1945年7月に日本政府の手によって行われた大和型戦艦、新型噴進機、稲荷計画、トランジスタの発表は、世界の人々を驚倒させた。
ただドイツを含め欧州枢軸諸国では厳重な情報統制が敷かれていたため、一般市民に情報が届くことは無かった。このため欧州枢軸諸国の一般人は心臓に悪い情報に直に接することを免れたが……情報を受け取れる立場にいた者たちは軒並み頭を抱えた。
「猿真似だけが得意な有色人種に負ける? 世界に冠たる技術立国であった我がドイツが?」
先の大戦以来の日本の仇敵たるドイツを支配しているナチスの高官は、『自国の技術力が日本に後れを取っているという事実』を改めて突き付けられて愕然とした。
ヒトラーでさえ『我が闘争』の改訂版を出さなくてはならないと本気で考え、日本に対抗するための必要な指示を出し終えた後に、彼自身にとっても『黒歴史』として封印しておきたかった本の改訂作業に本格的に取り掛かった。
またヒトラーは部下を詰りつつも、日本に対抗するためには高性能な新型計算機が必要と判断し、電子計算機の開発に着手することを決意した。
日本がアメリカで電子関連技術の収拾を熱心に進めていることは周知の事実だった。故にドイツも日本に続くように核関連技術に加えて電子技術に関わった技術者や情報の収集を進めることになった。
この過程でドイツ政府は旧アメリカ合衆国政府が対日戦遂行のためにテキサス領内に移転させていた真空管生産メーカーの真空管生産工場に目を付けた。この設備と奴隷制度を活用すれば、高性能な真空管を安価に量産することが可能と彼らは判断したのだ。
レーダーや新型対空兵器の開発に血眼となっていたドイツ軍からすれば、安価な、そして大量の真空管は喉から手が出るほど欲しいものであり、軍上層部にとってドイツ本国に同様の真空管生産施設が完成するまでは、テキサスにある生産工場は最重要施設の一つとなる。
だが少なくとも現時点では日本軍航空隊の跳梁を阻止できる手段をドイツ軍は持ち合わせていない……だれもがそう思っていた。
「海と空でドイツは負ける。日本が稲荷計画に成功すれば、日本と欧州の差はより大きくなる」
そんな考えが各地の支配者たちの脳裏によぎるのは当然だった。
日英とインド洋でにらみ合っているイランでは、まず英国資本の接収を取りやめた。表向きは「無神論者(ソ連)に対抗する同盟を築くため」であったが、実際には対英関係(および対日関係)への配慮であった。続いて日本企業との商談を進めた。
「日本との交易も進めれば情報収集も可能です。わずかな情報でも、何かしらの手がかりになるでしょう」
「日本とのパイプを一つでも多く確保し、『現状』において偶発的な衝突が起きないように手を打たなければなりません」
イラン政府はドイツ外務省にそう訴え、最終的にドイツの黙認を取り付けた。
日本に対して『影で何を作っているか(或は企んでいるのか)判ったものではない』との思いを強くしたドイツにとって、日本の尻尾を掴む手立てが多いに越したことはなかった。
ドイツ側は日本の中東における影響力拡大や、中東諸国がドイツを裏切るのではないかと懸念する声も当然あったが、中東諸国も『現状で』鞍替えする気はなく、ドイツ側に内心を気取らせるヘマもしなかった。
「動くのは日本と欧州枢軸との差が明らかになったときだ。それまではドイツに首を垂れて、情勢を見守る」
イラン皇帝、そしてイランの隣国であるイラク政府はそう決断した。
両国は日本の脅威(半ば本音)を訴えてドイツから更なる支援を引き出しつつ、日本に石油を売りつけて関係を保つという外交を進めていく。
ウクライナなどの東欧諸国では日本への接近を主張する声こそ表立って挙がらなかったが、「ドイツは大丈夫なのか?」と、盟主たるドイツが日本に対抗できるかどうか不安を覚えるようになった。
彼ら東欧諸国にとって今のところ現実的な問題は日本軍が押し寄せることより、ドイツが日本と戦ったときにソ連が火事場泥棒を狙って西進してくる可能性が高いことだ。
「ソ連は日本に膨大な富を貢ぐことと引き換えに、工業力を再建しつつある。日本の稲荷計画で生産された豊富な食糧まで買い付けるようになったら……」
ロシア人の圧政に苦しめられた人間にとって、ロシア人が復権ことは悪夢でしかない。だがそれよりも更に恐ろしい想定も存在した。
「日本には皇帝の忘れ形見もいる。ロシアがアカでなくなれば、日本人がロシア人に肩入れする理由は十分にある」
世界の敵たる共産主義がロシアから消え去れば、恐るべき力を持つ日本がロシアに本格的に肩入れするのではないか……東欧諸国ではそんな恐れを抱く者も増えた。
「共産主義者が政権に居座っている今の内にロシアを速やかに叩き潰し、欧州主導の下、日本との緩衝地帯を作ったほうが良い」
かくしてドイツ政府や国防軍参謀本部にとって頭の痛い主張が東欧を中心に巻き上がるようになる。
当然、ドイツ政府は傘下の国々を安心させるために何かしらの手を打つ必要が出てくる。このためドイツはただでさえ苦しい台所事情の中、各国への支援を手厚くしなければならなくなった。その中には、駐留軍の増強や最新兵器の供与も含まれている。
イラン演習の結果、ドイツご自慢の最新兵器といっても「日本の新兵器には劣る」という心象が強まっていたため、被支援国が納得する相応の量を供与する必要があった。同時にドイツから容易に離反しないように、駐留軍のテコ入れも行わなければならない。
ただしこれらの政策はただでさえ苦しいドイツの台所事情を更に悪化させ、軍需省や財務省の官僚たちの胃と毛髪に多大な打撃を与えるものであることは言うまでもない。
「ソ連と対峙しつつ、大西洋を越えて軍を派遣し、おまけに各方面にこれまで以上に兵を貼りつかせろ? それで戦後復興も滞りなく進めろ? 無茶を言うな!」
それが官僚たちの本音だった。
だがこのまま座して見ている訳にもいかないことを彼らはよく理解しており、呪詛の言葉を吐きながら乾ききった雑巾を無理やり絞るように資材や予算の調達を進めた。
そんな苦しい台所事情が故に、ドイツはこれまで以上にユダヤ系、スラブ系住民など被差別民族への強制労働を強いるようになる。
その一方で、ナチス上層部は旧ポーランド領域の一刻も早いドイツ化を成し遂げるために、これまで以上に徹底して反抗的なポーランド人の掃討を進めることを厳命した。
「生存圏安定のため、東欧に巣食い、我が国の足を引っ張る劣等種族は、一日でも早く駆逐しなければならない」
「奴らは貴重な資源を食い荒らすだけの存在だ。速やかに取り除かなければならない」
ヒトラーは憚ることなく、そう公言した。
アーリア人至上主義を唱えるこの独裁者にとって、アーリア人が後れを取っているのはその能力ではなく、足を引っ張る者がいるからだという論理のほうがより受け入れ安い理論だった。故に彼は自分たちを後ろから撃つ者として被差別民族をあげ、これらの駆逐こそ必要であると主張し、必要な政策を推進していくこととなる。
ただしこのようなドイツ側の政策が、ますますドイツの評価を押し下げた。「オーストリア出身の伍長がアーリア人以外の民族の血肉を容赦なく搾取することで築き上げた帝国」と自嘲するドイツ国民さえいたのだから、ドイツ以外の国がドイツをどう評価しているかは言うまでもない。
提督たちの憂鬱外伝 戦後編25
ドイツが旧アメリカの物的な遺産に目を向けている一方、イギリスはドイツを忌避する旧アメリカ人技術者の獲得を進めた。物品よりも人の確保を彼らは重視し、相応の成果を上げることとなる。だが問題もあった。
情報統制をしていないイギリスでは、円卓会議や政府要人の面々が頭を抱えながら次の手を打とうとしていた横で、一般市民は10年間も日本の画期的な技術の隠匿を見抜けなかった英国の情報機関を酷評した。
「大英帝国が没落したのは、情報機関の無能と怠惰によるものが大きい」
そんな社説さえ新聞に載るほどなのだから、この時代の英国情報機関がどれだけ白眼視されていたか判る。
ただでさえ生活が苦しい労働階級の人間たちからすれば、英国情報機関はドイツの動きも、中華と植民地人の策謀も見抜けなかった無駄飯ぐらいの無能集団と捉えた。
日本が急速に勃興したことに対する危機感はあったが、それよりも英国の衰退を招いた主犯格としか思えない自国の情報機関への怒りの方が強かった。おまけにこの情報機関は戦後で多くの国民が苦しい生活を送っている中、相変わらず膨大な予算を獲得しているのだ。腹が立たないわけがない。例え責任者が解任されたと聞いても「遅すぎる」としか思えなかった。そしてそのような苛立ちは労働者だけでなく、その上の階級にも波及していた。
「日本はドイツの危険性を察知し、同盟国だった我が国を助力する準備をしていた。遠く離れた日本がドイツの危険性を察知できたのに、我々は何故、察知できなかったのだ?」
「我が国の間諜は対日工作で碌な成果を出していない。彼らは日本で昼寝でもしているのか?」
「謀略で中国人と植民地人に後れを取るとは何事だ」
そのような声が各層で噴出した。
ドイツに実質的に負けた責任、対日外交での不手際を追及されることを恐れた軍部、政府高官の中には普段の不仲を棚上げにして、情報部の失態を論うことで非難の矛先を情報部に向けようとする者も少なくなかった。
「市民が革命を起こさないようにするには、スケープゴートが必要だ」
労働者たちによる革命を恐れる資本家、貴族階級は、これらの情報部叩きを肯定し、それどころか巧みに煽った。
無論、円卓会議が無軌道な情報機関叩きを掣肘していたが、そんな彼らでも感情面においては情報機関に対する不信感は根強かった。
「次に何かヘマをしたら即座にクビ(物理的意味で)を飛ばす!」
モズリーは首相官邸に集めたMI6の幹部の前でそう断じた。
叱責を受けている情報部は「ファシスト首相が……」と苦々しい顔をする者も多かったが、情報部を庇っているのは他ならぬそのファシスト首相であったため、表立って反発もできない。彼らにできるのはこれ以上大きな失態を犯さず、実績を積み重ねることで信頼回復に務めることだけだった。
だが情報収集を進めれば進めるほど、情報機関は『夢幻会』の異質さに直面することとなる。
「まるで正解を知っていたかのようだ」
MI6のある高官は部下の前でそんな言葉をこぼした。何しろ、まるで未来に何が起きるか知っていたかのように次々に手を打っているのだ。不思議に思わないわけがない。
特に大西洋大津波とその後の第二次世界大恐慌、そして異常気象と凶作への対応、そして稲荷計画のタイミングは神がかっている……英国側はそう判断していた。
「日本の大蔵省と日銀は第二次世界大恐慌に際して、すべて的確な手を打ってダメージを最小限にするどころか、利益を得ている。並大抵の手腕で出来るものではない」
「大西洋大津波発生後、日本側はただちに食糧危機を予見していたかのように、矢継ぎ早に対策を打っている。これだけタイムラグがないと、あらかじめ今の情勢を想定していたとしか思えない」
「技術開発でも、不自然な助言が行われたとの証言もある。いくら電子計算機があっても説明がつかないものも多い」
これらの報告から「まるで未来人がタイムスリップしてきて助言していたのでは?」とのジョークが流行り、それを聞いた夢幻会最高幹部は肝を冷やすことになる。
ただ、さすがに英国政府もそれを本気にすることは無く、あくまで現実的な範囲で推測を行った。
「優秀な人材の育成は難しい。まして天才と呼ばれる人材を発掘するのは困難を極める。だが夢幻会はどうやったかは知らないが、一度に多くの天才を見つけ出した上に
多くの天才にその実力を発揮できる環境を与えた。これが日本が躍進した理由だろう」
「天才というのは変わり者が多い。だが夢幻会はこの天才の間を取り持つことができる者も多く擁し、多くの才能を有機的に結び付けたことも大きい」
「この優秀な人材は省庁、いや政財官の垣根を超えたネットワークを持ち、議会を半ば傀儡にして巧に国政を動かしている。彼らは『顔のない独裁者』として民意に左右される事無く長期的視野に立った政策を立案、遂行した。この政策の一貫性と積み重ねも日本躍進の一因だろう」
夢幻会の実態を知る嶋田が聞けば失笑し、辻あたりなら大爆笑しそうな推論だったが当人たちは至って真面目だった。
彼らは日本の不自然なまでの躍進の理由を夢幻会が大量に確保した「天才」(他国からすれば天災)によるブレイクスルーと、その「天才」たちに活躍できる環境を与えた政治力に求めたのだ。だがそれでも、どこかに不自然さは残る。イギリスに多いオカルト信奉者たちは、その不自然さにオカルトの要因が絡むのではないかと考え、魔術師や占星術師を使って調査するほどだった。
日本の内情についてある程度知る者たちでさえ、不自然さを禁じ得ないのだから、日本の内情を知らぬ者たちはその異質さに畏怖と恐怖を感じるのは当然だった。
特に日本側勢力圏と直接接しているオーストラリアの国民は青ざめた。もはや自分たちが如何なる手を打っても、日本に抵抗する手段がないことが明らかだったからだ。
イギリス本国から勧告されているように、日本に対しては融和政策をとるしか方法がないことを、だれもが理解せざるを得なかった。頑迷な白豪主義者であっても、この状況では楽観的なことを言えなかった。逆に彼らは自分たちのこれまでの所業を見ていた日本が自分たちを敵視し、叩き潰そうとするのではないかと怯えた。
「日本が公的ではない、何かしらの方法で、我々を潰しに掛かるのでは?」
有色人種を侮辱した言動、行動を取っていた人間ほど、恐怖は強かった。尤も、恐れを抱いたのは彼らだけではなかった。
「このままでは我が国は日本に呑みこまれるのでは?」
そんな声さえ挙がった。何しろオーストラリアは領土こそ広いが、総人口が600万人程度の小国。工業力も大してない。
破竹の勢いで勢力圏を拡大してきた日本が少しでも野心を抱けば、瞬く間に呑みこまれるかも知れない……そんな考えを抱くようになった。日本側からすれば被害妄想極まれりなのだが、そのような被害妄想を抱かせるほど、彼我の実力差は隔絶していた。すでに日本は存在するだけで脅威と思われ、圧力を与える国となっていたのだ。
「その気になれば、自分たちを容易く破滅させられる軍事力と経済力を持った有色人種の大帝国。これを脅威でなくて何なのだ」
「神か、悪魔か、いずれにせよ人知を超える何かの加護を一身に受けたような国、それも我が国とは相いれない国が怖くない訳ないだろう」
「環太平洋諸国会議の席で、他のアジア人を使って我々を呑みこむ算段をするのでは?」
オーストラリアの一般市民は、恐怖の感情が籠った目で日本、そしてオーストラリアに訪れた日本人の動きを見つめた。
ただしそんな感情で見つめられる日本人は堪ったものではない。
「日本人は凶悪犯罪者かよ……」
シドニーを訪れていた帝国総合商社の社員は「化け物」を見るかのような目で日本人を見るオーストラリアの白人に辟易し、借りたホテルの部屋にある机に突っ伏した。
「スペインのときだって、相手から謝罪と賠償を引き出しただけで済ませただろうに……あの連中は何が怖いんだ? 我が国は礼には礼で答えてきた国なのに」
戦前にオーストラリアに滞在した経験がある先輩社員は、壁際のベットに腰を降ろした後、平然と言い放つ。
「まぁ露骨に差別されないだけ良くなったと言えるさ。戦前は有色人種なんて人間扱いしなかった奴が多かったからな」
「これが戦争に、それもあのアメリカに勝ったってことですか」
「そうだな。戦争に勝って国の地位が上がれば、黄色人種だからと言って舐められることも差別されることもない。国が豊かになっても、力がないと思われれば結局は舐められたままだ」
「そうですね。開戦前は確かに酷かった……」
彼らは日米開戦前のことを思い出す。あのときはどの国も日本の敗北を予期し、日本企業や在外邦人を冷たくあしらう者、あるいは商談において露骨に足元を見る者が多かった。
しかし……あの戦争に日本が勝ってからすべてが変わった。そして今や日本は我が世の春を謳歌する立場だ。かつて日本企業や日本人を軽く扱った者たちが、今や日本側の機嫌を伺うようになった。それはこれまで鬱屈とした思いをした者にとっては忘れがたい経験だ。
「しかし普通の市民にまで腫れもの扱いとは……」
「まぁ向こうさんも扱いかねているのさ。ドイツの総統は日本人を突然変異種だとか言って、棚上げしているらしいが」
「でも、それは別の意味で日本人を人間扱いしなくなった……ということでは?」
「……かも知れないな。ははは、傲慢なドイツ人のことだ。遠い将来、化け物狩りだとか言って戦争を吹っ掛けてくるかもな」
「そうなったらまた皇軍の出番ですね。前回は腰抜けのイギリス人の所為で中途半端に終わりましたが……今度こそ、白黒はっきりつけられるでしょう」
「……仮にそんな戦争が起きたら最初の戦場は中東や北欧になる。まぁ上もそのことを考慮してフィンランドに支援しているのだろうが」
彼らと同じ考えに至る者は少なくない。そしてその中にはフィンランドの英雄もいた。
「ここまで日本が我が国に便宜を図る理由……対ソ政策、対独戦略絡みとみるべきか?」
新聞に掲載された日本に関する記事を読み終えたマンネルヘイムは軽く息を吐く。
対日関係を大いに悪化させ、英国の立場を弱体化させたハリファックスとは対照的に、冬戦争後も対日関係を維持し最終的に大きな果実を祖国に齎したと言われるフィンランド軍元帥・カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは自宅の書斎で目を瞑り、背もたれに体を預けた。
冬戦争以降、風船が膨れ上がるように大きくなる一方の日本からの借り……今後を考えれば考えるほど、彼は頭痛を覚えた。一般市民は日本の気前の良さに驚くだけで済むが、彼のような政府の要人ともなれば日本の意図を読まなければならない。とりあえず冬戦争での本格的な参戦は日本国内の旧ロシア帝政派への配慮ではないかと彼は推測したが説明がつかない支援も多く、彼の頭を悩ませた。
彼は親日派と言われ日本との関係を重要視していたが、ドイツやイギリス、そしてソビエトとの交渉ルートの整備も怠らず、常に最悪の事態に備える慎重さを持っていた。
それゆえに日本の今回の発表を聞いて、今後のミリタリーバランスの変化に神経をとがらせる。
「あれだけ大々的に宣言したのだ。日本は本気で稲荷計画を達成できると踏んだのだろう。Y型戦艦、トランジスタと言い、彼らは本気でドイツを突き放す気だな」
世界の半分が大西洋大津波の後遺症で苦しんでいる中、日本側はドイツを圧倒するため技術開発と軍備増強を滞り居なく進めている……マンネルヘイムはそう判断した。
「追いつめられたドイツが暴発するか、或は圧倒的優位に立った日本が更に何かしらの手を打つか、それとも……まぁいずれにせよ、備える必要があるが……」
かといってフィンランドでは独力で重火器や航空機を大量にそろえることは不可能だ。仮に軍拡を行うのなら工業力のある他国(列強)からの支援を受ける必要がある。
現状で一番支援を行ってくれそうな国は日本なのだが、それは日本への依存をますます深める結果となるものであり、マンネルヘイムを躊躇わせた。
「ソ連とイギリスの貿易を仲介するのと引き換えに、武器輸出を打診したいところだが……」
現状では『自爆用兵器』と揶揄されるソ連製兵器を自国将兵に持たせるのも憚られる。
イギリスについては、自国陸軍再建のために一丁でも多くの銃火器を必要としているほどであり、到底、フィンランドに回す余裕はない。仮に回ってきたとしても
旧式兵器が関の山だろう。まぁそれでも無いよりはマシなのだろうが……。
「欧州枢軸からも購入してバランスを取るしかないか。政府に提言しなければ……」
フィンランドは日本寄りの国であるが、表向きは中立国であった。またドイツ本土が自国の間近にある以上、ある程度のバランス感覚が必要だと彼は考えていた。
確かにフィンランドは日本から多くの恩恵を受けた。国家存亡の危機では血と汗を流してもらい、その後も陰に日向に支援してもらった。冬戦争で失った領土が戻ってきたのも日本の後押しがあってこそだ。その後も色々な形で日本の支援は続いている。フィンランド国民も日本の多大な支援に感謝しており、日本がドイツと戦うことになったら日本側に立って参戦するべきだとの意見が大勢を占めている。
だが日本から強い要請があれば日本側で参戦する覚悟があるが、敢えて普段からドイツに喧嘩を売るような真似をしたいとは彼は思わなかった。ただでさえ追いつめられた感のあるドイツが疑心暗鬼に陥って先制攻撃に打って出たら、世界大戦だ。後世において「欧州の中華民国」などと批判されるのは御免だった。
「……しかし、まさか我が国が世界の行く末にここまで影響するような国になるとはな」
マンネルヘイムは今後のことを考えつつ、今の祖国の立ち位置に複雑な思いを抱いた。
冬戦争以前はロシア帝国から独立した北欧の小国。それが冬戦争で勇名を馳せ、今や世界最強の軍事大国である大日本帝国の盟友となり、数年前までは一小国だったとは信じられない影響力を持つに至ったのだ。フィンランドは先の大戦の勝ち組と見做されている。
だがそれでもマンネルヘイムの心は晴れなかった。
「……近代化を開始して100年足らず。その間に中国、ロシア、アメリカ……周辺の大国を次々に打ち破り、今や技術面でも世界を主導する立場になる、か。何がそこまで彼らを躍進させたのだ?」
名将として名高いマンネルヘイムをもってしても、何故ここまで日本が躍進できたのかは判らなかった。
自国を支援してくれる世界最強の軍事大国の存在は有難かったが、かの帝国の信じがたい躍進ぶりを考えれば、色々と考えざるを得ない。
(それに稲荷計画……日本は自国勢力圏の安定を掲げているが、それだけで済むだろうか)
大西洋大津波の影響で世界各地で食糧危機が起こっている。
その中、圧倒的な軍事力を持つ帝国が、食糧の安定供給を成せば……それは大和型戦艦や新型ジェット機以上の大きなインパクトを与える。欧州枢軸の過酷な支配に喘ぐ地域から日本支配圏への鞍替えを企む勢力が出かねない。それは欧州枢軸の統治コストを増大させるだろう。
(日露戦争では明石工作を仕掛け、帝政ロシアを揺らがした国だ。間接的な揺さぶりはお手の物だろう……全く、相変わらず抜け目のないことだ)
マンネルヘイムは日本が敵でないことに神に感謝する。
「一部の人間が言うように、日本人が神に選ばれたツラン民族の末裔だという説もあながち間違っていないのか? ふっまさかな」
フィンランド人などの北欧系はアルタイ山脈山中にあった人類の理想郷であり、人類文明発祥の地シャングリラに住んでいた選ばれた民・ツラン民族の末裔という考えがあった。そしてこのツラン民族の末裔に日本人が含まれていると主張する声が強まっていたのだ。日本人をツラン民族に含める声は1920年代からあったが、昨今の日本の隆盛によって、更に大きくなったのだ。フィンランド国民には「同じツラン民族だから日本がフィンランドを支援してくれる」と思う者もいるが、マンネルヘイムはそんな考えに同調することはなかった。
だが日本のような大国を構成する民族と同じ血を引くという民族思想は、強国によって虐げられてきた人々に未来への希望を与えるものであり、フィンランド以外でも強く支持される思想であった。
実際、汎ツラン民族運動が再び活発になったのと同時期に、ユダヤ人の間では日本がユダヤ系に寛容なことから『日ユ同祖論』が囁かれはじめている。また日本が近年次々に白人以上の高度な技術を作り上げていたことから、日本人の祖先が世界最古の文明であるシュメール文明があったチグリス・ユーフラテス川下流域にかつて住んでいたとされる日本人シュメール起源説も活発に唱えられるようになっていた。他にも中国南部やベトナムの少数民族と日本人が同祖であるという説さえ挙がるようになっている。
日本政府は「日本人のルーツは調査中」と答えを濁していたこともあって、その手の話は消えることはなかった。
「世の中、暇人が多いんですね」
尤も辻がそう評していたように、日本政府はそのような起源説について真剣に取り合わなかった。彼らが取り組むべきことは他に山ほどあったのだ。
環太平洋諸国会議の準備に加え、稲荷計画、新たな軍備計画、そしてトランジスタコンピュータの発表を受けてますます日本に期待を寄せてくる東南アジア各国への対応など日本政府は大忙しだった。
ただし、先の発表で日本人に対する注目度が更に高まる一方で、更なる繁栄を謳歌しようとする日本人への反感も相応に強まった。
まず日本によってコテンパンにされた旧中華民国では日本人をアジアの長兄である中華を引き裂き、次男である朝鮮を足蹴にする恩知らずの国などと主張する声があり、扇動された人間が租界などで反日テロを企んだ。おかげで警察、憲兵隊、それに陸軍特務機関は相変わらず忙しい日々を送ることになった。
「すべて自業自得だろうが、痴れ者共が」
関東軍を預かる東条は司令官室で報告を聞くと、怒気を発しつつ吐き捨てるように犯人たちを罵った。
「戦前もそうでしたが、あの手の連中は自分たちが享受すべき繁栄を、日本が掠め取ったとしか思っていないのでしょう」
牟田口の意見に東条は頷く。
北京政府が崩壊した際に接収した資料から、北京の住人が日本の繁栄を如何に妬んでいたかが判明した。
白人をアジア圏から追い出し、尊敬される盟主として君臨する日本……それは中華の住人からすれば本来は自分たちが座るべき立場だった。そして人間は自分のものが奪われたと感じたとき、負の感情を抱く。まして盟主の地位を奪ったのは、先の戦争で自分たちを散々に打ち負かした日本なのだ。恨まない訳がない。
「ふん、最終的に日本を服従させて、日本のあらゆる力を吸い上げて偉大な中華を復活させるなど、まさに痴人の妄言だ。できるとでも思ったのか」
大陸側の人間の妄念に、東条は寒気さえ覚えた。
「連中は長い時間をかけて日本に浸透して、少しずつ日本を取り込めると読んだのでしょう。あまり言いたくはないですが……我々日本人は脇が甘いですから」
「……まぁ確かにな」
政治家や外務官僚の失態を思い出し、東条はため息をついた。
「ここまでくると、辻が主張する大陸分断政策を正しいと認めざるを得ないな……不本意だが」
辻が主張し、情報局主導で進められていた大陸分断工作は大きな成果を挙げていた。
異常気象で起きた飢饉、飢餓輸出と言ってもよい食糧輸出で荒廃していた華北は、ばら撒かれた麻薬と銃火器によって更に荒廃している。件の弾劾の結果、海外の華僑からの支援も途絶したため、食糧を得る手段が少なくなった住民はわずかな食糧を奪い合った。ときには食糧として人間(主に子供)を誘拐することさえあるのだから今の華北内陸が如何に地獄絵図となっているかが判る。
おまけにこの地獄を何とか生き延びても、ソ連に奴隷として売られたり、侵攻してきたソ連軍に殺される可能性さえあるのだ。まさに夢も希望もない大地だった。
(何で陸軍軍人の俺が人道的な問題を気にかけなければならないんだ。普通は逆だろうに)
東条は口には出さないが、そうぼやいた。そんな東条の内心を知らない牟田口は東条に追随するように辻を酷評する。
「全くです。それにしてもあの男は大蔵省にいるより、情報局にいるほうがよほど似合うと思いますが」
「よせ、あの男が情報局でやりたい放題するほうがよほど脅威だぞ。内務省と組んでフーバーファイルならぬT(辻)ファイルのようなものを作りかねない」
「……た、確かに」
辻が『マル秘』と書かれたファイルで自分たちの頬を叩いて脅してくる幻影が彼らの脳裏に浮かび、二人は冷や汗を流した。
「まぁ嶋田さんにはまだ頑張ってもらおう……奴に対する肉壁として」
「そ、それは幾らなんでも」
「高貴なる義務というやつだ。今や嶋田元帥は伯爵だぞ」
(不幸は押し付けるもの、幸福は強引にでも分け合うもの、だったか……全くもって真実だな)
さすがの牟田口も嶋田に同情するが、代わってやろうとは思わない。好き好んで火中の栗を拾おうとする者はいないのだ。
「……仮に嶋田元帥が代わってくれ、と言って来たらどう返答されるおつもりで?」
冗談半分に質問してくる牟田口に対し、東条は意地の悪い笑みを浮かべて返す。
「決まっている。『陸軍としては海軍の提案に反対である』、だ」
この後、牟田口が爆笑したのは言うまでもない。
何はともあれ、大陸の日本軍は反日テロを行う抗日組織を相手に戦いを続けることとなる。しかし今回の発表で反日感情を煽られたのは中華の住民だけではなかった。
稲荷計画の研究施設が自国領内に建設されなかった大韓帝国の宮廷関係者は新参のタイ王国の出しゃばり(韓国人主観)に激怒すると同時に、新参者を重宝する日本のやり方を公然と批判した。
「我々は長らく日本につき従ってきた。にも関わらず、日本は我々を無視するかのような振る舞いをする。これはあまりに失礼ではないのか!」
日本人からすれば「何を言っているんだ、お前ら」と突っ込むところだが、当人たちは至って本気だった。
今回の一件でタイ王国の立場は大きく向上した。だが彼らの考えならそれは本来、韓国と韓国人(両班)が享受するものだったのだ。故に彼らは日本とタイを逆恨みした。
誘致成功にわくタイに憎悪と嫉妬の眼差しを向けつつ、彼らは功績さえあげれば、黄色人種であろうと重用すると喧伝するドイツに近づくようになっていく。
また蘭印を手放すはめになったオランダ人の間でも、不満は高まりつつあった。日本との交渉で現地の利権はすべて失わずに済んだが、先祖が開拓した植民地を失ったという事実はオランダ人に負の感情を抱かせるのに十分だった。
まして自分たちから奪った植民地(オランダ人主観)を利用して食糧を大増産するというのだ。何も思わない訳がない。
しかし世界を三分する三大国(日独英)が取り決めたことを小国であるオランダがひっくり返すことなどできない。このため彼らの鬱憤はますます高まった。
現状を理解しているオランダ政府は「日本とうまく連携して、稲荷計画に一口噛めないか」と考えていたため、このオランダ国民の鬱憤が日本に向かないように苦心していたが、それでも限界があった。むしろ政府や日本に言われるままに引き継ぎ業務を行う総督府の弱腰振りを批判する声さえ出るようになる。
これがどのような事態をもたらすか、それを知る者はまだいなかった。
あとがき
提督たちの憂鬱外伝 戦後編25をお送りしました。
環太平洋諸国会議に入る前に、稲荷計画、大和型戦艦などの発表を受けた各国(前話で書かなかった国)の対応を追加しました。
作中の日本は強くなりました。しかし強くなれば何もしないのに嫌われたり、恐れられたりすることもあります。夢幻会はこれから色々とそれを思い知るでしょう。
あとKの国につづいて、チューリップの国も色々とやってくれるかも知れません(爆)。
それでは拙作にもかかわらず最後まで読んでくださりあいがとうございました。
戦後編26でお会いしましょう。