1942年9月16日。アメリカ合衆国、中華民国と開戦し1ヶ月経ったこの日、大日本帝国帝都東京は
戦勝機運に包まれていた。何故なら、この日の朝に上海に続いて満州の要衝たる遼陽が陥落したからだ。
開戦当初は世界一の工業大国アメリカと世界一の人口を誇る新興の大国中華民国の両方を相手に戦うと
あって、海外事情に明るい者は自国の将来を危惧する者が少なくなかった。
さらにアメリカは曲がりなりにも、日本にとって最大のお得意様でもあった。これまで大いに儲けていた
輸出産業は対米貿易の途絶への対応に大わらわだった。日米戦争を危惧して株式市場は低迷し、投資家達の
中には嶋田内閣への不満と今後の展望に不安を持つ者も少なくなかった。
これらの経済的問題を起因にした混乱は嶋田内閣の、正確に言えば辻政信大蔵大臣を中心とした経済閣僚の
手によって抑えられたものの、日本を覆う不安感は完全に拭い去れるものではなかった。
しかしながら、その危惧は払拭されつつあった。アメリカ合衆国の心臓部とも言える東海岸諸州が開戦と
同時に巨大な津波に襲われて壊滅し、世界の半分近くを占めた生産力は文字通り海の藻屑と化した。
そして日本を締め付けていた軍事力も、開戦してわずか1ヶ月でその大半が日本軍によって葬られた。
在中米軍、中華民国軍、在比米軍航空隊といった日本の喉元に突きつけられていたナイフは取り払われた。
残されたのは港を破壊され、連合艦隊や基地航空隊の目からこそこそ逃げ隠れているアジア艦隊と比島に
閉じ込められた在比米陸軍地上部隊だけ……報道を見聞きした市民達はそう思い、喝采を挙げた。
さらにアジア艦隊と呼応して西太平洋へ侵攻するのではないかと言われていた太平洋艦隊は本国を襲った
大災害に対応するために、母港の真珠湾から多数の艦艇を本土に回したために弱体化している。
気の早い人間の中には「アジア艦隊と太平洋艦隊を撃滅すれば、アメリカは手を挙げるだろう」と楽観し、
「この際、米国からはフィリピンを、中国からは満州全土を譲渡させ、さらに賠償金も支払わせるべき」とまで
言って気炎をあげ、海軍による早期の全面攻勢を主張する者もいた。
こういう人間の相手もしなければならない首相・嶋田繁太郎のストレスは、連日ストップ高となっていた。
「頭が痛い……全く、どいつもこいつも景気のいいことを好き勝手言いやがって」
嶋田は夢幻会の会合に向かう公用車の中で頭を抱えていた。
運転手は「いつものことか」と思いながら、この非常事態において大日本帝国の舵を取る宰相を宥めた。
「まぁ仕方がないのでは? 何しろ、開戦前に受けていた圧力が酷かったですし」
「その反動とは言え、舞い上がりすぎだ。一般市民ならイザ知らず、何で国会議員にあんな馬鹿がいる?」
「田舎政治家や家柄だけが取り柄の政治家なんてそんなものです。ああ言った連中は選挙のことしか頭にないですし」
「ため息が出そうだよ。というかため息しかでない。あんな馬鹿が首相になったら、国が終わるぞ」
一瞬、嶋田の脳裏に自分が神崎博之という青年だった頃の記憶が浮かぶ。
(あの売国奴で政権担当能力皆無と言われた某政党の政治家みたいなのが、政権を取ったら国の終わりだな。
この国は将来、核を持つ立場になる。その国の総理がアホだったら目も当てられん。
問題はそんなアホに政権を委ねる可能性のある民主主義か……面倒だ。本当に独裁体制を敷いてやろうか)
夢幻会による独裁支配、それは非常に甘美な響きを持っていたが、さすがにそんなことをする勇気は彼にはない。
(下手に独裁を敷くと暗殺されるよ。旧ソ連みたいに秘密警察に国民を監視させないと枕を高くして眠れない
なんて世界は御免だからな。それに独裁なんて自浄作用が効かないから国が自壊しかねない。
尤も夢幻会だっていつまで自浄作用があるか怪しいけどな。まぁ今のところはモラルが高い(?)人間が
組織を運営しているから腐敗も進んでいないが、それだって何時まで続くか)
嶋田は憂鬱そうにため息をついた。
(結局、理想的な政治体制なんてものは存在しない。我々にできるのは最悪の事態を避けるように努力するだけか)
そこまで考えた時に、彼はあることに気付いた。
(ははは、何を偉そうに言っているんだ、俺は。人様を無能だの、何だのと酷評できる立場じゃないだろうに。
日米戦争を阻止できなかった上に、衝号作戦なんていう外道なものを実行した我々こそ、余程無能じゃないか)
嶋田は思わず自嘲した。
(全くお笑い種だな。何てことはない。俺達はやっていることこそ違うが、結局はこの国を滅亡の瀬戸際に追い
込んでいただけだ。史実を知っているが故に、それに拘った挙句にこの国を孤立させ、戦争に追いやった。
くっくっく、無能な働き者ほど怖い者はない、と言う言葉は至言だよ。全く、史実の人物達を馬鹿には出来ないな)
戦後の教科書には、日米戦争を誘発した人間達とでも書かれるんじゃないかとさえ嶋田は思った。
尤もそれがやや自虐的な考えであることに気付くと、ネガティブな考えを振り払い、己を奮い立たせる。
(どちらにせよ、ここまで来たら進むしかない。もう後戻りは出来ない。こうなったら最後まで踊ってやるさ。
この狂気の宴を、踊りきって大往生を遂げてやる。そのためなら世界一の大悪党にだってなってやる。
歴史の教科書に史上最悪の虐殺者と書かれようが、救い難い戦争狂の主戦派軍人と書かれようが知ったことか。
この戦争を切っ掛けに日本の平和と繁栄を脅かし俺達の邪魔をしてきた連中を一掃してやる。
あの威勢のいいことばかりいう連中が震え上がり、顔を青ざめ、尻込みするような真似など吐いて捨てるほど
やってやろうじゃないか……)
嶋田はそう思い直したが、そこで首相官邸の書斎に置かれた大量の書籍と書類を思い出して再び凹んだ。
(でも首相として振舞う以上、色々と勉強も必要なんだよな……いくら夢幻会のバックアップがあるといっても
それに頼りきりじゃ官僚に舐められるし、正確に事態を把握できないし、判断も下せない。
この年齢になって睡眠時間3時間の日々がくるとは思ってみも無かったよ)
一国のトップとして学ぶべきことは多い。海軍のエリート街道を渡り歩いてきたので、政治についてもある程度
精通してはいたが、それでも尚、学ぶべきことは多々ある。一国のTOPが無能無知では洒落にならない。
日本の史実の首相の中には低学歴にも関わらず、六法全書を自力で勉強して官僚達と渡り合った男もいるのだから
嶋田が何もしない訳にはいかない。
「滋養剤と胃薬が頼りだな……ああ、たまには8時間ぐっすり睡眠をとりたいよ」
世界でも有数の大国である大日本帝国。その宰相を務める男が、日々仕事と勉学に励む生真面目な努力家で
あることを知る者は少ない。
提督たちの憂鬱 第27話
夢幻会の会合が開かれる料亭に嶋田がついたころには、他の出席者の全員が揃っていた。
会合が開かれる和室の部屋に入った時に、自分が最後であることを悟った嶋田は軽く頭を下げた。
「いやはや、申し訳ない」
「別に君が謝る必要は無い。我々が早く着すぎただけだ」
伏見宮はそういうと、嶋田に着席を促した。これを見て、嶋田は自分の席に腰を下ろす。
「……皆さんも、やはり気になると?」
「仕方なかろう。苦肉の策、苦し紛れとは言え、自分達がやってしまったことだ。目を閉ざし、耳を塞いで
現実から逃避するような真似は出来ん。そんな真似をする輩は人の上に立つ資格もない」
伏見宮の言葉を聞いた出席者達は、一様に苦い顔をして頷く。
この会合に出席した人間達は全員が、衝号作戦に携わった者、或いはその存在を知らされた者ばかり。
最悪の場合、人類史上最悪の大虐殺と大破壊を行った極悪人として全ての罪を被り、裁かれる罪人達であった。
「それに、正確な情報が無ければ正しい判断も下すことは出来ん。もはや史実の情報は当てにはならんのだ」
「歴史を変えすぎた弊害ですね。尤も、あれだけ非戦のために努力したのに日米戦は避けられませんでしたが」
嶋田の言葉に、辻が苦笑いしながら答える。
「というか、我々が無茶をしすぎたせいもあるでしょう。世界中から金と技術と人材を毟り取りましたからね」
「自覚があるんだったら、少しは自重したほうがよかったのでは?」
「まさか。産業革命から取り残され、資源も市場も列強によって囲い込まれていた我が国に、手段を選んで
いられる余裕があるわけないじゃないですか。世界恐慌以後にどれだけ金と技術と資源を確保できるかが
勝負の分かれ目だったんです。あそこでうまくやらなければ、日本はいずれアメリカの技術革新によって
経済戦争で敗北した挙句に属国に転落してましたよ」
史実どおりの展開ならば、ナイロンなど化学繊維の発達によって、日本の輸出製品であった生糸は次第に
市場から駆逐される。他の軽工業製品も、中華民国の追い上げによって次第に苦境に立たされることはほぼ
間違いなかった。
「我々が手を拱いていれば、いずれ米国に大きな差をつけられ、様々な技術を高い金を支払って買うはめになり
同時に、米国から原油や鉄屑、工作機械などを輸入しつづけなければならず、大幅な貿易赤字に陥るでしょう。
さらに幾らでも使い捨てにできる労働力と吐き棄てるほどの資源がある中国が作り出す安価な製品が我が国の
企業を圧迫するでしょう。そうなれば、いずれは経済的な植民地にされるか、一か八かの戦争に打って出る
しか道は無くなる。それでも良かったと?」
史実の戦前の日本の救い難い状況を端的に説明する辻に、嶋田は乾いた笑みを浮かべることしかできない。
これに阿部が追い討ちをかける。
「我々だけが贅沢をして生きていくならここまでする必要はなかっただろう。しかしそれができるか?
隣人が飢えや病で苦しむ姿を見て平然としていられるか? その事態を打開できる力があるにも関わらずだ。
私はそこまで人として腐っていない。それに日本人が日本人として生きていけるのは、日本だけだ。
ならば自分達が住む世界を、国をより住み易くするのは当然だ。まぁやり方が些か強引だったせいで
こんな事態を招いたのは反省せざるを得ないがね」
「……」
嶋田は少し黙り込んだ後、ため息をついた。
「全く、日本という国は本当に不利ですね。この国がある程度、穏便に大国になるには幕末辺りからの
改変でも間に合わないとは……織田信長が生きていればもっと変わっていたかもしれないですね」
嶋田のぼやきに辻がすかさず突っ込んだ。
「鎖国せずに海外進出していても、うまくはいかないのでは? 産業も資本も乏しいですし、何より
日本人としての自覚が薄い。下手に海外の文化を取り込んでいったら、悪影響が残るのでは?
それに下手に膨張すれば清王朝ともぶつかります。加えてオランダ等の欧州列強と覇権争いをする
なんて冗談じゃないですよ。まぁ我々のような存在がいれば話は違いますが」
「………夢が無いですね」
「夢は大切ですよ。夢や希望がなければ人間は前に進めない。しかし夢を見すぎるのも拙い。
現実と夢に折り合いをつけるのも大人の必須スキルですよ」
「「「お前がそれを言うな!!」」」
辻の所業を知る人間達は、躊躇うことなく突っ込みを入れた。勿論、辻は気にも留めないが。
「やれやれ……では、緊張もほぐれてきたところですし、始めましょうか」
この嶋田の言葉に出席者全員が頷き、日本の針路を決める重要な会合の幕が開ける。
「で、大西洋の巨大津波による被害はどの程度なんです?」
嶋田の問いに、情報局局長の田中隆吉は問いかけで答えた。
「津波による直接の被害と火山の噴火による被害、どちらを先に聞きたいですか?」
「……2つもあるんですか」
「あるんです。そのうち後者は我が国にも響くことなので、私としても頭が痛い問題です」
「………あまり聞きたくないですが、そういうわけにもいかない。では取り合えず、津波による被害から」
「では報告します。まず北米大陸ですが、アメリカ合衆国の東海岸諸州は壊滅、いえ、ほぼ消滅しました。
ワシントンDCやフィラデルフィア、ニューヨーク、ノーフォーク、ボストンなど東海岸の有名どころの
都市は根こそぎ津波に呑みこまれ、ほぼ消滅しました。ホワイトハウス、連邦議会、連邦最高裁判所などの
合衆国の中枢も消滅し、米国の国家機能は完全な麻痺状態に陥っています。
さらに連邦議会では、緊迫する対日関係について議論を行うために、上院議員全員があの日に議会につめて
いたとのことです。恐らく連邦議員も全滅したと判断してよいでしょう。
現在、辛うじて生き残った連邦組織と米陸軍が中心になってシカゴに暫定政府の樹立を準備中とのことです。
南部ではフロリダ半島は津波によって壊滅。ニューオーリンズなどカリブ海沿岸の都市も津波によって都市機能
が完全に麻痺状態にあるとのことです。さすがに消滅はしませんでしたが、大打撃は間違いないでしょう。
これらの被害によってアメリカ経済は完全に崩壊。ドルや国債はフリーホールどころか紐なしバンジージャンプ
の勢いで絶賛暴落中です。物流も滞り始めており、各地では治安の悪化が深刻化しています。
特に被災地では自警団による暴行事件が多発しており、黒人や有色人種、先住民が被害を受けているようです。
被害を受けた側も報復を行っているようなので、一部では市街戦に近い状況が発生しています。
これまでの情報を分析した結果、情報局は現時点で死者は1500万人を超え、今後の経済的混乱も考慮すると
死者は2000万人を超える可能性が高いと判断しています」
「「「2000万人……」」」
あまりの数字に出席者たちの多くが絶句した。
しかし近衛、伏見宮、嶋田、辻など一部のメンバーは沈痛な面持ちであったが、すぐに続きを促した。
「驚かないのですか?」
田中の問いに、嶋田は悟った表情で答える。
「覚悟していたことです。確かに犠牲になった民間人の方々には気の毒ですが、これは戦争です。
民主主義に基づいて選ばれたロング政権が、対日戦争を決断したのです。その責任は国民にもあります」
嶋田の言葉に辻や近衛は一様に頷く。
「では、続きを」
「アメリカ海軍が推し進めていた両洋艦隊計画は造船所ごと消滅しました。大西洋艦隊も軒並み津波による
被害を受けています。大西洋艦隊主力はノーフォークにいたので、津波のせいで転覆するか、陸の上に
船ごと持っていかれた状態です。戦艦ニューヨーク、テキサス、アーカンソーは地上で横転した姿を晒して
います。空母レンジャーと護衛空母は津波を受けた際に船体が折れたようで、鉄屑同然の姿になっています」
「大西洋艦隊司令部は?」
「キング長官を含めて主要な将校、幕僚全員が消息不明。司令部もろとも全滅したと思われます。
情報収集の結果、大西洋艦隊の指揮は暫定的にトーマス・L・スプレイグ少将が執っている模様です」
「スプレイグ? ああ、サマール沖のときの指揮官か」
「彼の艦隊はパナマにいたおかげで、巨大津波から難を逃れました。パナマはカリブ海の島々が盾になった
おかげで東部ほど津波による被害を受けなかった模様です。現在、被災地で復旧作業に当たっています」
「艦隊の規模は?」
「戦艦アラバマ、ニューメキシコ、ミシシッピ、アイダホ、空母ワスプを中心とした艦隊です。
太平洋艦隊、アジア艦隊とあわせれば戦艦18隻、空母6隻が米海軍には残っていることになります」
これを聞いた辻は、冷めた顔で感想を述べる。
「確かに大兵力だが、それを動かす余裕は米国には無いでしょう。五大湖工業地帯は何とか生き残っているが
その生産力を活かす官僚、政治家は全滅し、経済の血液である金融も消滅。艦隊の活動を支えるドックや港も
全滅している。大兵力がいくらあっても補給が無ければ満足に動けないでしょう」
この言葉に出席者達は一様に頷く。彼らは近代戦争が何たるかを理解していた。
「太平洋艦隊は?」
「戦艦テネシー、カリフォルニア、空母ホーネット、重巡3隻を中心に20隻余りを本土に回航しています。
キンメル提督も本国の様子を確認するために西海岸に向かったとのことです。戦艦7隻、空母3隻が残っています
が津波の被害が伝わるにつれて将兵に動揺が広がり、士気も大幅に低下しているとのことです。
必要な物資の補給も滞っており、打って出る余裕は無いでしょう。このままだと真珠湾の放棄もあり得るかと」
「ふむ、ということはアジア艦隊を連合艦隊の総力を挙げて撃破しても、横腹を突かれる恐れはないということか」
嶋田はニヤリと笑う。
「海軍省や作戦本部、アナポリスが根こそぎ失われたことで人的資源も欠乏。海軍を再建するには、残った艦隊
から士官を掻き集める必要がある。ここでアジア艦隊を撃滅すれば米海軍の再建をさらに遅らせることが出来る。
たとえ西海岸の造船所を拡張して軍艦を建造しても、それを操る人間がいなければ置物も同然になる」
海軍軍人には高い技術と専門性が求められる。つまり彼らは技術者集団なのだ。
このため一旦壊滅した海軍を再建するには莫大な時間と労力が必要になる。だが歴史上壊滅した海軍が再建された
実例は殆ど無い。史実では海上自衛隊がほぼ唯一の成功例だ。
「それにこれだけ被害が出れば、米国は新型機を開発する余裕はないでしょう。F4FやP−40など零式や一式の
敵ではない」
陸軍参謀総長の杉山はほっと胸を撫で下ろした。彼は米国が本気で新型機を開発すれば、何れは追い抜かれると
思っていたので、米国の歩みが止まることは大歓迎だった。
「確認したところ、航空機会社のグラマン、ヴォード、リバブリック、ブリュースター社は倒産。
残った航空機メーカーも、金融や物流の麻痺によって混乱中で、仰られた通り、新型機を作る余裕は無いでしょう」
「さらに各メーカーの調整を行う官僚もワシントンで全滅。書類も消失。これでは何も出来ないだろうな」
陸軍の航空行政を担ってきた杉山は、新型機の開発が如何に面倒か理解していたので、これから米軍が直面する
であろう問題を正確に把握できた。それは嶋田も同様だった。
「どちらにせよ、米国は瀕死の巨人。アジア艦隊と太平洋艦隊を殲滅すれば、アラスカ上陸も可能になる」
「莫大な金と資源が要りますけどね」
辻は渋い顔で突っ込む。
「ドル暴落、それに伴う第二次世界恐慌で儲けたはずなのでは?」
「そりゃあ儲けましたよ。戦争になればいくらでも金が要りますからね。しかし第一次世界恐慌の時ほどは
露骨に出来ませんでしたよ。あまりやり過ぎると、勘繰られますからね」
「むぅ……だが、かなりの余裕は出来たのでは?」
「余裕なんてないですよ。軍が天井知らずの予算を要求するおかげでね。
大陸での戦いが続く傍らで、連合艦隊の全艦をフル稼働させているんです。戦わなくても維持費が嵩む一方。
これに原爆の生産だの、新兵器開発だの、兵器の生産だの、新兵の訓練だの、と付け加えれば、荒稼ぎした
資金だって消えてなくなりますよ。戦時国債の大量発行の前にケリをつけてもらいたいものです。
私は国債償還のためにハイパーインフレを起こすような真似はしたくありませんよ」
「………気をつけます」
辻に睨まれた嶋田は、そう答えるしかなかった。二人のやり取りを傍らで聞いていた伏見宮は嘆息したあとに
田中に続きを促した。
「アメリカの状況はわかった。他の国はどうなっている?」
「まずイギリスですが、大西洋側の沿岸地帯が、高速で突き進む5mの津波の直撃を受けて大打撃を被ったようです。
ポーツマス、プリマス、カーティフに甚大な損害を被ったとのことです。リバプールもかなりの痛手を受けて
おり復旧にはかなりの時間を必要とするでしょう」
「首都ロンドンやマンチェスターやバーミンガムのような内陸の工業都市、北海に面している港は無事か」
「ロンドンは被害を受けましたが、復旧が可能な範囲です。内陸の工業都市は無傷、北海の都市の損害は軽微です」
「イギリス海軍は?」
「大西洋上で活動していた艦艇に被害が出ていますが、主力艦の損害は報告されていません」
「そうか」
「ですが大西洋の主要航路は甚大な被害を受けており、イギリスのシーレーンはズタズタです。経済が破綻する
ほどではありませんが、イギリス経済は大打撃を受けている模様です。さらにイギリス連邦の一角を占めていた
カナダも甚大な被害を被っているので、その支援もしなければならず、イギリス財政の悪化が予想されます。
少なくともドイツとの再戦に備えるなんて真似は出来ないでしょう」
「イギリス連邦諸国は?」
「オーストラリア、南アフリカ、インドからは支援船団が出航しています。ですがイギリス本国が大打撃を受けた
という情報が広まるにつれて植民地の各地、特にインドで反英、独立運動が活発化しています」
これを聞いて、内心で「いい気味だ」と呟く者は少なくなかった。
「窮乏したイギリス政府の中には、日本に対して支援を求める動きがあるようです」
「よくも抜けぬけと……」
杉山は忌々しげに吐き捨てる。
「日米関係が危うくなると、同盟国だった日本を切り捨てておいて、イザとなったらまた日本を頼るとは……」
「イギリスは日米関係の修復も申し出るつもりのようです。連中、ここで日米に恩を売るつもりのようですが」
「「「余計なことを……」」」
出席者達は思わず舌打ちした。
彼らは戦争を中途半端に終わらせるつもりはなかった。自分達が犯した罪を知る故に、アメリカを解体するか
二度と立ち上がれないように農業国にまで叩き落すまでこの戦争を止めるわけにはいかなかった。
「貿易の継続については?」
「公式ルートで回答があると思いますが、英政府は英日安全保障条約に基づいて貿易は継続するとのことです。
あちら側は、日本がこのドサクサに紛れて東南アジアの植民地に火事場泥棒をするのを恐れています」
「たたでさえ中国でアメリカ軍が日本陸軍にボロ負け。ここでシンガポールが陥落するようなことがあれば
大英帝国、いや白人世界の威信が失墜する、そう判断したわけか」
嶋田はイギリスが何を恐れているのかを正確に理解していた。
「朽ちた王座にいる古き王は、インドにご執着と。まぁあの亜大陸こそ、イギリスの心臓だから当然か」
「いずれ我々が掠め取るつもりですけどね」
嶋田の皮肉を聞いた辻は、不敵に笑いながら物騒なことを言った。
しかしながらそれを咎める者はいない。
「日米関係の悪化を受けて、我が国から距離を取ろうとしていた自由フランス、自由オランダ政府も
手のひらを返したように対日貿易の継続を認めています。むしろオランダ政府は、米英との貿易が途絶した
ために積極的に日本との取引を望んでいます。連中の生命線である蘭印の維持には我が国の工業製品が必要
不可欠ですから」
「これで、対米輸出の途絶で生まれた需要の穴を、多少なりとも埋めれる」
嶋田はほっとした。総理大臣として、日本の輸出産業が停滞するのは座視できない問題だった。
「オーストラリアやニュージーランドも対日貿易の継続を望んでいます。工業製品の入手に加えて、対日関係を
維持することで、日本との関係悪化を回避するつもりなのでしょう。何せ、アメリカは頼りになりませんし」
「しかし連中、イザとなったらフィリピンから脱出してきた米軍兵士を匿うくらいのことはするのでは?」
「まぁ小国ゆえに致し方ないでしょう。さすがにイギリス連邦の一角であるオーストラリアを攻撃する
わけにはいきませんし」
仕方ない、と嶋田は首を横に振って議題を進める。
「他の欧州諸国は?」
「ポルトガルは、津波の直撃を受けて大打撃を受けています。首都リスボンは津波の直撃でワシントン同様に
消滅しています。大西洋側の沿岸の都市も消滅しており、事実上、国家そのものが崩壊した状態です。
スペインは折角奪還したジブラルタル要塞が消滅し、ガリシア自治州が壊滅したようです。ガリシア最大の
都市である港湾都市ビーゴも津波によってさらわれて消滅しています。沿岸の被害が酷いためにカナリアを
奪還するような余裕は無いでしょう。ですが、スペイン政府は崩壊したポルトガルの併合を目論んでいます。
近いうちに、ポルトガルという国は歴史上から姿を消すことになるでしょう」
「我が国に画期的な武器である鉄砲を伝えた南蛮の国を、画期的な原子力兵器を用いて滅ぼす。
ふふふ、かつて我が国に鉄砲を伝えたポルトガル人は、あの世で後悔しているでしょうか。
いや、むしろ世界の果ての蛮族の子孫に成す術も無く滅ぼされた無能な子孫を罵っているかも知れませんね」
近衛は淡々と感想を述べた。しかしその内心は決して穏やかなものではなかった。
千年に及ぶ血統を持つ日本帝国最大の名家の当主、近衛文麿にとって栄光の歴史を持つポルトガルの滅亡は
決して他人事として片付けられるものではない。
近衛家当主である彼には、自分の家を後世に残す義務がある。彼は自分がポルトガル人の先祖のような立場に
ならないために、自分が生きている間、可能な限りの手を打っておく必要があると感じた。
(日本人が日本人として生きれるのは、日本だけ。しかしこの狭い弧状列島に日本人が固まっていていると
大規模な天変地異や核戦争になった時に、まとめて全滅なんてことが起きかねない。日本沈没のような事態が
おきても日本人が生きていけるだけのテリトリーを確保するべきかも知れん)
「近衛さん、どうしました?」
思索にふける近衛を見て、不審に思った嶋田が声をかける。
「いえ、大したことはありませんよ。この津波を後世で、パニック映画として上映できないかと思っただけです」
「2○12ですか」
「ははは。この場合タイトルは『1942』になりそうですね。まぁマヤ暦の終わりより70年早いですが」
近衛は笑って話題を逸らして、議題を進める。
「ドイツやイタリア、フランスはどうなっている?」
「ヴィシーフランスやイタリアは地中海にあるので、大した被害はありません。ドイツ及び北欧諸国も同様です。
ただしドイツが支配しているフランス北部地域は沿岸部に津波が到達し、少なくない打撃を受けています。
ブレスト、サン=ナゼールのUボート基地にかなりの被害が出たと報告されています」
「ふむ、ということはあの出来損ないのビスマルクも健在か……転覆すれば面白かったのに」
嶋田の発言に、出席者たちからは笑みがこぼれる。
完成してから2年近くが立つと、ビスマルクが如何に欠陥だらけの戦艦であるかがある程度つかめてきた。
無理に42cm砲を搭載したせいで防御形式は旧式の上に装甲はペラペラで、主砲の旋回さえ怪しく、航続距離も
短いと言う、国民、いや納税者を馬鹿にしたとんでもない欠陥戦艦……それが日本海軍のビスマルクの評価だった。
「あとオランダですが、堤防が一部破損し被害が出ている模様です。しかし復旧は可能かと」
「ふむ、欧米の状況はわかりました。南米やアフリカは?」
「カリブ海の島国、キューバ、ハイチ、ドミニカ、ジャマイカは国家そのものが消滅しています。
ベネズエラ、ブラジルもかなりの打撃を受けています。加えてこの被害で南米の軍事バランスが崩れつつ
あり、このままでは戦争も起こりうる状況です」
「ふむ。南米で大戦が起こったら散々に煽り立てて武器を売り込み、戦後の復興利権にも食い込むというのも
面白いのですが、今の状況では難しい……無念です」
折角の金儲けのチャンスが、と歯噛みする辻を見て、多くの出席者は呆れる。
(((ユダヤ人よりも日本人が嫌われそうな気がするよ……)))
尤も日本の国家経営の責任者にされた嶋田は、無碍に辻を責めれなかった。何しろ国家経営に金は必要だ。
しかしこの大戦の遠因に、日本が世界中から金を毟り取ったことがあるのも確かだったので、さじ加減が必要
であることも彼は理解していた。尤も自分自身でそれをするつもりは皆無だったが。
(余裕が出来たらODAでひも付きの援助をして、途上国を味方につけるように努力しないと拙いか。
まぁ戦後のことは戦後の総理に任せればいいか。吉田茂あたりならうまくやってくれそうだし)
嶋田はそう割り切って、話を続ける。
「アフリカは?」
「特にフランス領西アフリカに甚大な被害が出ています。ダカール等の大都市を含め沿岸の都市は壊滅。
港と言う港がすべて潰れているので植民地としての価値は事実上消滅したといっても良いでしょう。
モロッコなどもかなりの損害を受けているとの報告が入っています」
「だいたい、各地の被害はわかりました。予想される被害は世界全体でどの位ですか?」
「現在の試算では、死者は最低で3000万人。下手をすれば4000万を超えます。被害総額は算出不能です。
津波による被害に加えて、ドルや米国債の大暴落を発端とした第二次世界大恐慌が発生しているので……」
「「「4000万人……」」」
「これに加えて、火山の噴火によって発生した火山灰が、欧州やソ連の穀倉地帯に流れています。
来年以降の農作物の生育に悪影響を与えると思われます。この場合、ソ連で重大な問題が起こるでしょう」
「ソ連が……なるほど、食糧危機か?」
辻は素早く問題に気付いた。
「はい。レンドリースがないソ連では独ソ戦に男手を取られ、食糧や民需品の生産に支障が出ています。
元々、スターリンの無茶な農業政策で痛手を被っている状況で、さらに火山灰によって生産量が落ち込めば
飢餓が発生します」
「ロシア革命のときには人肉売り場さえありましたからね……それが再現されると?」
「人肉で飢えが凌げるなら良いほうかと。餓死者が数百万の単位で発生する可能性もあります。加えて栄養不足に
よる前線の兵士達の能力、士気の低下、我が国のソ連弱体化工作の成果も考慮すれば、独ソ戦での死者は史実
より大幅に増える可能性が大と判断しています。
加えて火山灰が大気中に漂うことで発生する気温の低下は、我が国の農業にも影響する可能性があるので
情報局としては凶作への対策を提案します」
「それが火山噴火の影響と?」
「はい。さらに言えば、史実に無かった異常気象が起こる可能性もあります」
「「「………」」」
出席者たちは改めて自分たちが仕出かしたことの重大さを理解した。
彼らは単に多くの無辜のの民間人を殺しただけではなく、地球人類の生存圏そのものに甚大な被害を与えたのだ。
「スターリンの大粛清や毛沢東の文革など問題にならないレベルですね。これは……」
杉山はそう言って嘆息した。多くの出席者は言葉も無い。
しかし嶋田は違った。
「さて、津波と噴火の被害も理解できましたし、今から今後の戦略を練りましょう」
「……平気なのか?」
「我々の今の仕事は『我々』が引き起こした、この史上未曽有の大災害を如何に利用して国益を得るかです。
権力者である我々は、悪戯に個人的な良心に囚われて時間を浪費するわけにはいきません。
まして決断を誤るなどあってはならないのです。感情を押し殺し、冷徹に現実を分析し、最も益になる決断を
下す……それが、この国を影から支配してきた者の義務です」
伏見宮がこれに同意する。
「そのとおりだ。我らは権力を振るう権利と引き換えに、義務も負っているのだ。
確かに、これだけの犠牲を生み出したことに良心の呵責を感じるのは判る。しかし犠牲を悼んでいる暇は無い。
彼らを悼むのは戦後でも十分だろう。君達が個人的に犠牲者を悼みたいのなら、手を貸そう。
だが、今は目の前の問題に集中して欲しい。この国に生きている者と、これから生まれる者のために」
これに近衛が続く。
「我らはこれまであらゆる悪行を行ってきました。日本の存続と繁栄のために。この大災害はその一環に過ぎません。
それに皆さん、勝てば官軍なのです。勝ち続ければ誰も表立って文句は言えません。勝って真実を葬ってしまえば
そうそう暴かれることはありません。人類の歴史とは常に勝者が作ってきたのです。
千年の血統を持つ近衛の人間が言うのです。間違いはありませんよ」
3人はそういって出席者たちを落ち着かせて会議を始める。
それを見ていた辻は満足した。
(あの三人なら『この』戦争を乗り切れる。あとは夢幻会内部の締め付けの強化か)
辻は阿部に視線を送ると、阿部は即座に小さく頷いた。
(組織も70年以上も続くと規律が緩む。この大災害を利用して夢幻会の中の弛んだ連中を矯正しないと)
阿部は内務省のドンとして国内の不穏分子の監視を行っていたが、その中には夢幻会の人間も含まれている。
このため辻を含むごく一部の夢幻会の人間は、夢幻会に属する多くの逆行者の実情を詳しく把握していた。
故に、辻はこの史実にはない大災害を利用して組織の引き締めを図るつもりだった。
(未来知識を知るが故に傲慢になる者。前世では得ることすら出来なかった権力や富を得て、それに酔う者。
何時になっても人間は人間か。まぁ史実には無い大災害のことを強調して、史実の知識の多くが参考に
ならない事を理解させれば、多少は大人しくなって、組織のために積極的に知恵と金をひねり出すだろう。
これに米中が日本を潰そうとしたこと、同盟国さえ何時裏切るか判らないこと、米軍による中国人虐殺や
人種差別を使って、世間が如何に厳しいかを思い知らせてやれば、甘い考えも棄てさせることが出来る。
どうしても矯正が無理なら、この世から穏便に退場してもらうしかないか。やれやれ……)
表向き、やりたい放題している風に見える辻であったが、裏では色々と苦労しているのだ。
(権利と義務は表裏一体。全く、まさにその通りですよ、宮様。
でも世の中にはそれを理解していない、いや理解したくない連中が多くて困るんです)
内心でそう呟くと、辻は珍しく憂鬱そうにため息をついた。
日本の財政、経済を事実上切り盛りする男の悩みはつきないが、いつまでも悩んでいても時間の無駄と
辻は割り切って会議に参加した。より良い日本の未来を勝ち取るために。
あとがき
提督たちの憂鬱第27話をお送りしました。
拙作ですが最後まで読んでいただけて幸いです。
今回は津波の総決算で、1話を殆ど使ってしまいました。
さて、夢幻会はある意味、史実のスターリンや毛沢東を超えた存在になりました(爆)。
某国の方々が語る『悪の大日本帝国』なんて目じゃないレベルです(核爆)。
さて、次回は今後の日本の戦略と各国の状況になる予定です。
仮想戦記ではやられ役として定評のあるキンメル提督も登場する予定です。
アジア艦隊との戦い(海軍の輝かしい(?)出番)はまだ後になりそうです。
それでは提督たちの憂鬱第28話でお会いしましょう。