環太平洋諸国会議。
 それは軍に押され気味の日本の外務官僚たちが吉田茂を筆頭とした一派と手を組み、外務省の存在感と『外交』の復活を目指すために提案した国際会議であった。
 日本国民の間では、日本を頂点とした環太平洋地域の秩序を喧伝するための会議と捉えられていたが、提案者たちのみならず、表向き強硬派で知られた嶋田でさえ、この会議には期待を寄せていた。

「このまま今の外交(物理)が定着したら、後々大変なことになる」

 嶋田は軍人ではあったが、今や政治家でもあった。故に彼は戦争が政治、外交の延長であることをよく理解していた。
 表向き強硬派の首魁であるため、嶋田は「皇軍の威光によって欧州列強の植民地が解放され、新秩序が構築されつつあることを世界に示す会議だ」と言って軍部の存在感をアピールしているものの、外務省に対して可能な限りの配慮と支援を実施していた。
 この実態を知っている者たちの中で、外務省を軽く見る者には「外務省の役人は、外国との交渉は下手でも、自国の政治家との交渉は得意のようだ」と皮肉を口にし、対外強硬路線を支持する新聞社は「この会議でも失態を晒すようなら、外務省は解体して人員と予算を軍や情報局に振り当てるべき」などと主張している。
 そして夢幻会にとって更に頭が痛いのは、この会議に賛同しつつも「諸国会議において帝国は、東南アジア住民の皇民化政策を主張するべき」などと論評する新聞社さえあり、一部の国民も「善意」からそれに賛意を示す者がいることだった。
 皇民化政策に賛成する一般人は「彼らが日本と同じようになれば、彼らも1世紀も経たずに先進国になる」と考え、それが住民たちのためになると信じていたのだ。その手の人間は現地の言語や宗教、風習を尊重する嶋田内閣の手法については「植民地化を招いた原因を残すことで東南アジアを真の意味で自立させず、保護国にとどめるためだろう」との見方さえしている。
 嶋田は首相官邸の執務室を訪れた山本にそんな情勢をまとめた報告書を見せた。疲れた顔をした嶋田から渡された報告書をソファーの上で一通り読むと山本は苦笑する。

「これで大和型戦艦、稲荷計画、トランジスタの存在を公表したら、ますます調子に乗る輩が増える。統制には苦労するな」
「……まぁ弱いと思われるよりは良いさ。そうだろう、海相? 疾風が完勝した後、帝国の威信はより高まった。上奏した際に、陛下もお喜びになった」

 まるで自分を言い聞かせるように言う嶋田。
 イラン演習後に嶋田は模擬戦の結果を陛下に上奏した。この際、陛下は確かにこの勝利をお喜びになった。だが、それだけでも無かった。

「陛下は我が国が強硬路線に傾くことを危惧されていると聞くぞ? 何しろ貴様は表向きタカ派だからな。支持者に引き摺られることを懸念されているのだろう」
「大丈夫だ。陛下の御心に背くつもりはない。それに、今は勢力圏の再編に力を注ぐべきときだ……だがそれを理解していない、いや軍事力を過信する輩が多いのは問題だが」

 仕事机に座った嶋田は軽く溜息をついた。何しろ軍拡を主張している政治家は少なくない。特に選挙で敗北した野党側は、軍拡を主張することで存在感をアピールしようと必死だった。核搭載機を運用できる超大鳳型の建造を主張する者もいれば、富嶽をジェット化した超重爆の開発を主張する者もいる。
 そして嶋田にとって頭が痛いのは、超大鳳型も、富嶽を超える超重爆も『絶対に不可能ではない』ということだった。

「まぁ梅雨開けと一緒に、この手の面倒事も消えてくれればいいのだが……まぁ無理だろうな」

 そう呟いた嶋田は椅子の向きをかえ、窓の外に視線を向ける。
 6月に入り、日本列島は梅雨入りした。そのためか、連日、帝都東京には雨が降っていた。そして今日はひときわ強い雨が降り注いでいる。

「とりあえず、国民は飢餓を撲滅できる稲荷計画に期待して当面の穏健路線を支持するだろう。そのまま平和の配当に満足すればいいが……」

 国民はよりよい明日を願う。
 それは当然のことだ。誰も貧乏に、不幸になどなりたくない。そんなことを思うのは破滅願望の持ち主だけだ。

(だが人間の欲望は果てしない。腹いっぱい食べれるようになったら、今度はもっと美味しい物を食べたくなる。それが満たされれば次の欲望に目がいく。だが全ての人間が満たされることはない。まぁ身の丈を知った生き方をする者もいるが、そういう人間が多数派でないために、争いが生まれ、それを調停するための政治がある訳だが……)

 今後の起こり得る面倒事を予想した嶋田は軽く溜息をついた。いや一連の情報公開は会合で決めたものだったため、彼としても今更蒸し返すつもりはない。
 それでも面倒事を前にして「多少は楽をさせて欲しいものだ」と思う時はある。彼とて人間なのだ。そして好き好んで困難な道を突き進むような、特殊な嗜好も持ち合わせていないのだ。

「平和の配当にありつけないのは軍だ。むしろ割を食う。軍縮で将官の席が減るからな。不満を持つ人間はいる。実際、俺もその手の話は耳にする」

 山本の台詞に、嶋田は少し顔をしかめる。何しろその手の人間を相手にしているのは他ならぬ彼だからだ。

「軍縮と言っても戦前の規模からすれば十分に軍拡だぞ。戦時中に肥大化した軍をそのまま維持できると思っている奴がいるなら、再教育だな。だいたい、人がどれだけ苦労して予算を大蔵省に認めさせていると思っているんだ。全く、畏れ多くも一連の災害で被害を受けた臣民に対する配慮を行うようにと、陛下が仰られているというのに」

 嶋田の言う通り、畏れ多くも陛下は各地で頻発する災害を憂慮されており、その対処を嶋田総理に厳命されているのは周知の事実だ。
 そして対米戦争で圧勝し、戦後秩序を構築した嶋田元帥の発言力は大きい。加えて疾風開発を主導したという実績もあり、海相と軍令部総長を辞した今でも、海軍に対する影響力は絶大だった。「宮様の腰巾着」などと陰口を叩いていた人間さえも、彼の実績の前には沈黙せざるを得ないのが現状だ。
 だからこそ、著しく発言力が増した軍をうまく宥めて、軍縮にかじを切ることができたとも言える。
 尤も軍縮と言っても、嶋田の言う通り、戦後の帝国の版図を守るために陸海軍の規模は戦前を上回るものとなる。海軍では戦艦の数こそ減少するものの、世界最大の大和型戦艦の建造計画を進めている。勿論、向上するのは規模だけではない。新兵器や新たなドクトリンの開発にも余念はなく質の面の向上も進められている。
 そして退役する将校に対しても、嶋田は可能な限り細やかな配慮を心掛けていた。少なくとも退役軍人が路頭に迷わないように経済界に働きかけている。
 要するに嶋田は肥大化した軍の縮小を飴と鞭を使い分けつつ進められていたのだ。夢幻会が強権をもって推し進めればもっと迅速に進めることもできたのだが、彼らは至って慎重にことを進めていた。当然、その分だけ関係者の負担は大きいが。

「やれやれ、政治家になんぞ、なるものじゃないな。全く、(表向き)軍務に専念できた昔が羨ましい」

 「だから俺は政治家になりたくなかったんだ。ああ、あのとき引退していれば……」と等と内心でぼやく嶋田。だがそれを聞いていた山本は思わず笑う。

「おいおい、貴様がそれを言うか?」

 山本は茶化すように尋ねる。
 何しろ、今の嶋田は武人よりも軍政家、政治家としての才能を評価されていた。一部の人間は山本権兵衛の再来とまで賞賛しているのだから、どのような評価が行われているかが分かる。

「俺のような小心者には、身の丈に合った生き方というものがあるのさ」
「ここまで持ち上げられたら多少は浮かれるが……全く、貴様は」
「歴史を見れば、図に乗って天狗になり、転落した人間など幾らでもいる。少なくとも、俺はそんな汚名を残したくはない」

 それは嶋田繁太郎として生きることになった『神崎博之』が願ったこと。
 だが、それは言えない。

「……それに俺は偉くなり過ぎた。身の丈に合わない地位を手に入れ、今や世界を動かしうる立場にある。そんな人間が調子に乗って失敗すれば、どれだけの人間を不幸にするかわかったものではない」

 「同じ過ちは繰り返したくない」、嶋田はその台詞を喉元で押しとどめる。そんな嶋田を見ていた山本は軽く溜息をつく。

(夢幻会の人間、特に会合に出れる人間は謙虚なのか、それとも自己評価が低いのか……あれだけの先進的な構想を実現できたのだ。十分に誇るべきだろうに)

 夢幻会の功績を知れば知るほど、山本は夢幻会の人間が「まるで正解を知っていた」かのように感じられた。
 当然、山本はその事実を知らない。だが村中少将から提供された資料、会合で交わした会話などから、そんな感覚にとらわれていた。
 かと言って正解を予見していたことだけを山本は評価していない。むしろ、当時の人間からすれば突拍子もないその正解に向けて、周りを巻き込み、最終的に国益をもたらすことができた手腕を評価していた。
 日本帝国海軍に大勝利をもたらした航空主兵も、その威力がはっきりするまでは疑問視する者も多かった。故に伏見宮の後援を受けていたとは言え、その航空主兵への転換を強力に後押しし、最終的に日本に大勝利をもたらした嶋田の功績は世界の海軍史に特筆されるに値することだ。

(夢幻会はすでに日本の一政治組織ではない。彼らは日本を支える支柱であり、世界のバランスに影響を与える巨大な存在なのだ。彼らの動きは列強の注目の的であり、その動きが少しでも洩れれば、途方もない波紋を広げる。その彼らが驕っていないのは頼もしいが……その自己評価の低さはどうにかするべきでは? 夢幻会が思っている以上に、諸国は夢幻会の能力を評価していると思うぞ)

 山本の危惧通り、世界は大日本帝国の中枢に対して並々ならぬ関心を抱いていた。
 その実績とその影響力が絶大であるが故に。
 当然、夢幻会も自分たちが注目されていることは理解している。だが彼らは白人に非ざる民族が打ち立てた帝国が、大戦で独り勝ちし、世界の頂に立ったという事実が如何に重視され、その功労者が如何に思われているかまでは完全に把握していなかった。
 そして、それが当人たちの想像を遥かに超えるものであったことを彼らはまだ知らない。




          提督たちの憂鬱外伝 戦後編20




 大日本帝国。
 大西洋大津波で多大な被害を受けず、アメリカと中華民国という二大国を打倒したことで太平洋をその影響下に収め、列強筆頭にまで上り詰めた新興の帝国。
 帝国臣民たる日本人は、そのことを誇りに思うと同時に、平和の配当を謳歌していた。欧州やアフリカ、北アメリカ大陸で食糧難に苦しむ人々が大勢いる傍ら、この国の住民たちは政府の適切な異常気象対策と支那大陸、オーストラリアからの食糧輸入で飢えに苦しむことはなく、食糧以外の生活物資も不足することはなかった。
 ただ飢えなくても、相次ぐ異常気象で戦前よりも食糧事情は悪い。この余波でメニューの値段が少しあがった居酒屋では仕事帰りの会社員たちが、値段に多少愚痴を言いつつも酒を片手に平和を堪能していた。カウンター席に座った男たちは、コップに注がれた冷酒を飲み干して思い思いに口を開く。

「ようやく平和になった。でも食い物の値段がまだ高いのは嫌だな」
「仕方ないさ。それにその異常気象の原因になった津波のおかげで、大勢の若者が生きて帰れるんだ。不満を言ったら、罰が当たるぜ」
「そうだな。俺の親戚も喜んでたよ。大陸に出征した奴には戦死したのもいるからな」
「むしろ欧州戦線で受けた被害のほうが多いとか言われているからな。全く、あの恩知らずの、クソッタレの裏切り者共め……」
「胸糞が悪くなる話はやめようぜ。それにあの連中にはインド洋で意趣返しをしてやったじゃないか」
「ああ。あの誇りだけは高いイギリス人と差別主義者のドイツ人の鼻っ面を叩き折れたからな。全く海軍様様だ」

 一般人にとってはイギリスは恩知らずの裏切り者で、ドイツ人は第一次大戦以来の仇敵。故に両者の鼻っ面をたたき折った海軍には賞賛を惜しまない。

「それにしても、戦前の抑圧された空気も払しょくされて万々歳だ。うちの会社はアメリカがつぶれたおかげで一時期大変だったが、政府の支援、新領土開発や内需の急速な拡大で何とかなりそうだ。それに大きな声で言えないが、日ソ貿易もかなり利益がでるらしい。来年の賞与は期待できそうだ」
「それはめでたいな。そう言えば、例の変わった名前の会社、ああソニーだったか。あの会社は新市場を求めてタイ王国に出向いたらしいぞ」
「俺の聞いた話だと、カナダのほうでも色々と動いている企業があるらしい。竹中、いや田中だったけ。そんな名前の社長が頑張っているらしい」
「へえ。何はともあれ活発なのはいいことさ」

 そう言って男は鳥の串焼きに齧り付く。

「あ、美味い。全く、これくらいの息抜きがないとやってられないぜ。嫁は新しい家電製品を買いたいとか言うし」
「新しいテレビも出るって話もあるな」
「ああ。ますます便利になるらしい」
「太平洋全域で円決済ができるようになったし、正直、夢みたいだ」
「いや、インド洋の半分も、あの演習で日本の影響下に入ったようなものだ。いずれは中東だって円決済できるかも知れない」
「遠からず、そうなるだろうさ」

 中東で円決済ができるということは、中東が日本勢力圏に収まることを意味するのだが……彼らはそれを遠くない将来にあり得ることと思っていた。
 そしてそれをドイツやイギリスが阻むことなど出来ないとも。

「ナチも、裏切り者も頼りにならないと悟ったら、どんな連中だって日本の傘下に収まる。ソ連だっていずれは共産主義の看板を降ろすだろうよ」
「まぁ今は天災対策が急務だからな。政府が言うように、手を伸ばし過ぎて、御膝元が留守になったら共産主義者に良いようにやられたアメリカの二の舞だし」

 日本人にとってはまさに我が世の春。
 多少、物価が上がって苦労するときもあるが、それとて他国に比べれば苦労の内には入らない。そのことを国民の多くはよく理解していた。
 尤もそんな光景を複雑そうな顔で見る日本人もいた。

「畜生……どうしてこんなことに」

 隅の席で独り嘆いている男がいた。彼の名は紺野与次郎。共産主義者として投獄され、去年ようやく釈放された男は共産主義の凋落を大いに嘆いていた。
 戦前の内務省主導による徹底した取り締まりと『共産主義=世界を滅ぼす危険思想』という風評によって、日本の共産主義勢力は壊滅していた。
 共産主義者は多くが社会主義路線に転向しており、もはや日本における革命は不可能な状態と言ってよい。それどころか、世界各地で共産主義勢力は掃討されつつあった。これまで共産主義に対して憧れを抱いていた学生でさえ、あのアメリカ風邪を悪用しようとしたという話で離反者が相次いだ。
 筋金入りの共産シンパは「悪いのはスターリンで、共産主義者ではない」と言っていたが、それに耳を貸す者は明らかに少なかった。何しろソ連は支那や朝鮮から連れてきた人間に強制労働を課しており、それがますます共産主義への憧れを打ち砕いていた。
 そして追い詰められた共産シンパはますます先鋭化し、それがますます支持者離れを加速させた。

「俺も一旦、ソ連に渡るか……」

 ソ連共産党は迫害される共産シンパを守るという名目で日本国内の共産主義者をソ連に脱出させていた。
 実際にはこの表向きの理由に加え、『現状』で先鋭化した共産シンパがテロでもしたら色々な意味で大事になるので、そのような事態を防ぐためという理由もあった。

「今は雌伏の時だ」

 ベリヤはそう決断して、日本領内や日本租界で共産テロが起きないように手を打っていた。
 だがそれは彼にとって日本に屈することを意味する者ではない。いずれ、ソ連が体勢を立て直した際には『保護』した彼らを尖兵にするつもりでいた。
 当然、これらの動きは阿部内相も知るところであったが、彼は敢えて共産主義者の残党がソ連に逃げ出すのを邪魔しなかった。

「大した情報や罪状を持っていないアカ共の残党が日本から逃げ出したいのなら、そうさせてやれ。日本国内に残るであろう隠れシンパや各国の間諜の摘発に注力する」

 内務省の大臣室の机で報告書を読み終えた阿部は、部下たちを前でそう言い切った。

「宜しいのですか?」
「後藤田君、君も知っているだろう? あのイラン演習以来、モグラ共が増えたことを。目に見えない連中への対処が優先される。あの手の連中に機密情報を盗み出されては大事だ。特に原子力関係の情報は秘匿しなければならん。帝国の今の優位を維持するためにも」

 実際、阿部の言う通り日本国内における列強との諜報戦は激しさを増している。
 日々行われる列強による合法、非合法問わない情報収集活動の全容は、内務省も完全につかめるものではなかった。暗号解読によって列強の情報のやり取りについては掴んでいるものの、内務省上層部は暗号解読で得られたものが全てではないと判断し、警戒を緩めていない。尤も暗号解読で列強の情報をある程度入手できているのは大きなメリットだった。何しろ暗号解読で得たものの中には、明らかに自国から流出したものと思われる情報もあった。少なくとも情報が流出したと認識できないままよりは遥かにマシだった。

(それにしても旧ロシア帝国の秘密警察のノウハウを入手できてよかった。これが無かったら、もっと防諜はザルだった)

 阿部は旧ロシア帝国の遺産に感謝した。

(しかしトランジスタ式電子計算機の公表で、こちらが暗号を解読していたと彼らが理解すれば今の手も使えなくなるだろう。それは惜しいが……まぁこれ以上、変な誤解を受ける訳にもいかない。少なくとも大戦前から計算機が活用されていると知れば、彼らも我々にとって都合がよいように誤解してくれるだろうし)

 トランジスタを民間に公表するのは、単に経済的問題だけではない。
 日本に対して胡乱気な視線を向ける欧州の人間に対し、『日本はこれまで高度で高性能な計算機を政策や技術開発に活用していた』と思わせるためでもある。

「ドイツ人、イギリス人、それにロシア人。ああ、我が国の傘下にある国の中にも、我が国の情報収集に熱心な連中がいる。全く、国家に真の友人はなく、あるのは永遠の国益のみというが……全く、『友好国』すら監視しなくてはならないとは嘆かわしい。そうは思わないかね?」

 白々しく言う阿部。
 何しろ日本の国益を確保するために、日本も友好国に多数の間諜を送り込んでいるのだ。それを考えるとどっちもどっちと言える。

「まことに嘆かわしいことです。故に友好の証として、彼らにとって『有益』になる情報源を与えるというのは? 幸い、我々には心当たりがありますが」

 後藤田はシレっと「警察(内務省)側でも罠を用意できますが」と阿部に提案する。
 アカ撲滅で活躍し、阿部内相から目をかけてもらっているとされる後藤田正晴の反応を見た阿部は満足した。

(ふむ、素早く切り返すだけでなく売り込みも図るとは。色々な分野で経験を積んでもらえれば、将来は大物になるな。さすが史実の傑物、いや傑物の卵、か)

 阿部は頷く。

「そうだな。候補者について後で書類で回してくれ」
「はい」

 阿部は後藤田から視線を外し、部下たちを見渡しながら言い放つ。

「諸君、戦争は終わった。あの暑すぎた戦争の夏は終わった。残暑は厳しいが、夏は終わり、我々が主役を張る季節がきた。ここで失態を晒せば、内務省の鼎の軽重を問われるだけにとどまらず、帝国の存亡すら揺るがしかねない。我らは、我らの義務を果たさなければならない」





 阿部が危惧するように、日本の後を追う列強諸国は日本国内にスパイ網を構築しようと必死だった。
 特にイランで大恥をかいたドイツでは、ヒトラーの強い意向もあって日本に対する情報収集活動の強化が決定された。

「確かにゲーリングの責任は大きい。だがあのような戦闘機の存在を掴めなかった情報部の責任を見逃すつもりはない」

 ヒトラーは海軍航空隊の編成を進める一方で、国防軍情報部部長のカナリス提督を総統官邸に呼び出して厳しく叱責した。
 もともと、カナリスにはヒトラー政権に対する反感が見え隠れしていたため、ヒトラーはこれを機にカナリスを排除したかったが、表向き、ゲーリングを解任していない手前、カナリスだけを解任することは出来なかった。勿論、カナリスが疾風の情報を掴んでいて、それを握りつぶしていたのなら話は別だったが、少なくともカナリスがそのようなことをしたという証拠をヒトラーは掴むことができなかった。

「次はない、と思いたまえ」

 カナリスが厳しく叱責されるのを傍で見ていたSD国外諜報局局長ヴァルター・シェレンベルクはヒトラーの怒りが収まるのを見て切り出す。

「総統、我が国が日本において情報収集を行うのに、不利な点があります」
「何だね?」
「はい。残念ながら日本人は見た目は黄色人種であります。このため白人、特に我々アーリア系は目立ちます。更にかの国にはドイツ系市民が少なく、現地協力者を確保することが著しく困難であります」

 旧アメリカ合衆国において、ドイツはドイツ系アメリカ人を活用して一大スパイ網を構築し、多くの成果を得ていた。
 尤も、その努力はあの大西洋大津波とアメリカ風邪によって無に帰したが……。

「ふむ……ではどうする?」
「日本は中国大陸に獲得した新領土にポーランド人、フランス人、ユダヤ人の自治都市を作る計画を進めています。これを利用します」
「亡命者という形で、白人のスパイを送り込む、と?」
「はい。日本人は、たとえドイツ人であっても自国に利益をもたらすなら厚遇で迎えています。根を張るのに時間が掛かりますが有効的な手だと思われます」

 自国に帰りたがらないドイツ人技術者を思い出し、ヒトラーは不機嫌そうな顔をするものの、シュレンベルクの意見に頷く。

「反対する理由はないな。そうは思わないかね、カナリス大将?」

 これまでのヒトラーやナチスの人間の手法の多くに嫌悪を抱くカナリスであったが、シュレンベルクの意見に反対する理由はなかった。
 反対意見がないと見たシュレンベルクは、送り込む人間について提案を行う。

「特にポーランドは戦前から日本の友好国ですので、ポーランド出身の亡命者を受け入れやすいでしょう」
「……忌々しいことだが、そのとおりだろう」

 ヒトラーからすれば、ポーランドというのは名前どころか歴史そのものを抹殺してしまいたい存在であった。一般のドイツ人でもポーランドに好感を持つ者は少数だった。そんな存在と極東の帝国が友好国であるというのが、ヒトラーだけではなく、多くのドイツ人にとっては苛立たしいことであり、日本に対する反発を呼ぶ原因の一つでもあった。

(そもそも、自由ポーランド政府を未だに擁護し、更に自治都市を与えるだと? 我々への当て擦りではないか……いや、それを利用できるなら意趣返しになるか)

 そう考えたヒトラーは機嫌を直す。

「早速実施したまえ」

 しかし話はそこで終わらない。

「しかしここまで良いようにやられて黙っている訳にもいかん。何かしらの反撃は必要だ」

 「反撃も何も、最初に日本に挑戦状を送りつけたのは我が国ですが……」とカナリスとシュレンベルクは思ったが、二人とも独裁者を相手にそのような台詞を口にするような愚か者ではなかった。

「反撃ですか?」

 カナリスが恐る恐るといった感じで尋ねた。

「日本側は対ソ政策で協調したいと伝えてきたと聞きますが?」

 ヒトラーはそんなカナリスの様子を見て不可解そうな顔をして言い放つ。

「たとえ対ソ政策で協調すると言っても、このままでは主導権を完全に奪われる。それに……このままでは我がドイツは諸外国から軽く見られるだけだ」
(それは伍長が軍事力で強引に勢力圏を拡大したツケでしょうに)

 カナリスの呟きどおり、欧州の覇者となったドイツの権威を支えているのは強大な軍事力であった。
 陸軍大国であったフランスを短期間で叩き潰し、海軍大国であったイギリスを苦しめ、そして世界最大の陸軍国であったソビエトでさえ瓦解寸前に追いやった。
 先の大戦での敗北から不死鳥のように蘇り、周辺国を蹂躙する鋼の軍隊。それがドイツ軍のイメージであった。だが、先のイラン演習はその印象を吹き飛ばした。

「海で負け、空でも負ける……実は陸でも負けるのでは?」

 そんな声さえ挙がるのだから、事態は深刻だった。
 実際に日本が富嶽を使って核兵器を戦術的に使用すれば、陸戦でも完敗する可能性はあった。何しろ司令部などを片っ端から吹き飛ばされたら戦争どころではない。指揮中枢を消滅させられ、烏合の衆になった部隊に疾風や烈風改の護衛を受けた爆撃機が襲い掛かり、その直後に日本陸軍が戦車師団を前面に押し立てて突撃してくるというのはドイツ側からすれば悪夢であった。
 嶋田あたりが聞いたら「そんなに気軽に核を使えるか」と返すところだが、日本と競い合う立場にいる国々からすれば『その可能性』を考慮しなければならなかった。

「イタリアに期待する声さえある。これ以上、あの国の地位を高めるつもりはない。欧州枢軸の盟主は我がドイツなのだ」

 仮に盟主が頼りにならないとすれば、欧州枢軸は分裂、崩壊する危険さえある。そうならなかったとしても北欧で夜な夜な行われる日本華族との晩餐会や、嶋田元帥がかつてイタリアに赴任した際に生まれたコネクションを通じて日本との交渉ルートを構築中との噂があるイタリアが欧州で更なる地位を高めることになりかねない。

(日本との独自ルートを築いた上で、日本の先端技術を輸入することも狙っている筈だ。もしもそれが成功すれば……)

 ヒトラーにとって欧州枢軸とはあくまでドイツを頂点、軸とした欧州新秩序なのだ。
 その欧州筆頭の地位がむざむざと別の国にとって代わられ、ドイツが没落する位なら……ヒトラーは戦争すら辞さないつもりだった。たとえ何百万人が死んでも構わない。それが彼の考えだった。まぁ極東の某帝国には「我らの邪魔をするなら如何なる人間も排除する(意訳)」等と言って、実際に地球人類の1割(2億人)以上を伸るか反るかの大博打で抹殺してのけた集団がいるので……彼らよりはソフトな考え方とも言える。

「空母の建造計画と海軍航空隊の編成を進めているが……それだけでは足りん」

 ヒトラーは何かよいアイデアを捻りだそうとするかのように部屋を歩き回り、壁に張られる世界地図の前で立ち止まる。
 そしてその視線は極東の弧状列島に向けられる。

(軍事力に頼る方法は無理。だとすればあとは外交、謀略か……だがそこまで派手な効果は)

 ドイツ空軍最新鋭にして、最精鋭のジェット戦闘機部隊が完膚なきまでに敗北したというニュースは国内向けに報道するのも憚られた。
 いつまでも隠し通す訳にはいかないため、小出しに、そして多少の脚色をして情報を開示しているものの、自信満々に戦いを挑んで返り討ちにあったという事実は変わらない。まして富嶽に対する切り札が早々に失われたことは、国民に大きな衝撃を与えた。
 このためヒトラーは何かしらの派手な成果を求めた。いや、派手に宣伝できる『何か』を政治家として、ドイツの国家元首として欲していた。
 しかし現実は非情であり、妙手はそう簡単に思いつかない。

「……日本国内で我が国に有益な情報を売りそうな人間は? 現首相によって失脚させられた人間は少なくないだろう」

 カナリスは首を横に振る。

「残念ながら。日米開戦直前に左遷され不満を抱く将校の多くは戦後予備役送りになりました。政府、軍主流派は先の大戦で大勝利を収めたことでその地位を盤石なものとしています。加えて日本政府は極めて慎重に軍の再編を進めているようで、付け入る隙がありません」
「ぐぬぬ(またしても夢幻会か)」

 強権をもって夢幻会がごり押しで政策を進めていたなら、反発も相応に生まれ、列強が付け入る隙が大きくなる。
 しかし戦後になり夢幻会は、ことを極めて慎重に進めるようになっていた。「史実知識が通用しない以上、慎重に動かなければ」という意識が夢幻会の人間に生まれたのがその原因であったが、そんな事情を他国の人間が知る由もない。
 また夢幻会と権力闘争に敗れた者の内、復権のために不穏な企みをした人間は容赦のない措置が行われた。軍縮の名の下、この手の将校のパージも進められている。かと言って弾圧するだけでは不満を抱かせるため、軍上層部は辻や近衛と協力して一部の者には天下り先(夢幻会の影響下)を用意するなど十分な飴も用意していた。

「リストラするにせよ、パラシュートを用意しておけば反発も少ない。それに……パラシュートの質に差をつけることで、連中の団結を防ぐことも出来る」

 永田陸相と共に軍の再編を進める杉山は、総長室でそう嘯いていた。
 かといってパラシュートで降ろした者たちを放し飼いにすることを是とする嶋田や杉山ではなかった。彼らは情報局や内務省とも協力して不穏分子になり得る者については監視をつけていた。そのことを薄々ながら察知しているため、カナリスはヒトラーに対して否定の言葉を続ける。

「予備役送りになった者でも、階級が高い者については監視されている場合があります。迂闊な手出しは危険かと」

 日本政府の防諜を突破して重要な情報を収集できるのは、今のところイギリスやソ連ぐらいしかなかった。特にイギリスの情報収集能力はいまだに侮れるものではなかった。疾風の件も、疾風が『あそこまで』高性能であるとは掴めなかったが、実用的なジェット戦闘機であることは掴んでいたのだ。更に原子力発電を日本が計画していることも朧気ながら察知できた。情報局や内務省でも、これには舌を巻いた程だ。
 更にイギリス(より正確にはMI6)がイランに展開していたドイツ軍から盗み出したジェット戦闘機や戦車などの情報を提供してきた際には、関係者は絶句した。

「腐っても大英帝国、と言ったところか」

 日本の情報組織がいまだにイギリスの後塵を拝していることを実感した田中情報局局長は、そう言ってため息をついたとさえ言われている。
 反英派でさえ、このイギリスの底力を前にすればむざむざイギリスをドイツ陣営に駆け込ませる政策を声高に叫ぶわけにはいかなくなる。軍事力では日独に劣っていたとしても、それを補って余りあるものがあるなら関係を改善せざるをえないのだ。
 何はともあれ、手詰まり感を感じたヒトラーは再び地図を見つめた。

(工業化に出遅れた日本がなぜ、ここまで……世界恐慌後、世界から技術と資本をかき集めたとしても、短期間でここまでは。真に恐れるべきは夢幻会か)

 大日本帝国の中枢たる夢幻会。
 戦争終結前後から漏れ出てきたこの組織の存在とその実績はヒトラーを驚愕させると同時に、日本の異常な発展について納得させるものであった。

(日本の頭脳であり、あらゆる組織に神経のように情報網を張り巡らせている……それだけの組織があれば、ああも発展できるのか)

 そしてイギリスが円卓という夢幻会の真似事を始めたという情報が、ヒトラーを焦らせる。

(陸海空軍の軋轢、党と国防軍、財界との関係をうまく調整できる組織が我が国にも必要なのか? いやそうでなくとも何かしらの提言を行えるシンクタンクが?)

 まるで自国だけが取り残されていくような感覚をヒトラーに襲い掛かる。
 だがここはそこを考えるべき時ではないと思い直し、そんな感覚を頭の片隅に追いやる。

(いや、しかし如何に頭脳が優れていたとしても、肉体が相応の能力を持っていなければ意味がない。ならば相手の頭脳中枢に打撃を与えるのではなく、相手の肉体に負担を与える方策が……)

 ヒトラーはそう考え、再び世界地図を見る。そのとき、彼の視線は日本列島の横、ユーラシア大陸から盲腸のように生えている半島に注がれる。

「……朝鮮半島、か。カナリス大将、確か、あそこには日本が保護している国があったな」
「あ、はい。大韓帝国は日本に保護されております。独自の外交権を剥奪され、更に国外への移動も厳しく制限されていますが」
「ふむ……なぜ、彼らはあそこを併合しないのだ? 日本にとっては裏口のようなものだ。そこに敢えて信用できない住民を住まわせ、当てにならない政府を置くとは」

 「やはり盲目の猿に、門番を任せても問題ないと思っているのか?」とヒトラーは首をかしげるが、すぐにあり得ないと考えた。

(あの組織が敢えて国防上、重要な土地を放置しているとなれば、何かしら合理的理由があるはずだ。ふむ……何かよい切っ掛けが掴めるか?)

 ここでヒトラーは朝鮮半島について詳しい調査を命じ、後日、その実態に唖然とすることになる。

「……日本人も隣人には恵まれなかったのだな」

 執務室で報告書を読んだヒトラーは思わず、僅かだが日本に同情を覚えた。

「我が国もポーランド人には散々に手を焼かされたが、それ以上の厄介者がこの世にいるとは……」

 周辺国から蛇蝎のように嫌われたポーランドは、それなりの行いをしてきた。だが彼らは過去に中欧に巨大国家を打ち立てたという実績がある。しかし日本の横にある半島住民にそのような実績はない。にも関わらず、小中華思想に基づいて西洋人からすれば理解し難いプライドを持ち、そのプライドに基づいて支離滅裂な行動をとっている……ヒトラーはそのように考えた。

「中国人並か、それ以上……果たして利用できるのだろうか?」

 さしものヒトラーも逡巡する。
 現在の朝鮮半島では日本の対韓政策への反発、そして行き過ぎた反日派狩りの反動で再び反日派が台頭している。政府、軍内ですら不満を抱えている者が少なくない。
 つまり付け入る隙は大きいと言えるのだが……そこにドイツが手を突っ込めば、日本がポーランドでパルチザンを露骨に支援しても文句を言えなくなる。

(やはり慎重に行うべきだ。ここまで露骨に隙を用意するということは……むしろ敢えて我々に手を出させて反撃を行うためなのでは?)

 夢幻会の人間が聞けば口をそろえて「ねーよ」と突っ込むどころだが、この場にそんなことを言う人間はいない。
 そして夢幻会の功績を知るが故に、ヒトラーは己の直感を信じた。

「敢えて戦略上の要衝を罠とするとは……やはり連中は侮れん。だが逆に罠と分かった以上は逆手にとれる。あの思いあがった連中をうまく煽て上げ、日本人が朝鮮半島に目を向けざるを得ない状況を作るのだ」

 外交はイギリス人のものだけではないことを思い知らせてくれる……ヒトラーはそう呟くとまず受話器を手に取り、外務省に電話回線をつなげる。

「リッベントロップか。君にやってもらいたいことがあるのだが」

 こうしてドイツは動き出す。




 あとがき
 提督たちの憂鬱外伝戦後編20をお送りしました。
 この20話以降は主に環太平洋諸国会議(あとトランジスタ、大和型戦艦、稲荷計画の公表)に向けての話になります。
 かといって20話では大して話が進みませんでした。まぁとりあえず序章といったところですね。
 ……しかしまだ作中では昭和20年。いつになったら大和型は配備できるのでしょうか(汗)。
 それでは拙作にも関わらず、最後まで読んでくださりありがとうございました。
 戦後編21でお会いしましょう。