日本が模擬戦での完勝に浮かれる一方、完敗を喫したドイツ第三帝国は激震が走っていた。
ドイツ空軍が開発した切り札たるMe262が5分ももたずに全滅したという情報は、ドイツ政府上層部の顔を青ざめさせるのに十分だった。
「ゲーリング、これはどういうことだ?!」
総統官邸でヒトラーは厳しくゲーリングを問い詰めた。
ヒトラー自身、模擬戦で負ける可能性を考慮はしていたが、ここまで一方的に大敗するとは思っていなかった。故のその怒りは凄まじかった。
「こ、これほどの戦闘機を日本が開発したという情報がな、なかったためであり、そもそもここまで差があるのなら……」
「つまり情報部の怠慢だと言いたいのかね?」
「そ、その通りであります。総統閣下」
ゲーリングは疾風のような画期的戦闘機の情報を事前に探ることができなかった情報部に責任を転嫁しようと目論んだ。
(そうだ、そもそも連中がきちんと仕事をしていれば、こんなことにはならなかったのだ! 私だけの責任ではない!!)
ゲーリングは必死に情報機関の無能さを訴える。
ヒトラーも情報部の働きが悪いのではないかと感じることはあったので、ゲーリングの言うことをすべて否定することはしなかった。
ちなみに情報部の怠惰については、イギリスでも言われていた。特に対外諜報活動を担っているMI6の人間は疾風の情報を正確につかめなかったとを散々に責められて、肩身の狭い思いをしていた。
このためMI6は己の存在意義を示すために、軍部と協力して密かにドイツのジェット戦闘機関連技術を入手すべく動いた。大胆不敵にも、彼らは疾風の前に完敗して意気消沈しているドイツ空軍基地に特殊部隊を送り込み、関連技術を盗むつもりでいるのだ。さすがにMe262そのものは盗めないが、基地に持ちこまれている物には、イギリスが出遅れた軸流式ジェットエンジン開発に役立つものもある。
「誰もが、日本の疾風の情報を狙うと考えるだろう。それこそがねらい目だ」
後にSAS創設者となる長距離砂漠挺身隊所属の英陸軍少佐デビッド・スターリングは、あばら家の一室に集まった部下たちをそう言って鼓舞した。
ドイツ空軍の一方的敗北を目の当たりにしたイラン人に動揺が広まっているのも、彼らにとっては好機だった。
イギリスの情報機関はその面子にかけて特殊部隊が忍び込めるようにドイツ軍の警備体制や将校のスケジュールなどの情報と潜入に必要な装備を揃え、イラン人を買収し、破壊工作とは判らないように軽い食中毒を発生させることで警備隊を弱体化させる等、考えられる限りの手を尽くし件の特殊作戦を成功に導き、更にドイツ人に情報を盗まれたと悟られないという大戦果をあげることで情報機関としての意地を見せることになる。
まぁ何はともあれ、ゲーリングの言うことも一理あった。だがそれはゲーリングの免責を意味するものでもない。
「確かに、ハヤテの情報を掴めなかった責任は情報部にはあるやも知れん。だが、未知の相手にも関わらず、相手を過小評価したのは君ではなかったのかね?」
「そ、それは……」
「イラン演習で示した我が軍の武威は、あの模擬戦で失墜。中東の同盟国では動揺が広がるどころか、我が国の技術力を疑問視する者さえ現れていると聞くぞ」
「な、何と。総統閣下、そのような国はただちに」
「恫喝しろ、とでもいうのかね? この状況で?」
「……」
ヒトラーが言うようにイラク、イランの二か国の動揺はことさらに大きかった。ヒトラー自身は両国がすぐにドイツを見限るとは思っていなかったものの、手をこまねいていれば、いずれ両国への影響力が減衰する可能性が高いと考えていた。
「彼らは富嶽と日本海軍機動艦隊の攻撃を防ぎきれるだけの兵力の派遣か、大規模な支援を求めている。そして現状ではそれに応じざるを得ない」
ちなみにシューペア軍需相は中東諸国を守るために必要な負担を試算して頭を抱えていた。
何しろドイツは東部戦線というお荷物がある。確かにソ連は静かだが、広大な新領土に配備している陸軍に補給を行うだけでも一苦労なのだ。衛星国として独立させたウクライナなどに負担を分担してもらっていなければ、大問題になっていただろう。そんな状態で彼らは中東諸国のために追加支援を行わなければならないのだ。軍需、財務官僚は「どこから人と物資と金をひねり出すか」でのたうち回っている。
「問題は中東だけではない。テキサス共和国政府もこの大敗に狼狽している。彼らは日本から大量の武器を供与されたカリフォルニアが東進してくるのではないかと恐れている」
「総統はそのようなことが起こるとお考えで?」
「幾ら夢幻会が穏健でも、我が国を与しやすしと判断すれば、どうでるか判らん。いや、我がドイツが日本に到底かなわないと諸外国が判断すれば……」
欧州枢軸に亀裂が入る、とはヒトラーも言わなかった。
だがそのような事態が起きても不思議ではない。周辺国がドイツに従っているのは、ドイツが強者であるからだ。そのドイツを日本が蹴散らせると考え、そして日本にその気があると思えば……保身に走る国が現れるのは当然だった。
(海軍は言うに及ばず、陸軍も対日戦になれば地上戦で敗北する可能性を言いだしている。これが外部に漏れれば、ますます……)
軍を動かす立場にある将帥たちは兵站だけでなく、あの脅威的な戦闘機が戦場で暴れまわった場合を想定して顔面蒼白となっていた。
ドイツ陸軍でも指折りの名将で、ドイツ陸軍お得意の電撃作戦の生みの親であるハインツ・グデーリアン上級大将は、参謀本部の会議室で疾風の圧倒的性能を知ると暫く黙り込み、「日本軍と戦えば、我々は一方的に空から叩かれるな」と苦々しい顔でそうつぶやいた。
いくらドイツの戦車が強力であっても、空から一方的にたたかれてはどうしようもない。ただの鉄の棺桶となりかねない。
「制空権の確保が難しい以上、対空兵器の開発と配備は急務だ。そのためには、他の物を後回しにするのもやむを得ない」
それがドイツ陸軍参謀本部の英傑たちの判断だった。
それは参謀本部に多い貴族出身の高級軍人を嫌う傾向があるヒトラーですら、無条件で賛成せざるを得ないものだった。
しかしそんなドイツの内情を知ってか知らずか、日本は更なる追い打ちをかけようと目論んでおり、その日本の動きはドイツ側も朧気ながら察知していた。
「……日本人がビスマルクを超える超大型戦艦の建造計画や画期的な農業技術について発表するとの話もある。このままでは拙い」
ヒトラーの苛立ちを見たゲーリングは震え上がった。
「そ、総統閣下、なにとぞ、雪辱の機会を!!」
「……これだけの失態を犯して、次があると?」
今回の敗北で、ドイツは全世界に大恥を晒した。ドイツ国内では報道管制によって大敗の情報は伏せられていたものの、それがいつまで維持できるかは定かではない。
何しろBBCを筆頭にした英国報道機関は日独模擬戦での結果を連日報道しており、海外のラジオニュースを聞いた人々は政府の動きから「何かがあった」と感じていたからだ。
「……」
こめかみを引きつらせたヒトラーの鋭い眼光を受けたゲーリングは、これまでにない量の冷や汗を流した。
「……では国家元帥、君に何ができる?」
「そ、それは……」
この日を境に、ドイツ空軍のトップであり、国家元帥として権勢をふるっていたゲーリングの影響力は急速に失われていくことになる。
提督たちの憂鬱外伝 戦後編19
ドイツ空軍が満を持して送り出した最新鋭戦闘機Me262が模擬戦で疾風に完全敗北したとの情報は、瞬く間に日英の勢力圏に拡散することになった。
日本本土では中二病の陸軍中将が羨ましがるような「海鷲十二騎」などと格好いい仇名さえ新聞で掲載され、「日本空母機動部隊は世界最強である」との認識を日本国民は改めて抱いた。
「どこもかしこもお祭り騒ぎですな」
祝勝会とばかりに、某高級料亭で開かれた会合の席で杉山はそんな感想を口にした。
実際、杉山の言う通り、日本だけでなく東南アジアや南米太平洋岸は大騒ぎだった。何しろ、ドイツ空軍の最新鋭、最精鋭のジェット戦闘機部隊を相手に完勝したのだ。
ナチスドイツの脅威に怯える東南アジアの有色人種にとっては吉報そのものであり、自分たちの盟主である日本が如何に強く、頼りになるかを理解できるものだった。
「ドイツはロケット爆弾を披露もしましたが、疾風の前にはかすみましたからね……」
辻はお茶を飲みながら、ヒトラーに同情する。
何しろ、ドイツはこの一件で軍事大国、技術大国としての面子を徹底的に叩き潰されたのだ。その衝撃は想像を絶するものであった。
加えて疾風の前にMe262が無力であることが明らかになったことで、富嶽に対する切り札を早々に失ったという事実も、ドイツに大きな打撃を与えた。
しかし日本側も笑っていられる状態ではなかった。ドイツ軍のエースパイロットが集められた精鋭部隊相手に完全勝利を得たことで、軍事力に対する自信が更に深まり、交渉において力を背景にした強硬な態度を取るべしとの声がちらほら聞こえてくる。
(相手に一方的な譲歩を強いる交渉が、そんなに容易にできるとでも思っているのですかね?)
辻はそんな風にぼやく。そんな辻のボヤキの横では軍人たちが軍人の視点から話を進めていた。
「ドイツ軍は地対地弾道弾より対空噴進弾の開発に重点を置くだろう。場合によってはロケット戦闘機での体当たり戦術も考えられる」
嶋田の意見に山本は眉を顰める。
「ドイツ軍が体当たり攻撃を行う、と?」
「旧アメリカ海軍も体当たりを特別攻撃として考えていた以上、ドイツ軍がそれを採用しない理由はない。そうじゃないか?」
嶋田の切りかえしを受けて、山本は「確かに」と呟き、同意する。
「しかしそうなると、ドイツ空軍が対艦攻撃のために旧アメリカ海軍と同様の体当たりを行うことも考慮する必要があるぞ」
「そうだな。だがドイツ海軍は音響誘導魚雷を開発したらしいし、ドイツ空軍が二式誘導弾のような兵器を開発中との話もある。対艦攻撃については、そちらの対策も必要だろう。あとドイツの工業力の底力を考慮すれば……疾風への対抗馬を早期に繰り出す可能性は高い。そのことも考慮すれば、疾風の改修、それに技術開発も疎かに出来ない。担当部門を引き締めておかなければ」
海軍軍人である2人は、今後変革していくであろう欧州枢軸の空軍、海軍に対して対処するか話し合った。そこには欧州枢軸軍に対する侮りは微塵も無い。
「彼らが彼我の戦力差を把握して、無茶な海軍の拡張を諦めた場合、潜水艦や機雷などで沿岸防御に特化した海軍を作ることも考えられるが……」
「それはないだろう。彼らは北米航路を維持する必要がある」
嶋田はそう言って意地の悪い笑みを浮かべる。
「彼らにとって船団護衛など、概念上の存在だっただろうからな。対潜戦術の構築だけでも大事だろう。それでいて今回の完敗。独海軍は頭が痛いだろうな」
「護衛空母を建造した程度では到底、安心できない、か」
「まぁ彼らが海軍力の整備に一定の国力を割いてくれるなら、我々としては万々歳だ。連中の目をインド・中東方面に向けることができるだけでも上等だからな」
しかしここで杉山が待ったをかける。
「あまり効果が大きいと、ドイツのソ連に対する圧力が低下するのでは?」
これを聞いた辻は話に割り込む。
「東の圧力は多少減る可能性があります。ですがロシア人に圧力を加えられる場所はまだありますよ」
「何?」
杉山、嶋田、山本の視線が辻に向く。
「今回の大敗の影響を少しでも減らすためドイツは中東への梃入れを図るでしょう。ですが疾風の実力を見た各国がそれで落ち着くかどうかは別……ならば反共を口実とした日独の連携をチラつかせれば彼らも乗ってくる可能性は高いと思いませんか?」
「ソ連を悪者にして、中東での日英対独の構造を反共同盟にスライドさせる、と?」
「すぐに実現できる、とはいきませんが」と前置きして辻は話を続ける。
「異教徒とは言え、『信心の民』による連携。これは富嶽の脅威に怯える中東諸国にとっても絶好の口実でしょう。インドでインド共産党の残党が動いているとの情報もありますから、説得力もあります。ドイツも反共政策を口実に、我が国と関係改善するのは不利益にならない。それに軍事的負担に喘ぐイギリスも賛同しますよ。パレスチナ問題もありますから、面倒事は少ない方が彼らも喜ぶでしょう」
ソ連から富を毟り取りながら、そのソ連を『敵』にしてドイツの不満をあまり煽らない形で中東諸国とのパイプを築いて対ソ包囲網の一角に組み込む……それが辻の主張だった。
「嶋田さんの実家の件がより説得力を持たせるでしょう」
嶋田の実家が神社であることをここにいる人間は思い出した。
「ドイツにとっては当面の中東の安全を確保しつつ、対ソ包囲網を強化できる。我が国は中東諸国とのパイプを築きつつ、ドイツの目を中東やインド方面に向けることができる。WIN−WINだと思いませんか?」
大人しく話を聞いていた嶋田は辻の別の狙いを悟る。
「そしてロシア人に『対ソ包囲網を解体し、ロシアを生き残らせるためには共産党が邪魔』と実感させる、と」
「ええ。ロマノフ王朝が復活し、立憲君主制となればこれまでの行いがチャラになる……そんな打算が働けば、共産主義の失墜と合わさって共産党を打倒する動きが活発になります。特にスターリンの粛清と無謀な戦争指導で大打撃を受けて、恨みを募らせている赤軍が動くでしょう。いえ祖国に希望を失った者たちも動くでしょう。動かなければ我々が煽ればいい」
「そしてそれを見逃すドイツではない、と」
「我々との差を思い知ったドイツ政府が東部戦線を素早く片付けたいと思えば思うほど、ソ連を抹殺できる好機で動かない訳がない。そうでしょう?」
泥沼という言葉に杉山は頷く。
「確かにドイツが動く可能性は高いな……そして現状のドイツの力ではウラル以西を抑えるのが関の山」
「シベリアを我々が抑えればサンタモニカ会談の取り決め通り、となり……我々の不安は払しょくされます」
アメリカ、ロシア、そして支那。この三大勢力を全て解体することが出来れば、日本を脅かす力を持った勢力は周辺地域から消滅することになる。
「日本の安全。御維新以来の帝国の悲願。これをようやく確保できます。墓の下の元勲たちにも顔を上げて報告できます」
衝号作戦を実施せざるを得なかった負い目からか、辻は「胸を張って」とは言わなかった。
そんな辻に対し、独りの男が疑問をぶつけた。
「しかし、そう簡単に物事が運びますか?」
夢幻会所属ではないものの、会合に呼ばれることを許された男。海相山本五十六。
「窮鼠猫を噛むとも言います。我々の予想だにしない行動をとる可能性も考える必要があるのでは?」
彼は敢えて辻の策謀に疑問を呈する言葉を放つ。己の責務を理解するが故に。
これに対して辻は「ふむ」と呟くと、少し考え込む素振りをする。だがそれは答えに窮した訳ではなかった。
(あのギャンブル好きが、こう出ますか。いや、確かにロシア人が、正確には共産党政権が自分の地位と財産に固執して、祖国をドイツに売り渡す可能性も皆無ではない……この場合は共産主義の存続のためという線も考えられるか。人間は利害損得だけでなく被害妄想や理想、他者には理解し難い価値観で動く生き物でもある。ドイツ人も合理的に見えて、以外とご都合主義で物事を考える傾向が多々ある。そのことを考慮すると多少不安を感じると言ったところでしょうかね)
辻は少し唇を釣り上げた後、口を開く。
「否定はしません。ソ連共産党は、いずれ国土を分割されると薄々感じているでしょう。故に、あの演習の後に面白い提案を寄越してきました」
「面白い提案、ですか?」
「ええ。連中、鉱物資源の値下げを打診してきたのです」
この辻の言葉に、近衛や吉田以外の出席者は「は?」という顔になった。嶋田でさえ「値上げの間違いでは?」と怪訝そうに返したが、辻は首を横に振って否定する。
「いえいえ、連中は資源の叩き売りを始めるようです。これまででも一山いくらだったのですが……それ以下で」
「しかし、それで連中は何を得ると?」
山本の疑問に対し、辻は笑みを浮かべながら逆に質問を投げかけた。
「安価な資源。そう、我々が真っ当に勢力圏を開発して得られる物よりも、遥かに安い資源が大量を日本側に流れ込めば……どうなります?」
「『安定』して資源が供給されるという条件がつけば我々にとっては好ましいが……まさか」
「ええ、連中はソ連分割が、日本の利益を大きく損なう状態を作ろうとしているのですよ。ご丁寧にシベリアに作らせた租界を通じていくつかの企業と交渉を進めようとする始末。いやはや赤熊も、なかなか商売上手なことです」
「だが、それは」
「ええ。ドイツの情報網もこの動きを察知するでしょう。だから、私は中東諸国を対ソ包囲網に組み込みたいのです」
「なるほど。だが今度はソ連だけが損をすることになるのでは?」
「ええ。ですからソ連が暴発しないように餌を用意しなければなりません。まぁ幸いにもイギリス人が色々と動き回っているでしょうから、これらの動きを黙認すればこちら側の意思表明になるかと」
「……具体的には?」
「遠心式ジェットエンジンの技術供与、といったところですかね。どうせ使い道が限られるエンジンです。ロシア人が使ってくれるなら問題ないでしょう。それに技術を売却するのはイギリス人です。何かあっても責任追及の声は彼らに向かいます。まぁイギリスが無理なら、尾崎さん経由で必要なデータを流します。いずれにせよ、我が国の負担が重い『今』はソ連の思惑に乗ってやります」
ここで共産主義者を毛嫌いする阿部内相が懸念を示す。
「いくら遠心式とは言え、ソ連軍がジェット機を配備すれば我が国とっても少なくない脅威になるのでは?」
「表向きは脅威に見えるでしょう……ですが、ソ連は従来の推定以上に疲弊しているようなので、各戦線に十分な数を配備、運用するのは難しいでしょう。今回の値引き打診もそれが背景にあると考えてよいかと」
「そこまでですか?」
「ええ。詳しくは田中局長から聞いた方が良いかと」
話を振られた田中は咳払いをすると最新のソ連情勢を伝える。
「先の独ソ戦での敗北、そして戦争での人、物資の消耗、停戦でウクライナを含む重要地帯を失った影響が想定以上に赤軍再建に悪影響を与えているようです」
阿部内相は「工業化で装備は補充できるようになるのでは?」と疑問を呈したが、田中は首を横に振る。
「先の独ソ戦末期での無理な攻勢では、補給が途絶えた上、ソ連軍の兵器は動作不良が相次いでいました。このため兵士の間でさえ、自国の兵器を信用できないという風潮が広まっており、それが兵士の士気をさらに低下させています。そんな不安定な武器を持った兵士を指揮しなければならない将校も同様です。緘口令を敷いたとしても、あそこまで醜態を晒したとなると幾ら共産国家でも隠ぺいしきるのは困難です。そしてその醜態が少しずつ拡散しており、更なる悪影響を及ぼしているのが現状です」
陸軍でもソ連軍の内情調査は行っていた。故に彼らは長年の仮想敵であったはずのソ連軍の弱体化に驚いていた。
陸軍は『現状で独ソが再戦すれば、ソ連軍が半年も戦線を維持できるか怪しく、一度戦線が崩壊すれば、首都モスクワも陥落する可能性が高い。ただ、モスクワまでドイツ軍が侵攻した場合、ドイツの兵站も限界を超える可能性が高い』と分析していた。
だがソ連軍弱体化に付け込み、広いシベリアに侵攻するつもりも陸軍にはなかった。陸軍上層部は東南アジア、支那、北米に派兵している今、これ以上は手を広げたくなかった。長年の仮想敵であったソ連を今こそ打倒したいと考える人間もゼロではなかったが、そんな人間でさえ有望な資源地帯があり、更に稲荷計画で食糧の増産も見込める東南アジアを重視したいという政府の考えを否定できなかった。
「現状ではシベリアのような極寒の土地を占領する必要はない。それより今は帝国に必要な資源を得るため南方資源地帯の安全確保を重視するべきだ。特に旧蘭印は有望な資源地帯。更に海軍の手によって安全な海上輸送路が確保されているので、効率的に物資の輸送ができる」
中でも、支那戦線で日々膨大な物資を消耗する陸軍の補給を支え続けた男、久野村桃代少将は東南アジア重視政策を強く支持していた。
そんな軍の状況を把握している辻は、田中の説明が終わるのを見るや否や、間髪おかず自身の見解を述べる。
「無理な新兵器の開発と配備は、ソ連経済を圧迫します。それがますます東西の対立を煽るでしょう」
「新技術そのものが、ソ連という国そのものに対する遅効性の毒物、と」
「阿部さんの言われる通りです。彼らはそれをご褒美の御馳走として食べてくれるでしょう」
「イギリス人はそれを承知で?」
「承知でしょう。何もしなければ、ソ連軍の技術は遅れたまま。彼らが言う『東方の蛮族』を引き付ける案山子にもならない。ならば、やるしかない。故に彼らはソ連共産党を政権の座から引きずり降ろし、共産党以外の勢力による政権を作る工作に励むしかない。表だってロシアと手を組み、我が国もその同盟の枠組みに巻き込むために」
「我々はそれを逆手に取ります。当分は腹黒紳士諸君とは面白い駆け引きが出来そうですよ」と言って辻は黒い笑みを浮かべる。
そんな辻を見ていた周囲の人間は思わず腰が引けた。そして彼らは小声で近くの人間と囁きあった。
「此奴にとっての生きがいは萌えとかじゃなくて、陰謀の間違いでは?」
「奴にとっては陰謀こそ萌えなんだろう」
「陰謀って萌えるものなのか?」
「いや、萌えというものは対象への好意的な感情を意味することもあるから、あながち間違いでは……」
「むしろ、あの男にとっては陰謀は食事、いや空気みたいなものなんだろう。陰謀がないと死んでしまうような体質なんだ」
辻本人からすれば失礼極まる会話が交わされたものの、辻の意見に反対する人間はいなかった。
「ソ連は新たな技術と『当面』の安心を得られる。ドイツは中東諸国の離反を阻止し、彼らを有力な対ソ包囲網の一角にできる。帝国はソ連から安価な資源を得て、中東ではドイツと衝突することなくイランやイラクと友好な関係を築くことができる。イギリスもソ連から資源を購入でき、中東で大きな問題を抱えなくて済む。この取引が成功すれば『当面』は誰も一方的に損をせずに済みます」
そこまで言ったあと、辻はスーツの懐から扇子を取り出し、口元を隠すと楽しそうに言い放った。
「まさに『三方よし』。成功すれば、よい取引になります。そう思いませんか、皆さん?」
一部の人間は乾いた笑みを浮かべた。
「……相変わらず容赦がない」
杉山は半ば呆れた顔をするが、辻は肩をすくめるだけだった。
「そこまで考えられているなら、特に異論はありません」
山本はそう言って引き下がる。
この様子を見ていた嶋田は「やれやれ」と呟いて頭を横に振る。
「それにしても、ソ連からの打診は初耳ですが?」
「ああ。すいません。報告がまだでした。いやはや、最初に言えばよかったですね」
「ははは、辻さんが情報を出し惜しみしているかと思いましたよ?」
「いえいえ、ただのオオクラカンリョウシュッシンノゾウショウの私がドクサイシャである嶋田さんに渡すべき情報を懐にしまったままにするなんて、あり得ませんから」
「所々、棒読みですが。ついでに言いますが、辻さんの台詞を深読みすると『渡すべき情報』と『渡さなくてもよい情報』は辻さんが判断するというオチなのでは?」
「ははは、嶋田さんも疑り深いですね。多分、疲れているんですよ。ウデガイイイシャを紹介しますよ?」
「……頭に何か埋め込まれそうなんで、遠慮しておきます」
その嶋田の台詞を聞いていた古賀は皮肉げな笑みを浮かべた。
「辻さんの頭に何か埋め込まれていても、私は驚きませんよ」
「おや? よくわかりましたね」
「は?」
「ええ。私の頭にはお嬢様学校創設という使命が埋め込まれていますから」
古賀は頬を引きつらせた後、ため息をつく。
「……相変わらず目的と手段が逆転していますね」
「いいじゃないですか。女性が輝くことで、日本も輝きますよ」
「「「………」」」
MMJ関係者は「さすがは辻さん」と頷く。それ以外の人間は「どこの政治家の台詞だ?」と思いつつも、真顔の辻に対して突っ込む気力を持たなかった。
(こんな人間に、富を吸い尽くされたと知ったら……欧州やソ連の人間は何と思うことか。というか我が国の輝き? 連中から吸い上げた血まみれの黄金の照り返しのような気もするが……いや、血は時間が経つと黒くなる。そうなると……あ〜うん、考えないようにしよう。そのほうが心の健康には良い)
嶋田は遠い目をして、お茶を一杯飲んで気分を切り替えた。
「とりあえず、話を変えましょう」
嶋田の台詞は渡りに船だった。出席者たちの大半は我先に「そうですね」とうなずき、話題を変える。
「疾風のお披露目が大成功に終えた今、予定通りに稲荷計画と電算機、大和型戦艦の発表を進めたいと思います。あと稲荷計画の海外拠点はタイ王国に置くことに対する異議は?」
「大蔵省としては特にありません」
「陸軍としても反対はない」
「外務省も同じです」
稲荷計画の拠点を置く国はタイでほぼ決まっていたものの、最終的な確認のために嶋田は決を採り、全会一致の結果を得た。
「環太平洋諸国会議の準備は?」
嶋田の問いかけに対し、吉田が自信満々に答える。
「西海岸諸国及び東南アジアの各独立準備政府との交渉は順調です」
復権を目指す外務省は死にもの狂いで、環太平洋諸国会議を成功させるべく動いていた。
何しろ、ここで失敗してしまえば外務省は本当に『役立たず』の烙印を押されてしまい、政府の中でその存在が埋没しかねない。当然、外務省の誇り高いエリートたちにとっては絶対に容認できないことであり、何としてもそんな未来だけは避けるために各派閥が手を組んで動き回っている。
「現在の各国の要望は?」
「どの国も、今後の国造りのために継続的な支援を求めています。彼らは欧州と渡り合うため、我が国と同様に富国強兵を目指しており、我々の助言を積極的に取り入れる姿勢を見せています」
この回答に辻や近衛は満足げにうなずく。
「その意欲があるだけでも隣の半島国家よりはマシです」
「うむ。爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ」
夢幻会にとって頭痛の種でもある韓国(それに山西共和国も)は、『一応、日本側である』ことを内外に示すために環太平洋諸国会議に出席することが認められた。
当然、日本側は『他の東南アジア諸国を下に見ることは許さん』と徹底的に釘を打っている。日本の保護の下、長い間、独立を維持してきたと主張して先輩面されては堪らない、というのが夢幻会の共通認識だった。
「連中が日本人の半分でも真面目に働いて、親日的な近代国家を建設していたなら、多少大きな顔をしても大目に見るが……現状ではな」
中央情報局次期局長で穏健派でもある堀提督でさえ、匙を投げているのだからそのダメさ加減が分かる。
「韓国と山西共和国は互いにいがみ合わせておくのが妥当でしょう。山西共和国の反満州感情が高まって紛争になったら目も当てられませんし」
嶋田の意見に反対する者はいなかった。というか、その程度の役割を担ってもらわないとやってられない、というのが彼らの思いでもあった。
韓国で盛り上がっている反日感情については……「処方箋なし」、「現地政府に対処させ、実害がでるまで放置」とされた。
「正直、土地だけを考慮すると一定の価値があるのですが……」
「住んでいる人間のせいで台無しだ、と」
「ええ」
何度も交わされた会話。
山本や堀などの幻と消えた世界の情報を知らない者たちは、彼らが自力で立ってくれれば、と願ったが、その願いが叶うことはなかった。
「大陸は東遼河開発と独立予定の満州の梃入れに力を入れるしかないかと。半島は最低限の安定で満足するのが妥当です」
陸相である永田は言外に「半島に期待して膨大な金をつぎ込むのは無駄」と主張し、出席者たちは同意するように頷いた。
「福建共和国、満州共和国、山西共和国、華南連邦、華東共和国……ああ、そうそう重慶政府もありましたね。まぁこれだけバラバラにしておけば暫くは統一はないでしょう」
辻は唇をつり上げる。
(そしてソ連軍の侵攻によって内陸の住民が次々に難民と化し、そしてその難民を奴隷としてソ連に売り渡そうとする者たちが出現。おかげで大陸内陸、特に甘粛省、青海省北部はソ連軍とそれに与した連中、流民集団、それに奴隷商人とそれに雇われた傭兵による仁義なき戦いが繰り広げられています。貧乏人の命が場合によっては握り飯より軽く扱われる世界。全く大陸内陸は地獄ですね〜まぁだからこそ、麻薬や福建製の地雷を含む多数の武器が飛ぶように売れるのでしょうが)
日本はまだ内戦が続く支那の大地に麻薬を非公式に売りさばいている。
ただしそれは現金を得るためというより、現地の社会を徹底的に破壊するために行われていた。
(絶望した人間は、長生きするよりも目先の快楽を重視し……いずれ薬に手を出す。そして最後には体も心も崩壊させて異臭を放つ有機物の塊になり果て、土に還る。絶望は死に至る病とはよく言ったものです。ですが、我々にとってはそうなってくれたほうが有難い)
日本では中華思想を主張する漢民族を敵視すると同時に、かつての戦争での醜態から漢民族を蔑視する雰囲気もあった。
だがこの男はそんな風潮とは無縁だった。それどころか、強大な大陸勢力の復活させ危惧していた。故に彼は大陸社会の徹底した破壊を狙っていたのだ。
そして彼の願いは叶いつつあった。先の戦いで都市は大きな打撃を受け、異常気象と内戦、ソ連軍の侵攻、人身売買の横行で農村も破壊されるか、分断されつつあった。そして中華民国による日米戦争の開戦謀略が暴露されたこと、その所為で世界中から排撃されたために海外の華僑と本土の人間たちとの間にも溝が出来た。
この結果、東南アジアの華僑の内、華北系は日本に次々に恭順(ほぼ全面降伏)を表明し、保護を求めている。当然、彼らは本土の人間たちと決別することを日本側に伝えていた。どこまで信用できるかは怪しいが、それでも大陸の住民たちの影響力は激減する。
「イギリスが実践してきた『分断して統治せよ』……確かに、これほど効率が良いことはありませんね。我々が見倣うべき、イギリスの良い部分です」
「辻蔵相の言われる通り、大陸は現在の方針を堅持するのが妥当かと」
永田は頷き、杉山も続く。陸軍にとっても大陸勢力が一致団結されるのは厄介なことだった。
「無敵皇軍などと言われているが、仮に大陸勢力が団結すれば叩き出されるのは我々だからな……それに陸軍軍人である私が言うのもなんだが、日本は海洋国家だ。海の戦い、またはシーパワーの及ぶ範囲での戦いなら強いが、内陸深くに引きずり込まれると弱い。消耗戦に巻き込まれるからな」
「まるで河童ですな」
山本の例えに杉山は吹く。
「ははは。確かに。だがそれを忘れないことは必要だろう。己惚れて泥沼に入り込み、亡国の目にあったら目も当てられない」
杉山の言う通り、海洋国家たる日本にとって陸地深くに引きずり込まれる事態は、避けなければならない事態だった。
しかし日本にとって避けなければならない事態ということは、他国にとっては、特に日本とライバル関係にある国家や勢力にとっては望ましい事態でもあった。
そして日本独り勝ちという状況を苦々しく思う者ほど、日本が恐れる事態を引き起こそうと目論むのは当然だった。
夢幻会は先の見えない未来を恐れ、『決して慢心してはならない』と心がけ、万全の体制を整えようとする。たとえ、それが他国から見て恐るべきものに見えても彼らは満足せず、貪欲に力を求めていた。まるで自分の影に怯えるように。
夢幻会に所属する人間、特に上の地位、可能ならば忘れたいが、忘れる訳にはいかない、日本帝国の秘中の秘である衝号作戦に知る者からすれば『当然』であった。
かつての過ち。それを覚えているが故に彼らは謙虚であった。驕ることはなかった。だがそれゆえに他者からすれば恐ろしく見えることを彼らは深く理解していなかった。
「我々が優秀? 冗談はよせ。我々は、まだまだ精進しなければならない」
嶋田は本気でそう思っていた。
「帝国が世界筆頭? ああ、他国が沈みましたからね。有色人種の超大国として世界に秩序をもたらす? ははは、御冗談を。我が国がもっと強くならなければ不可能ですよ」
辻や近衛はそう笑い飛ばす。
「無敵皇軍? ああ、今は、そうかも知れない。だが未来はどうかな?」
杉山や古賀はそう言って無敵皇軍と持て囃す雰囲気に苦言を呈す。
それらは全て本心だ。だがそれゆえに他の国の人間からすれば恐ろしい。自分たちとは相いれない強者が現状に油断せず、更に他国を引き離そうとするのだ。
日本と敵対する国々はその力に恐怖を覚えた。または嫉妬した。あるいは恐れた。なればこそ、彼らは画策する。日本を今の頂から引きずりおろそうと。
真っ向からやって勝てないのであれば、見えない水面下の戦いを挑む……それしか彼らに選択肢はなかった。
盟邦でさえ、日本の動向を調査するべく活動をより活発化させる。底知れぬ力を持つ同盟国、或は盟主の動向ほど、気をつけなければならないものはないのだ。
そして、今の自分たちを取り巻く情勢に不満を持つ者たちは、如何に日本の力を利用するかで頭を捻る。
後に『疾風ショック』と呼ばれる衝撃は、目に見えない戦いを激化させるトリガーの一つであったと歴史に刻まれることになる。
あとがき
提督たちの憂鬱外伝 戦後編19をお送りしました。
拙作ですが最後まで読んでくださりありがとうございました。
ゲーリングは即座に失脚しませんでしたが……まぁ影響力を失っていくので、何か成果を挙げれなければ遠からず退場するでしょう。
疾風に纏わる話はここで一区切りです。次は環太平洋諸国会議に向けての動きです。
まぁほかにも色々な出来事が入りますが……いや、昭和20年を作中で終えるのに、あと何話かかるでしょうか……。
それではこの辺りで失礼します。