの?』を地で行く人間達はそんな嶋田の
内心を知る由もなく(仮に知っていても気にも留めないだろうが)、次の策を張り巡らせた。
「将来の技術導入に関して、杉山閣下には少しお願いしたいことがあるのですが」
辻がおもむろに手を挙げる。これを見た嶋田は猛烈な嫌な予感を感じながらも、発言を許可した。
お願いされる立場の杉山も何か不吉なものを感じたのか、思わず身構える。
「中国戦線で、もう少し節約しろと? 技術開発には優秀な人材と資金が必要だからな」
「いえ、そうではありません。むしろ陸軍には頑張っていただきたいと思っています。ただ……」
「ただ、何だ?」
「防疫部隊である731部隊で、色々とやっていただきたいことがあるのですよ」
「「「?!」」」
提督たちの憂鬱 第30話
731部隊。史実では人体実験で悪名をはせたこの部隊は、この世界でも存在した。
ただしこの世界では日中戦争が起こったのは、1942年8月なので史実のような人体実験は
まだ行われていない。
「………731で何をすると?」
「幸い、中国では大量の便衣兵が捕まっています。彼らを使って色々と実験していただきたいのです。
細かい要求は後日にお渡ししますが、まずはBC兵器について」
「新開発しているBC兵器の効き目を見ると?」
「それもありますが……私としてはBC兵器に対する防御策を練りたいのですよ」
「それについては私も憂慮している。恐らく今年中にはある程度人体実験をすることになるだろう。
反発もあるが……米軍が使用しないとは限らないからな」
第一次世界大戦でドイツと戦い毒ガスの脅威を直に感じた者が多い陸軍では、BC兵器について
列強に対して遅れていることに危機感を感じていた。故に陸軍内部では人体実験も止む無しとの意見が
強かった。勿論反発もあったが、直に毒ガスの恐怖を感じた者の意見を無視できなかった。
「確かにその可能性がないとは言えないでしょう。尤も私が懸念しているのは戦後です。米国を滅ぼした
後に旧米国人がテロをやらないとは限りません。そしてそれにBC兵器が使用されないとは思えません」
「戦後への備えか。まぁ大蔵省のトップである君が同意してくれるというなら、予算も潤沢につきそうだな」
「十分な予算はつけますよ。ただBC兵器以外のこともやってもらいますが」
「BC兵器以外とは?」
「まずは医療関係です。我が国は史実に比べて工業技術は大いに進歩したが、医療分野など一部の分野に
ついては列強よりも遅れています。列強に追いつくためには、かなりの荒業ですが人体実験が必要になる
のです」
かなり外道な内容であったが辻の言うことは筋が通っていた。故に出席者達は眉を顰めても反論できない。
それは杉山も同じだったので、続きを促した。
「ふむ……確かに。だがそれだけではないだろう?」
「ええ。あとは『憑依』の秘密を探ることです」
「何?」
辻の言葉を聞いた出席者達の多くは、「意味がわからない」と顔を見合わせた。
だが近衛、伏見宮、そして嶋田は何となくだが、辻が何を望んでいるかを察した。そして彼らは自分の
考えがおおよそ間違っていないことを知る。
「我々のような21世紀の日本人の精神が何故、過去の日本人の体に憑依したのかを探るのですよ」
何故『憑依』が起こったか、これは長い間わからかった。元々魂という存在自体が科学の分野では眉唾もの
であったし、オカルト実験でもやってやぶ蛇になったら目も当てられない。さらに言えば、この日本には
オカルト分野よりも投資すべき対象が幾らでもあった。故に憑依現象の解明は等閑であった。
「憑依が実在するということは人に魂があるということを示しています。
魂の存在を科学的に証明できれば、これまでオカルトで分類されていたものも、科学的に解明できるかも
知れません。そうなれば科学技術は大いに進歩するでしょう」
「進みすぎた科学は魔法と変わらない、いや魔法を科学で再現すると?」
「そのとおりです。まぁ結果が出るにはかなりの長い年月が必要になるでしょうが、そのための基礎研究には
なるでしょう。それに憑依のメカニズムを解明できれば、より優秀な人材を呼ぶことも可能になるでしょう」
「未来から人材をリクルートするつもりか?」
「この世界では、戦後に外国からより優れた科学技術を導入するのは難しくなるでしょう。日本の科学技術は
確かに進歩しましたが、列強と渡り合う、いえ圧倒するには未来からの技術の導入が不可欠でしょう」
「……確かに興味深いが、どうやって?」
「今回の粛清を利用して人体実験に使える者を確保してあります。それを使ってください」
辻はニヤリと笑いながら言い放った。これを聞いた出席者達は思わず背筋に冷や汗が流れた。
「ば、馬鹿な、いくら何でも同胞を生贄にしろというのか?!」
「そ、そうだ。横暴にも程がある!!」
反論の声が挙がるが、辻は意に介さない。その様子を見ていた杉山は嘆息した。
「………君は鬼だな。同胞を平然と切り捨てるとは」
「無駄死にではありません。今後の日本の礎になってもらうだけです。売国奴として死ぬよりはマシでしょう。
それに皆さんは同胞と言いますが、彼らは日本と夢幻会に害を与える存在ですよ?
彼らを放置しておけば戦争が長引き、より多くの人命と財産が失われたかも知れません。
もしかしたら前線にいる夢幻会のメンバーも死ぬかも知れません。
そんな連中に情けを掛ける必要はないでしょう」
「「「………」」」
最終的に出席者達は黙らざるを得なかった。辻の言うことは間違いなく正論だったからだ。
「……どちらにせよ、汚れ役をするのは陸軍だぞ」
「判っています。引き換えと言っては難ですが、九七式改の後継戦車の開発についても予算をつけます。
計画通りに戦争が終われば終戦後の量産になるでしょうが、必要な予算もひねり出します」
杉山はこの言葉を聞いて驚いた。戦争が終わったら間違いなく軍縮の嵐になると思っていたからだ。
一方で嶋田は目を剥いた。もし陸軍に予算が多く配分されれば、海軍の予算が減らされるかも知れないのだ。
「ヘリコプターや対戦車兵器も開発もある。海軍だって予算の配分を主張するぞ。予算が足りるのか?」
「要らない予算を削減して必要な予算は回します。戦後暫くは新兵器の質が落ちないようにします」
「……(部隊そのものは縮小する気だな)しかし、それだけではな」
「必要以上の軍拡は国を傾けますよ?」
「人は理だけでは動かないのだ。脅しても禍根は残るし後々面倒だ」
杉山は辻との交渉の末、新兵器開発や機甲師団の整備などについて満足のいく回答を引き出した。
笑みを浮かべる杉山だったが、内心では満額の予算を獲得できるとしても、人体実験などやりたくもなかった。
しかしあの辻から予算を引き出す絶好のチャンスであったが故に、それをふいにすることはできなかった。
(派閥を維持するのは、金が要るんだよ。それにある程度軍需があれば天下りもしやすい)
杉山は夢幻会の一員であるが、同時に日本陸軍軍人、それも参謀総長だった。故に自分達の組織の利益を
考慮しなければならなかったのだ。尤も天下りと言っても一概に悪いものではない。杉山としては使い道が
余り無い身内の人間はさっさと天下りさせて、より使える人材を空いたポストにねじ込むつもりだった。
一つ間違えれば腐敗の温床になりかねないが、使えない人間が軍に居座るよりかはマシだった。
(我々も歳をとり薄汚れたものだな。昔は理想の日本について色々と考えたが、歳をとり、地位が高くなるとな)
杉山が内心で自嘲する傍らで、今度は嶋田と辻が戦後の予算について喧々囂々の議論を繰り広げていた。
しかし戦略通りにアメリカ海軍が消滅すれば、大した仮想敵が居ないために嶋田も歯切れが悪く、戦後の
予算についての言質は得られなかった。そのやり取りを見ていた杉山は自嘲の笑みを浮かべた。
これを見た辻は怪訝そうな顔で杉山に尋ねた。
「どうしたのです?」
「いや、我々も薄汚れた老人になったな、と思っただけさ」
「誰しも歳をとりますし、権力を取るに連れて薄汚れもしますよ。それに清廉潔白な権力者など居ませんよ。
どこぞの美形で、軍人としても政治家としても一流でカリスマ持ちのチートキャラじゃないんですから」
「……チートキャラか。我々がそうだったら、いや、誰かがそうであればもっと楽だったんだがな」
「下手にチート能力を与えられたら、増長して自爆するだけですよ。今回粛清した人間だって権力と富を
得るまでは、人としてまともだったんですから」
「富や権力は、人を腐らせるか」
「その逆もあり得ます。どちらにせよ、我々は天才でも聖人でもありません。ならば足掻くしかないのです。
やらずに後悔するより、やって後悔したほうがマシですから。
尤も、やったほうがマシと言って周囲の人間の迷惑を顧みずに勝手に突っ走るというのは最悪ですが」
「まぁ否定はしないが、あまり老人をこき使うな。下手をすればぽっくり逝くぞ。どこぞの総理みたいに」
「私も、もう老人と言える年齢ですよ。ですが老いたとは思っていません。
人は自分が老いたと感じたときに老いるのです。気を強く持てば肉体が老いても多少の無理でも大丈夫です」
この言葉を聞いた出席者たちは悟った。
(((こいつ、俺達が疲れ果てて、老いて引退するまでこき使うつもりだ……)))
今でさえ72時間働けますかを地で行く出席者達の大半にとっては、ある意味死刑宣告であった。
後の世のアニメや漫画において、主人公の活躍の裏で、組織の偉い人が仕事によって過労死しそうになる
描写がよく見かけられるのは、辻の人使いの荒さが原因だと当時を知る人間は語ることになる。
会合メンバーが自身の過労死を危惧する中、1942年10月16日、日本軍は『魁一号作戦』を発動した。
作戦発動に伴い、桑原虎雄中将率いる第12航空艦隊はフィリピンへの大規模空爆を再開した。
一式陸攻、百式重爆連山、そしてその改良型である連山改が在比米軍の主要拠点へ猛爆を行い
辛うじて生き残っていた軍事施設を次々に爆砕していった。
在比米軍も残された高射砲で必死に応戦したが、逆に高射砲の居場所を知らせてしまい、猛爆で
粉砕される破目になった。残された少数の戦闘機も必死に迎撃したが、逆に烈風や隼、飛燕によって
良い様に追い散らされ、撃墜されるだけだった。
「もう駄目だ……」
地上で空戦の様子を見ていた将兵達は絶望的な気分に駆られた。
開戦初頭からの苦戦、さらにアメリカ本国が津波によって壊滅的被害を受けていたことが明らかに
なったことで、在比米軍の将兵の士気はどん底にまで落ち込んでいた。
加えて日本軍の海上封鎖によって頼みのアジア艦隊は身動きが取れず、外部からの補給もままならない
状態なのだ。これで士気を維持しろという方が無茶だった。
「……このままでは在比米軍は、日本陸軍と一戦も交えることなく崩壊しかねん」
司令部でマッカーサーは苦い顔で首を横に振った。優秀な成績で士官学校を出てエリートコースを
突っ走ってきた彼にとって、今の状況は屈辱でしかなかった。
初戦の奇襲で主だった航空兵力を失い、本国は津波で壊滅的打撃を被り早期の救援も補給も不可能に
なり、さらに津波の被害が将兵に知られたことで軍の士気そのものがガタガタ。
彼の指揮下にある軍はハード、ソフト両面で崩壊しつつあった。それも日本陸軍と一戦も交えることなく。
この状態で日本陸軍が上陸してくれば、在比米軍は成す術もなく潰走し、コレヒドールに立て篭もるしか道は
なくなる。
「しかし日本軍の実力を見る限り、コレヒドールに立て篭もっても半年持久できるかどうか」
マッカーサーの幕僚達は、一様に暗い顔をする。
上海から脱出してきたスティルウェルの証言と、これまでの日本軍航空部隊の実力から、日本陸軍の実力は
米陸軍最良の部隊と互角か、それ以上と考えざるを得なかった。そんな連中と在比米軍地上部隊がぶつかれば
どんなことになるかは考えるべくもない。はっきり言えばお先真っ暗だった。
そんな在比米軍の士気をさらに落す命令が臨時首都シカゴから届いていたことが、さらに彼らを憂鬱にさせた。
「最低でも半年間持久戦を実施しろ……臨時政府の連中は本気で戦争を続けるつもりらしいな」
マッカーサーは、未だに戦争を継続するつもり満々の臨時政府上層部の正気を疑った。
ハートはこの命令を聞いて、臨時政府の目論見を見抜いた。同時に無謀であると判断した。
「ガーナー新大統領は、フィリピンで時間を稼ぎ、その間にアジア艦隊、太平洋艦隊、大西洋艦隊を合流させ
一気に戦争に決着をつけるつもりなのでしょう……」
戦力は集中して運用するのが原則。しかし今のアメリカに集中した戦力を運用する余裕があるかどうかは
疑わしい。一度の戦いで決着が付けばいいが、長引けばアメリカ軍が敗北するのは目に見えている。
長期戦になればアメリカが負ける……そう思った瞬間、ハートは自嘲した。
(長期戦になれば日本が負ける、それが戦前の見積もりだった。それが、まさかこんなことになるとは)
しかしここで打ちひしがれる余裕は彼にはない。職業軍人である彼に成すべきことは、政府の命令に従い
アジア艦隊を無事に脱出させることなのだ。
ハートとマッカーサーは己を奮い立たせた後、意気消沈する幕僚達を叱咤激励して半年間の持久戦と
アジア艦隊脱出のための準備を進めた。
しかしながらその最中に、米軍の戦略を根底から覆す一撃が、日本軍から繰り出されることになる。
「よし、いよいよアメさんご自慢のコレヒドールに到着するぞ。気合入れていけよ!」
第12航空艦隊第23航空戦隊の連山改中隊を率いる野中五郎少佐は、部下達を鼓舞した。
何しろ彼らは出撃前に、自分達がフィリピンでの戦いの成否を決める重要な任務を与えられたことを
司令官から直々に言われたのだ。これで奮起しない人間はいない。
「全機ついてきているか?」
「大丈夫でさぁ!!」
目標に迫って尚、見張りの人間が景気良く返答するのを聞いて彼は、任務の成功を確信した。
連山改は1万mの高度を悠々と飛行し、目標に迫りつつあった。連山改の存在に気付いた者達は慌てて
高射砲で迎撃するが、連山改が飛ぶ高度にまで届かない。
この連山改は連山が航続距離と高高度飛行に関して苦情が寄せられたためにB-50を参考にして改良されたものだ。
航続距離が最大で7880キロ、飛行高度も最高で11790mと大幅に性能は向上している。
勿論、その分値段も高いが、価格に見合った兵器でもあった。
「駄目だ、こっちの大砲じゃ、連中には届かん!!」
「畜生、あれは本当に日本人の飛行機か?! イギリスから買ったか、ダグラスのコピーじゃないのか?!」
地上の兵士は歯噛みした。しかし目標となっているコレヒドール要塞の地下にいる人間達は悠々と
していた。
「また爆撃か」
「やれやれ、JAP達も懲りないな。この要塞はそんなに簡単には壊れねえのに」
彼らの言うとおり、普通の攻撃ではこの要塞を破壊するのは至難の業だろう。そう普通の方法なら。
「投下!!」
野中が乗る連山改が爆撃を開始したのと前後して、僚機や他の中隊機も相次いで爆弾を投下していく。
32機の連山改から投下された百式地中貫通爆弾は、その殆どがコレヒドール要塞に降り注いだ。
5840kgもの重量を誇る大型爆弾は、その重さと降下中に得た運動エネルギー、そして未来の
バンカーバスターを参考に貫通力を高めるために細めに作られた形状を持って、在比米軍にとっての
最後の砦であったコレヒドール要塞の要所を、地下施設を一瞬にして粉砕していった。
分厚いコンクリートがダンボールのように突き破られ、分厚い鉄筋がまるで飴細工のように捻じ曲がる。
油断していた将兵達は自分が死んだことさえ自覚できないまま、この世から強制的に退場していった。
そして要塞の深部に到達した百式地中貫通爆弾は、その体に埋め込まれていた炸薬を炸裂させた。
あちこちから吹き上がる炎は、要塞をなめつくし、そこに居た多くの将兵を飲み込んでいった。
しかしながら彼らの苦難はそれだけで終わらなかった。日本軍はコレヒドールを更地に返すべく
徹底的に爆撃を繰り返した。その結果、コレヒドール要塞は敵陸軍と相まみえることなく潰えた。
「コレヒドール要塞が壊滅だと……」
マッカーサーは自分達の最後の逃げ場所さえ、日本軍の前では安穏の地で居られないことを思い知った。
そして同時に政府が命じたような半年間の持久戦が不可能になったことを悟った。
「……シカゴの馬鹿共に『半年間の持久戦は不可能』と言ってやれ」
「し、しかし」
「構わん。このくらい言ってやらないと、シカゴの連中の目は覚めん」
お気に入りのコーンパイプを握り締め、マッカーサーは吐き捨てるように言った。
『コレヒドール要塞壊滅』と『半年の持久戦は不可能』という報告を受け取ったガーナーは愕然とした。
彼としてはフィリピンで持久戦を行い、多少なりとも日本軍を拘束して、その間に艦隊決戦を仕掛ける
つもりだったのだ。その戦略があっさり瓦解するとなれば落ち着いていられない。
「これはどういうことだ。戦前の見積もりでは半年は持ち堪えられるはずではなかったのか?!」
ガーナーは軍人達を詰問するが、誰も答えられない。
軍人達は、この未曽有の国難に際して、政治的な動機で無謀な戦争を継続しようとしている大統領への
不満を燻らせていた。軍人達は連邦軍は半ば崩壊寸前であり、海外遠征する余力などないことを良く知って
いたのだ。その彼らからすれば、太平洋を渡って日本海軍と決戦するなど自殺行為でしかない。
「まぁ良い。フィリピンが奪われたとしても、日本海軍連合艦隊を撃滅し制海権さえ奪ってしまえば
どうにでもなる。大西洋艦隊とアジア艦隊が太平洋艦隊に合流すれば勝利は可能だろう。
キンメル提督、海軍への補給は最優先で行わせる。だから、何としても勝つのだ。良いな!!」
こうしてガーナーはアジア艦隊の早期の脱出と、太平洋艦隊への合流を急がせた。
しかし同時に日本軍の実力が戦前の予想をはるかに超えるものであったことも、渋々だが認めざるを
得なくなっていた。
「我が国のF4FやP40、さらに最新鋭戦闘機であるP38さえ敵わない戦闘機、我が軍の主力戦車の
砲撃を軽く跳ね返す軽戦車、どれもこれも眉唾だが、話の半分程度の実力はあるということか」
「大統領閣下、海軍としては制空権を確保するためには日本海軍の3倍以上の航空兵力が必要になると
見積もっています。現状では3倍どころか、良くても互角程度の戦力しか投入できない状況です」
「つまり決戦になれば負けると? 弱音だなキンメル提督」
「制空権の有無が重要なことはカナリア沖海戦で証明されています。従来のF4Fに換わる新型機の
開発と配備は急務です」
「それに掛かる時間は? 今のアメリカに新型機を短期間で開発し配備する余裕などあるのか?」
「それは……」
「短期決戦でいくしかないのだ。パイロット達にはすまないが、今の機体で何とかしてもらう。
だが万が一、長期戦になった場合に備えて新型機の開発は進めさせよう。それと、幸いなことに
日本は多くの戦闘機をイギリスに輸出していたと聞く。それを取り寄せて研究する。それと……」
「他に何か?」
「ああ。中国から逃げてきたスティルウェルをアジア艦隊と共にハワイに届けてくれ。
日本軍が思ったよりも手強いなら、あの敵前逃亡の将軍の意見も少しは参考になるだろう。
尤も責任転嫁するだけの将軍なら、軍法会議を開いて即銃殺だがな」
しかしながら、このアメリカの動きはすぐに日本の知るところとなった。
「連中は、アジア艦隊を脱出させるつもりのようだな。ふむ、君の予想は当たったわけだ。さすがだ」
横須賀に置かれた連合艦隊司令部で、GF長官の古賀大将は宇垣の見識を褒めた。
「ありがとうございます」
「しかし、こうも簡単にアメリカ軍の暗号が解読できるとは思わなかったな」
トランジスタ式コンピュータと史実知識、そして夢幻会主導の下に行われた入念な情報収集の
結果、日本軍はアメリカの暗号を解読することに成功したのだ。開戦前にロングが日本軍の能力を
危険視して暗号の改訂を行ったが、それとて長くはもたなかった。
また暗号だけではなく、フィリピンに潜伏させた諜報員から大量の物資がアジア艦隊のために運び
出されているとの報告が寄せられていたことも大きかった。
これらの情報収集の結果、軍令部と連合艦隊司令部はアジア艦隊がフィリピンから逃げ出すつもり
だと判断した。
「情報部を拡張した甲斐があったな」
この言葉に夢幻会派の将校は満足げに頷いた。何しろ情報を軽視する気風があった日本海軍において
情報戦の重要性を唱え、少なからざる予算と人員をつぎ込んできたのは夢幻会なのだ。ここで情報部が
役立たずであったら、彼らの立場が無い。
勿論、情報に満足するだけでは意味が無い。彼らはすぐさま作戦について協議に入った。
「連中が脱出するのなら、わざわざ第1艦隊を北方におく必要は無いな」
「第1艦隊と第3艦隊の総力をもってアジア艦隊をフィリピン東方で迎え撃ちましょう」
「あまり北方をがら空きにすると裏を掻かれる危険もある。連中も潜水艦で偵察くらいはするだろう」
「しかし現状では第1艦隊と第3艦隊との連携が難しい。だとすれば、第1艦隊をもう少しルソン島へ
近づけるというのも良いかと。幸い、連日の空爆で在比米軍の航空戦力は壊滅状態ですし」
「空の輸送船団は第2艦隊から引き抜いた水雷戦隊に守らせておけば格好はつくかと」
最終的に連合艦隊司令部は第1艦隊に予定よりもやや東の位置、ルソン島北東海域へ移動させて
第3艦隊と第1艦隊で挟撃できる体制をとる事にした。
「もっと早くから軍備を整えていれば、もっと分厚い布陣が出来たのだが」
古賀は兵力不足を嘆いた。
勿論、現状でも世界第3位(米英の現状を考慮すれば実質的な第2位)の海軍力を保有している。
しかしそれでも尚、米海軍を相手にするのは骨が折れた。日本海軍の仕事は艦隊決戦だけではない。
島国である日本のシーレーン防衛も重要な任務だった。海保が使えると言っても、やはり海軍の
役割は大きかったのだ。故に今度は前線に無理が出る。
(しかし、対独戦争を想定して準備をしていなければ、今頃はさらに劣勢な兵力で戦わなければ
ならなかったからな……それを考えればまだ幸運と言うべきなんだろう)
大砲の信奉者である古賀としては、出来るなら伊吹型を越える戦艦は建造したかったが、後方支援や
航空兵力の充実、史実での軽視されていた対潜、電子装備などを充実させていくと、戦艦の建造は後回し
になってしまった。戦艦を建造したものの、米軍の潜水艦や飛行機の跳梁跋扈を許しては意味が無いのだ。
(大和型戦艦、あの独特の美しさを再現したかったが、金がないとな。あと人とドックと燃料も要るな。
モンタナ級、アイオワ級、サウスダコダ級、ノースカロライナ級と新型戦艦を量産してまともに運用
できるアメリカがどれだけ化物か、よく判る……畜生、あのブルジョワ共め)
貧乏人の僻みとしか言いようが無かったが、日本海軍の鉄砲屋にとって戦艦を思う存分建造して
運用できるアメリカ海軍は恐るべき仮想敵であると同時に、嫉妬の対象であった。
(だが津波で東部が壊滅した以上、まともに戦う術は持つまい。くっくっく、貧乏国が一生懸命
築き上げてきた海軍の実力と恐ろしさを嫌と言うほど見せ付けてやる!!)
全身から黒い情念、もとい闘志を吹き出す古賀であった。
だがこの時、日本海軍鉄砲屋に嫉妬の念を抱かせたほどのアメリカの富の象徴であったニューヨークの
周辺では異変が起きていた。
津波によって壊滅的な打撃を受けた東海岸であったが、水がある程度引くと救助活動が始まっていた。
しかしながら余りに広い地域が被害を受けたために救助活動は遅々として進まなかった。
あらゆる物が不足した結果、コレラなどの水媒介性感染症が流行した。さらに食糧不足が追い討ちを
かけ、次々に被災者達は命を落していった。
被災者達は何とか生き残ろうと必死だった。彼らは何とか雨露を凌げる建物を確保すると、瓦礫の
下から使えそうなものを必死に漁った。最初は惨めな気持ちになったが、生死がかかっている状態では
そんな贅沢は言っていられない。
「おい、これは使えるのか?」
「知るか」
「クソッタレ、軍や政府は何をやっているんだ。救援も寄越さない上に、治安さえ維持できないなんて」
薄汚れた格好をした男達は、必死に瓦礫の山を掻き分けながら無能な政府を呪った。
半ば無政府状態となっている被災地では略奪、殺人、強姦などの犯罪が横行。さらに怪我人は満足な治療を
受けることもできず、傷が深い者から順番に次々にあの世に召されていた。
神の名を呼び、助けを求めても、何の助けも来ない。つい先日までは親しかった人間達が僅かな物資を巡って
合い争う。被災者達はこれまで信じていたものが全て崩れ去っていくのを目の当たりにしていた。
しかしながら、ただ打ちひしがれるわけにはいかなかった。何もしなければ生き残れない。故に生き残った人々は
懸命に使えるものを集めていたのだ。
その作業の最中、一人の男が倒れた。
「おい、どうした?」
「す、すまん。少し眩暈がしたんだ。それに少し熱っぽい……」
「風邪でも引いたのか? 仕方が無い、戻って安静にしておけ。こじらせたら目も当てられん」
しかし後日、この男は肺炎を起こして死亡する。
周囲は風邪をこじらせたせいと思ったが、それがとんでもない間違いであったことを後に思い知ることになる。
あとがき
お久しぶりです。提督たちの憂鬱第30話をお送りしました。
さて、いよいよ次回でアジア艦隊との決戦です。待ちに待った日米艦隊決戦です。
30話もかけて漸く実現しそうです。太平洋艦隊との決戦はいつになることやら……。
それにしても夢幻会がますます悪の秘密結社のようになっていく(汗)。
それでは拙作にも関わらず最後まで読んでくださりありがとうございました。
提督たちの憂鬱第31話でお会いしましょう。
今回登場した兵器のスペック
倉崎 百式重爆二二型「連山改」
全長:22.0m
全高:6.3m
全幅:31.10m
最大速度:544km/h(ロケットブースター使用時:612km/h)
航続距離:4,290km(最大爆装時)〜6,750km(標準爆装時)〜7,880km(偵察時)
飛行高度:11,790m
発動機:3,500馬力空冷星型28気筒エンジン4基
武装:12.7mmM2機関銃6門
爆装 最大7,000kg