イラン演習におけるドイツ空軍の惨敗は、ドイツを盟主と仰ぐ各国を大いに動揺させた。
 中でも、日本との最前線となるであろう中東諸国においては、ドイツの軍事力に関する評価を下方修正する動きが相次いだ。
 そんな情勢において、日本が中東諸国に反共を口実にして接近を試みれば、ドイツが見過ごすはずがない……誰もがそう考えた。

「ドイツ軍は我々が考えていたより弱いのかも知れん。だが、我々を蹂躙することは容易い……容易な行動はとれん」

 イラン皇帝は宮殿に集まった側近たちを前にそう言って、苦悩をあらわにした。
 そう、たとえドイツが思ったより強くなかったとしても、それは程度の問題であった。日本陸軍に質の面で負けていたとしても、日本陸軍が中東に展開する前にイランを蹂躙するのは容易であることは、誰が見ても明らかだった。
 ドイツ軍は世界最大の陸軍大国であったソビエト連邦を叩きのめしたという実績があるのだ。独ソの二大国がどのような殴り合いをユーラシアで繰り広げたかを知っていれば、イランのような小国が日本陣営への鞍替えなどという迂闊な行動などとりようがない。
 かといって、このまま何もしないという選択肢は彼らにはなかった。

「環太平洋諸国会議にオブザーバーという形で出席できないだろうか? うまくすれば日本との交渉ルートが手に入る」
「ドイツに対しては、環太平洋諸国会議での情報収集を行うと言えば、理解を得られるのでは?」

 故に、そんな声がイラン政府内部から出るのは当然だった。
 だがオブザーバーと言っても、日本主催の国際会議に親独国が出席するとなれば、欧州枢軸陣営の結束に影響する可能性があり、それをドイツが見逃すか判らない。イラン側の外務官僚たちの間では「厳しい交渉になるのではないか……」と思われていたが、予想外にもドイツはオブザーバーとして参加を阻止しようとしなかった。

「本当に宜しいのですか? リッベントロップ外相?」

 ベルリンのドイツ外務省で行われたドイツ外相リッベントロップとの会談で、イラン大使は確認するように尋ねた。
 だが返事は変わらない。

「問題ないでしょう。総統閣下も、イラン帝国の方針に反対していません」
「……」

 「何か裏があるのではないか?」……そんな疑問がイラン大使の脳裏に浮かんだ。
 それを予期していたかのようにリッベントロップは口を開く。

「ただ、あくまで貴国は欧州枢軸陣営に連なる国であることを忘れてもらっては困ります」
「それは勿論です。我が国は枢軸陣営に連なっていることを忘れてはおりません」
「それは結構。なら……貴国にはメッセンジャーとして働いて欲しいのです」
「メッセンジャー、ですか?」

 イラン大使は「ドイツが敷いている奴隷制度の正当性をかの会議で主張しろ」と言われるのではないかと内心で身構えた。
 だがリッベントロップの口から出た内容は、彼が想像していたものとは全く異なるものであった。

「我が国が考えている、日本陣営における各国の序列について……これをそれとなく伝えてもらいたい」
「序列、ですか?」
「ええ。日本陣営における各国の序列を、我々がどう考えているか……これを各国の大使に伝えてもらいたいのです」

 イラン大使は「日本側陣営の内部対立を煽るための策略か?」と考えたが、すぐに否定する。

(ドイツがどのように考えているかと伝えただけで、仲違いするほど彼らは愚かではないだろう。それはドイツも理解しているはずだが……)

 イラン大使はリッベントロップの真意を探ろうとするが、リッベントロップは「それを伝えてくれれば良い」としか言わない。

「それで、貴国が考えている序列とは?」
「大日本帝国が第一位、次に長年の日本の従属国であった大韓帝国、続いて福建共和国……」
(?!)

 イラン大使はリッベントロップが「裏切り者」として日本から冷たい視線を向けられているはずの韓国を、日本陣営における次席と考えていると伝えられて、思わずリッベントロップの正気を疑った。勿論、それを表に出すようなヘマはしなかったが。

「……かの国は日本から冷遇されていると聞きますが?」
「ですがかの国は長い間、日本に保護されてきた国であり、外交自主権こそありませんが、『独立』を維持してきた国です。相応の敬意を払うに値するのでは?」
「……」

 イラン大使はドイツ外相の真意を読むことは出来なかった。
 だが『その程度』のことなら、問題ないとも判断した。少なくとも日本陣営の序列について考えたのはドイツなのだ。

(ドイツがそのように考えている、そう伝える程度なら大きな問題はないはず……今回のメッセージは精々、日本側への皮肉だろう)

 韓国から多くの労働者がソ連に売りとばされていることはイランでも知られていた。
 そして人種差別や奴隷制に批判的な日本側が、保護しているはずの韓国の内政問題と言って、韓国国内の人身売買に干渉しようとしないことも。

「……分かりました。そのように」

 イラン大使が部屋を後にした後、リッベントロップは息を吐く。

「……ふむ、これでいいだろう」

 そう呟くと、リッベントロップは目を閉じる。

(全く、あの肥満元帥のせいで面倒なことになったものだ。だがこうなってしまった以上は、何か手を打たなければならない)

 ドイツ第三帝国の外交を切り盛りしているリッベントロップは枢軸陣営構成国の動揺ぶりをよく理解していた。故にヒトラーが韓国を使って日本の足を引っ張る策謀に最終的に賛同したのだ。

(確かに危険ではある。日本が本気になれば第三次世界大戦になる……だが、最低でもアイスランドへの工作をするためには、日本の足元が万全でないことを示しておきたい)

 アイスランドに大規模な飛行場が建設されつつあることは、ドイツの知るところとなっていた。
 日本側は民間機用と言っていたが、それを額面通りに受け取る国はない。ドイツとしてはアイスランドを何とか枢軸に寝返らせたいと思っていたが、現在の状況ではアイスランドが首を縦に振ることはないのは明白だった。
 今回の一件で、日本が属国の統制に手間取っていると喧伝することを明らかにすることが出来れば、アイスランドや北欧など日本から遠く離れた位置にある国々に対する揺さぶりも少しはやりやすくなる可能性はある。
 そこまでいかなくとも、日本も足元が安定している訳ではないことを示せるだけでも、欧州枢軸陣営諸国に多少なりとも安心を抱かせることになる。特に恐るべき技術力と軍事力、危機管理能力を誇る日本の下、有色人種が一致団結して欧州に攻め寄せるという悪夢にうなされるドイツ人にとっては、韓国が馬鹿なことをして日本の足を引っ張るだけでも一定の成果と言える。

(ただし、ことは慎重に運ぶ必要がある。下手を打てば、連中に反撃の口実を与えかねない)

 露骨にやれば日本の報復を招くことは彼らも理解している。このためドイツは極力、日本に報復の口実を与えることがないようにことを進めるつもりだった。

「宣伝省と親衛隊も動く……日本人が気づいて抑え込むのが先か、それとも彼らが先に暴発するのが先か」

 そこまで呟いた後、リッベントロップはもうそろそろイラク大使が訪れる時間であることを思い出す。

「イラン、イラクが動けば、サウジアラビアも動くだろう……イギリスがどう動くか」





         提督たちの憂鬱外伝 戦後編21




 インド洋演習とイラン演習において、日本軍がイギリス軍とドイツ軍を圧倒したという事実は、東南アジアで欧州列強の植民地支配に苦しめられていた者たちを喜ばせた。

「やはり、これからは太陽の国の時代だ」

 日本への留学を予定しているシャリフ・アディル・サガラはインドネシア独立準備政府の官舎で時代が変わったことを改めて認識した。

「白人は無敵ではない。彼らが我々を圧倒できたのは優秀な科学力と兵器があったからだ。逆に言えば、我々が同じものを身につければ、白人の力に怯えなくても済むようになるということだ」

 そして彼の周りの人物も、彼の言葉に対して好意的だった。オランダの植民地支配によって虐げられていた人々ほど、日本の活躍は勇気づけられるものはなかったのだ。

「同じ有色人種であるはずの日本があれだけ躍進できたのだ……ならば自分たちにできない道理はない」

 東南アジア諸国にとって日本という国は、自分たちが目指すべき、そして何れは追い越すべき国だった。確かに今は日本の風下に立っているが、そのような立場にいつまでも甘んじるつもりも彼らにはない。
 独立準備政府は日本側の協力の下、独立に向けて国造りに邁進していた。政治、経済、司法、軍事……様々な分野でやることは山積みであったが、明るい未来を得るべく、かつて独立を夢見た男たちは実務に精を出していた。
 そしてそんな彼らにとって、日本が主催する『環太平洋諸国会議』は、独立が決まってから最初の晴れ舞台ということもあり、大いに気炎を上げていた。

「祖国にとって初の晴れ舞台だ。ここで恥をかくようなことがあれば、今後に響く。失敗は許されん」

 国際会議に出席するスカルノはそう言って、部下たちに気合を入れた。

「我々が『正当な』インドネシア政府であることを、世界に示さなければならない」

 スカルノが『正統』という言葉に拘るのは訳があった。
 独立戦争で宗主国から勝ちえた独立ではない……その事実は蘭印だけではなく、東南アジア各地の旧植民地の人間に暗い影を落としていた。
 独立派が主導し、宗主国を駆逐して独立を勝ちえたのなら、独立派主導の政府の基盤は強固なものとなっただろう。しかし彼らの独立は列強の都合によって与えられたものに過ぎないのは誰の目にも明らかだった。

「何であの連中が大きな顔をしているんだ」

 『独立』というインパクト抜群の出来事によって掻き消されてはいたが、そのような声が無かったわけではない。
 そして独立準備政府や現地資本の派閥争いも加わる。

「あいつら(独立準備政府主流派)を出し抜けないだろうか……」

 そんな思いを抱く者の中には、日本から派遣された高級官僚に秘密裏に接触して、『お土産』を渡そうとする者も少なくない。
 そして立場が悪化していた華僑(特に華北系)ほど、『お土産』は高価なもの、或は希少なものとなった。彼らは己の命と財産を守るために必死だったのだ。
 故に地位が高い者ほど、お土産を持参して陳情に来る者の対応に追われることになった。
 インドネシア海軍(規模的には海上警察程度だが)の立ち上げを行うべく、ジャワ島を訪れていた南雲忠一海軍大将の下にも、有力者が現れていた。
 現地の有力者たちを前にあまり得意とは言えないスピーチをしたり、下心を持って近寄ってくる人間を相手に言質を取らせず会話をしたりと、政治家のように振る舞うことを余儀なくされている南雲は自身に割り当てられたホテルの一室で溜息をついた。

「やれやれ、この忙しいときに」

 元帥海軍大将・嶋田繁太郎から直々に東南アジア諸国海軍の整備を依頼され、本国帰還後には海軍大臣への就任が予定されていると言われる男は現地の人間から注目されていたのだ。

「俺は軍人だったはずなのだが……何で、政治家の真似事までしなければならないのだろうな。いや、確かに海上保安庁の整備で、政治家の真似事はしたが、俺の本業は政治家ではないはず」

 高級将校用ということで、部屋は豪華だったが……その華やかさをもってしても、南雲の憂鬱は晴れない。
 そんな時、南雲の部屋に独りの陸軍将校が差し入れを持って訪れる。

「おお、どうですか、南雲提督?」
「前田閣下……」

 現れたのは前田利為陸軍大将。インドネシア方面防衛を任されている将軍であり、前田本家第16代当主にして侯爵の爵位を持つVIPでもあった。
 従卒に案内された前田大将がソファーに座り、その向かい側に南雲が座る。

「提督は大変でしょう。御維新の後、海軍を作り上げた先人たちと同じことをしなければならないのですから」
「いえいえ、前田閣下ほどではありません」
「ははは。私は御飾ですよ」

 そう言って謙遜する前田大将。だが目の前の陸軍大将閣下が前田家という正真正銘の名家の当主であり、それゆえに食わせ者であることを知っている南雲は額面通りに受け取ることはない。

(戦国から江戸、そして明治維新の激動を生き抜いてきた家の当主。その血筋は健在か)

 インドネシア国内の諸勢力との交渉、インドネシア陸軍の創設に向けての準備、それに大人口を抱えるインドネシアを警戒するオーストラリア政府、オーストラリア軍将校との交渉など前田大将の仕事は多岐にわたる。特に交渉におけるタフネスぶりは外務省の役人も舌を巻くほどなのだ。

(いやはや、外務省があせる訳か……)

 南雲は内心で嘆息する。

「インドネシア人の中には、一刻もはやく本格的な海軍を持ちたいという声がありますが、南雲提督としてはどう思われます?」
「……海軍は技術者集団です。それに海軍軍人である私が言うのも気が引けますが……軍艦は金食い虫です。彼らが本格的な海軍を作るには四半世紀はかかるでしょう。海軍中央は海上保安庁程度のものを求めているのでしょうが、それとて10年はかかるでしょう」
「やはり、時間がかかる、と」
「はい。それにあまりインドネシア海軍を増強すると、隣人が煩いかと」

 オーストラリアは真っ向から日本に対抗することができないことを悟って、融和路線に傾いていた。
 だがその国内では白豪主義者たちが鬱憤をためている。日本が一方的にインドネシア海軍を増強するようなことを行えば、オーストラリアを無用に刺激する。

「私も同意見です。ですが、どうも国威発揚のための何かが欲しい……そんな声があるのです」
「国威、ですか」
「ええ。彼らは自分たちが白人たちからどのような目で見られているかを知っています」
「……」

 元支配者であるオランダ人、特に独立準備政府に渋々だが協力している者たちは、影では浮つく東南アジア住民を嘲笑っていた。
 そしてそのことを現地の住民たち、特に独立準備政府関係者は察していた。

「それに加え、現地の人間同士での主導権争いもあります。もともとこの地域には三桁に登る民族集団がいます。このため分離独立を行いますが、インドネシアに残る民族だけでも十分に多い」

 日本とは全く異なる多民族国家を纏め上げるのは容易なことではない。

「……それゆえに、より目に見える形での『何か』を求めている、と?」

 前田大将は頷き、南雲は顔をしかめた。

(現状では松型駆逐艦でさえ、持て余しかねないというのに……)

 松型駆逐艦は対独戦争(あるいは万が一の対米戦争)を考慮して計画された護衛駆逐艦であり、対潜・対空戦闘に関しては高い評価を受けていた。引き換えに対艦戦闘については力不足と評されている。実際に地中海では伊海軍相手に阿賀野型と共に少なくない被害を受けていた。
 そして日本側はインドネシア海軍を創設するに際して、手始めに中古の巡視船に加えて松型駆逐艦1隻を供与することを計画していた。
 ただし、日本政府並びに日本海軍はこの松型でインドネシア海軍が本格的に対潜作戦に参加することを望んでいる訳ではない。日本海軍が現状でインドネシア海軍に期待しているのは、海の治安を確保できる能力の獲得であるため、日本海軍としては松型以外に供与する巡視船レベルの船をはやく乗りこなせるようになってほしいと思っていた。それでもわざわざ駆逐艦を供与したのは、独立準備政府へのサービスという側面が強かった。

「……まさか、陽炎型の供与を求めている、と?」
「一部ではそのような声もあります」
「そんな無茶な……」

 陽炎型は日本海軍を代表する艦隊型駆逐艦であり、基準排水量2900tという一昔前の軽巡洋艦並の排水量を持つ大型駆逐艦だ。
 建造には日本海軍艦政本部の叡智と夢幻会が保有する未来知識が注ぎ込まれ、列強の駆逐艦を凌駕する性能と高い拡張性を与えられている。ただし当然ながら値段も相応であり、大蔵省が大量建造を大いに渋ったのは言うまでもない。
 当初案には2600t級の艦隊型駆逐艦(1500t級艦隊駆逐艦との組み合わせ)もあったが、最終的には伏見宮、堀、古賀などを中心とした面々の働きかけによって3000t近い排水量を持つ大型駆逐艦の大量建造が認められた。
 戦前に昔の軽巡洋艦並の駆逐艦を大量生産したことから、日本側は既に対米戦争の準備を進めていたと一部で言われるようになるが、実際には違う。
 当時、夢幻会はアメリカの海軍力増強に注意を払っていたものの、昭和17年に日本が孤立した状態で日米戦争が起こることまでは予測できていなかった。彼らは今後加速するであろう技術の発展に適応していくには、この程度の大型駆逐艦が必要……そんな考えがこの大型駆逐艦の採用を後押ししたのだ。
 そして量産された陽炎型は松型と共に地中海に派遣され、伊海軍と激戦を繰り広げた。対艦戦闘に不安が残る松型に変わって矢面に立たなければならなかった陽炎型は少なくない被害を被ったが、その活躍は内外で報道されており、その高性能振りと相成って非常に知名度の高い艦となった。故に陽炎型の同型をインドネシア側が欲してもおかしくはない。
 しかしそれを完全に使いこなせるかどうかは別問題だ。そして南雲はそれを理解するが故に事の本質にいきつく。

「つまるところ、政府の威信の問題、ですか」
「インド洋演習、イラン演習で我が帝国の武威が著しく増し、政府と軍の支持が高まったのを見た者たちは、我々の真似事をしたいのですよ」
「……今は軍備よりも、国の基盤づくりが重要な時期です。内政で少しずつ実績を積み上げていくほうが、彼らのためにもなります」
「ええ。私もそう言ってはいるのですが」

 日本側はまずは基盤を作り、経験を積んでもらってから次のステップに進めることを考えているのだが、独立準備政府の中にはもっと強力な装備を欲する者もいたのだ。

「……それで私には、何を望まれると?」

 南雲の問いかけに対し、前田は神妙な顔で答える。

「抑え込むことも出来るのですが、やはり専門家の見地、それも南雲大将のような方から説得してもらったほうが、一番です」
「……私の意見で彼らが意見を変えますか?」
「嶋田元帥の弟子。そして海保を第三の軍に育て上げた能力は有名です。大丈夫ですよ」
「……」

 南雲は乾いた笑みを浮かべざるを得なかった。
 何しろ南雲は実戦指揮官よりも、嶋田の弟子と称される軍政家としての才覚を評価されていた。海軍軍人でありながら海上保安庁を切り盛りし、彼らを第三の軍といってよいほどの水準に引き上げた手腕は誰もが認めるところであるからだ。軍政家としては嶋田元帥には及ばないが、嶋田の盟友たる山本海相に勝るとも劣らないとさえ評する者さえいるのだから、彼のどのような評価をされているか判る。
 本人にとっては不本意極まる評価ではあったが……。

(俺は艦隊を率いて戦いたかったんだが……)

 内心でそう嘆く南雲。
 しかし彼にとって皮肉なことに、彼が政治面での才能を向上させたのは、各国の思惑が渦巻く北欧で第一次遣欧艦隊司令長官としての責務を果した経験だった。
 何はともあれ、己の志望とは真逆の方向で栄達していく男の喜劇は続く。




 日本資本が積極的に進出している東南アジアには、邦人保護を名目に日本陸海軍も多数の部隊を配置している。
 そして今、日本軍が重視しているのがチッタゴン丘陵地帯であった。この地域はインドが本格的な内戦に突入した際には、東南アジアを守る防壁の一角となることを期待されていた。ただしかの丘陵地帯は未だにインドの領土であったため、日本軍は展開していない。
 しかし日本側はすでにインドでの大規模な内戦を既定事項と見做し、即応体制がとれるようにビルマ方面軍を創設してビルマ各地に必要な部隊を展開しつつあった。
 そしてその最前線を預かっているのがラングーンに司令部を置くビルマ方面軍司令官・木村兵太郎陸軍大将であった。

(俺は陸軍軍人として露助と満州で戦うつもりで、露助と戦う研究をしていた筈なんだがな……いつの間にかビルマで難民相手に治安戦。人生は何が起きるか判らんな)

 ただし当の本人は、戦前の想定とかけ離れた状況に司令部で四苦八苦していた。
 牟田口と同じ転生者である木村は、「史実の愚は繰り返さない」と心がけ、対米戦争回避と対ソ封じ込め戦略を支持していた。
 対米戦前においては東条や杉山、荒木などのバックアップの下、満州で築いたコネクションを通じて戦争回避のためにアメリカ財界と接触を試みた将校の一人でもある。

「戦意に満ちたアメリカを相手に勝利するなど夢想にすぎん。引き分けに持ち込めれば僥倖だろう」

 ハルノートを見て激昂する部下たちをそう宥め、最後まで戦争回避のために動いていたことから木村は陸軍ハト派軍人の一人と思われている。
 故に日本が圧倒的勝利を収めたために、穏健派である彼は一時肩身が狭い思いをした。冷静な軍人は「大西洋大津波」あってこその大勝利と分かっていたが、戦前に受けた様々な仕打ち、そして満州、上海などで圧倒的な勝利を収めた実績による反動は強かったのだ。
 尤も陸軍上層部や日本政府上層部はそんな熱狂とは距離を取っており、木村の能力を評価していた。確かに彼の努力は実を結ばなかったが、実戦指揮官としても、 軍政家としても評価に値する人物であるのだ。このため彼は大将に昇進の上でテ号作戦指揮のためにラングーンに赴任することとなった。
 本人は「印度方面には疎いので」と固辞したものの、「幕僚で輔佐する」、「帝国に野心がないことを示すため」などと杉山や永田に言われて受け入れたというのが実情であった。

(いかん、今は会議に集中しよう)

 そう小さくつぶやき、木村は目の前に座るビルマ方面軍幹部の面々に視線をやる。

「参謀長、インド方面で何か動きは?」

 この木村の問いかけに答えたのはビルマ方面軍参謀長である佐藤賢了中将だ。

「イスラムとヒンドゥーの対立が以前より激しくなっています。特にカルカッタでは衝突が頻発しています。総研の予想通り、まずは宗教問題から火を噴く可能性が大かと」
「宗教対立が激化すれば、虐殺が発生しかねないな」

 木村はそうなった際の惨劇を予期して、顔をしかめる。
 しかし佐藤中将は更に救いのない言葉を口にする。

「宗教対立だけで済めば良いのですが……」
「ふむ」

 インド洋演習で見せつけられた日英の軍事力、そして『独立間近』という事実がある程度の不満を抑え込んでいたが……サイクロンが直撃した上、飢饉によって膨大な死者を出したベンガル地方を中心とした東部地域ではその効果は他の地域に比べれば薄いと言わざるを得なかった。
 現地の情報を詳しく見聞きしている木村は、溜息をつきそうになる。

(津波を受けた後、イギリスは復興のためにインドから散々に富を搾り取った。これによってインド経済は低迷、これに異常気象とサイクロンが追い打ちをかけた)

 宗主国であったイギリスは、本国やカナダなどの復興、そして王立軍の再編成に追われていたため、インドから多くの富を吸い上げた。
 これだけでもインド経済にとっては大打撃であったが、これに異常気象と巨大サイクロンの相次ぐ上陸がインド経済を更に疲弊させ、イギリスのインド統治を破綻させていた。軍事的にも、経済的にもインドを維持する余裕を失いつつあったイギリスの力ではインドの混乱を収束させるのはもはや不可能な状態だ。
 そしてイギリスの急速な衰えは、これまで抑え込まれていた諸問題を顕在化させつつあり、インドの住民を一致団結させることを困難なものにしつつある。
 加えて、大西洋大津波という史上稀に見る大災害と異常気象によってもたらされた多大な被害が心理的に大きな影響を与えている。
 信心深い者の中には世界の半分が飢餓と災害で埋め尽くされつつある状況に、世界の終末が訪れたと考える者が急増。そうでない者も、浮足立っており平時では考えられないような行動をとる者が大勢いる。

「被災地の支援は?」
「以前と変わらず低調です」

 インド南部も巨大サイクロンの直撃を受けて多大なダメージを受けており、東部にだけ構っていられる余裕はインド側にはないことも支援を少なくした。イギリスも宗主国として支援は行っているが、その量は東部が欲する量には達しない。
 さらに頭が痛いことにインド内部ではバングラデシュとして独立する地域(それもイスラム教徒が多数住む地域)については、支援する必要はないと言う声まで出始める始末。これらが更に対立を煽っているのは言うまでもない。
 そして対立が深まれば深まるほど、復興は困難なものとなっていく。高騰する食糧、進まぬ復興によって社会は不安定なものとなっている。

(……あの無謀な作戦で日本兵が作った白骨街道はなくなったが、その分、別の事象が現れたということか?)

 インパールで死んだ日本将兵の数倍どころか数十倍、数百倍と言ってもよい人間が飢えに苦しんでいるという状況は、歴史を変えてきた人間に色々と考えさせるものだった。
 まして『彼』はインドから流れ込んでくるであろう難民から東南アジアを守るために、『ビルマ』に防衛線を敷く仕事をしているのだ。皮肉にもほどがある。

「そして国民議会が事態を収拾できる見込みは相変わらずない、か」
「はい。ただ気になる情報があります」
「何だね?」
「『国民議会は日本が主催する環太平洋諸国会議にオブザーバーとして自国外交官を出席させようと考えている』との情報が入っています」

 インドは内戦寸前。これは誰の目にも明らかだ。当事者たちもそれを理解している。故に彼らが祖国の崩壊を食い止める策を練るのは当然の帰結だ。
 そして、追い詰められているであろう彼らが採るであろう『策』を予期した木村は顔をしかめた。

「環太平洋諸国会議で自国の窮乏ぶりを明らかにし、各国に支援を訴える、と」

 日本側にとって頭が痛いことに、今のインド側にはこれまで日本に留学したり、亡命していた独立派のインド人が多数いる。彼らが日本に住んでいた時に築いたコネクションを使って日本に対して働きかけを行うことが出来る。そして情にほだされて動く人間がいないとは限らない。
 しかし木村はそんな人間がいたとしても、夢幻会上層部はそんな人間たちとインド政府によるプロパガンダによる効果を最小限にするべく動くだろうとも思っている。

(下手にインドを救え、などと言って国民が盛り上がったら面倒だからな……)

 夢幻会は移ろいやすい国民感情に従って国政を動かすつもりはないが、国民感情を無視することも出来なかった。
 かの対米戦争であれだけ徹底的にアメリカを叩いたのは、夢幻会がアメリカによる復讐戦を恐れていたことに加え、戦前の米中の行動に国民が激怒していたからだ。その状況でアメリカとの戦争に勝ち目が見えてきたのだから、夢幻会と言えども、生温い和平をアメリカと結ぶことは困難だった。
 政府にとって国民感情というのは、国策のために『適切』に利用するべきものではあった。それが故に国益に反する国民感情が高まっては堪らない。
 特に今回のようにインドという底なし沼への突撃を煽るような世論など、百害あって一利なし……それが夢幻会の結論でもある。

「外国に大盤振る舞いをする余裕などありません。帝国にはまだまだ整備しなければならないものがあります」

 辻は知り合いにそう言って憚らない。実際、彼は関係省庁と手を組んで、高速鉄道網整備と並行して帝都の玄関として成田空港の建設計画を進めている。
 列強筆頭、そして太平洋の覇者になった以上、来日する人間は増える。今は防疫のために外国との行き来は制限されているが、いずれは国際空港が必要となると辻は考えていたのだ。
 そして好景気に沸く日本人には、これらの大型プロジェクトはより明るい未来を思わせるものであった。尤もそんな未来予想と現在の好況が、日本人を強気にさせているのだが……。

「何はともあれ、今のインドは『魔女の大釜』と言っても過言ではない状況だ。溺れる者は藁をもつかむと言う。まして溺れる者にとっては藁ではなく救命ボートと思えるものなら、何とかしがみ付こうとするするだろう」

 しかし、しがみ付かれる側からすれば堪ったものではない。露骨に見捨てたと思われない程度の支援はやむを得ないだろうが、本格的な肩入れは論外だった。

「そもそもイギリスがインドの動きを追認するでしょうか?」

 ビルマ方面軍地上部隊の主力を担う第18師団師団長・中永太郎中将はそう疑問を呈するが、木村は「認めるだろう」と返す。

「イギリス人はインドを引き払うつもりだ。それなら面倒事を帝国に押し付けようと考えてもおかしくはない」

 この言葉を聞いた陸軍将校たちの一部は口の中で「また物乞い似非紳士共の尻拭いか」と吐き捨てた。かなり口汚いが、それでも表に出さないだけ彼らはマシだった。反英感情が根強い海軍ならば聞くに耐えない罵詈雑言が将校の口から飛び出してもおかしくないからだ。

「では最悪の場合、インドへの進駐もありえる、と?」
「『最悪の場合』、はそうだろう。まぁ政府もチッタゴンの確保が予想以上に面倒なことになることを理解し始めているようだから、『容易』にそんな決断は下さないだろう」

 海軍は混乱するであろうインド洋でにらみを利かせるための拠点を欲して要港であるチッタゴン港を欲していた。
 しかしチッタゴンを含む一帯もサイクロンによって多大な被害を蒙っており、周辺地域の治安維持も想定以上に労力を必要となっていた。ベンガル地方では衛生環境の悪化と栄養不足から疫病まで流行っている。場合によってはペストの大流行もありえると考えられていた。
 古賀海軍軍令部総長でさえチッタゴンを使うという選択肢を捨てることを考慮していた。テ号作戦ではいくつかのケースを想定していたため、チッタゴン港が使えなくなっても作戦が頓挫することはない。ただし難易度は変わる。故に日本側は難易度を何とか下げようと動いていた。

(安定したラングーン港、そしてイギリスと交渉してセクター軍港を我々が使えるようになれば何とかなる。何はともあれ、底なし沼に足を突っ込むことだけは回避しなければならない)

 イギリスは東南アジアからの撤退を表明し、各地の植民地を独立させたものの、権益を同時に全て手放すことはしなかった。シンガポールのセクター軍港もそのうちの一つだ。尤もイギリスはいずれ手放さざるを得ないと考えており、その取扱いについては日本と協議している。
 日本海軍としてはインド内戦を奇禍として、この問題を一気に解決しようと考えていた。

「北米も決して無視できないのは判るが……もう少し兵力を回してくれれば、選択肢も増えるのだが」

 木村は誰にも聞こえないほどの小声でそう零した。
 ビルマ方面軍を預かる人間としては兵力の増強を願うのは当然だったが、北アメリカの情勢は良い状態と言えるものではない以上、それが無いものねだりであることを彼はよく理解していた。
 日本が影響下に置く北米西岸は比較的安寧を享受しているものの、戦前のアメリカの精神と文化を受け継いでいる西海岸を目指す者は後を絶たず、更にテキサス共和国が北米西岸諸国を敵視している手前、カリフォルニア共和国はその対策に少なくない国力を注ぎ込まざるを得ない。当然、カリフォルニア共和国の宗主国である日本は、カリフォルニアが倒れないように支援を実施せざるを得ない。
 それと並行して日本は旧アメリカ東部地域での滅菌作戦やカナダ支援、アラスカ防衛のために国力を投じていた。とりあえずメキシコを気にしなくて済むようになったおかげで海軍はハワイに展開させていた艦隊を下げたものの、それでも日本側の負担が少ないとは言えない。
 このため日本が東南アジアに展開できる兵力には相応の縛りがつく。

(大西洋大津波は確かにあの時の日本にとっては神風だったが……長期的にみると、どう転ぶことか……我々が歴史に干渉した影響がバタフライ効果で自然災害にまで影響を与えたと言うなら、あの津波は我々が引き起こしたことに他ならない。ならば更なる大災害が起きても不思議では……)

 木村は冷や汗が背中を流れていったのを感じた。だがその直後、嫌な予感を振りほどくように、木村は強い口調で言い放つ。

「……いずれにせよ、我々はビルマの地を守らなければならない。ここにいる臣民、同盟国国民を見捨てることは絶対にできない。今後もインド情勢は悪化を続けるだろうが、それに動じることなく職務を遂行してほしい」

 日本外務省が『外交』の復活の切っ掛けとしようと提唱した環太平洋諸国会議。
 それは様々な勢力の思惑によって新たな策謀の場となろうとしていた。






 あとがき
 提督たちの憂鬱外伝戦後編21をお送りしました。
 今回は難産でした……環太平洋諸国会議開催前の一幕といったところでしょうか。
 久しぶりの南雲さんの出番でした……でも相変わらず幸薄なのはなぜだろうか……。
 拙作にもかかわらず最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
 戦後編22でお会いしましょう。





 今回採用させていただいた兵器のスペックです。

陽炎型駆逐艦
基準排水量:2.900t
全長:134.5m 全幅:12.8m
機関:2基2軸75,000hp 最大速力:35kt  航続性能:18kt/6,000浬
45口径12.7cm高角砲  連装3基(砲塔型 前部1基、後部2基)
50口径76mm両用砲   単装4基(左右両舷各2基づつ)
61cm魚雷発射管   4連装2基(酸素魚雷、急速次発装填装置)
スキッド 1基


松型護衛駆逐艦 
基準排水量=1,500t
全長=105.0m 全幅=10.0m
主機出力=艦本式タービン1基1軸・20,000HP
最大速力=26.5kt   航続距離=14kt/5,000浬
武装
50口径76mm両用砲    連装 3基(前部1基。後部2基 砲架式)
エリコン20mm連装機関砲 4基(片舷2基づつ)
スキッド 2基
ヘッジホッグ 1基