戦艦『伊吹』を旗艦とした遣印艦隊(栗田艦隊)はセイロンに向かう途中、東南アジア各地に寄港して帝国の武威を示していた。
 遣印艦隊の任務にはインド洋で軍事的プレゼンスを誇示するだけでなく、帝国の軍事力を東南アジアの諸勢力に示すことも含まれている。夢幻会は環太平洋諸国会議を開く前に、実質的なボスがどの国であるかを示すつもりなのだ。
 各地の独立準備政府首脳およびタイ、フィリピン政府は大艦隊を大々的に送り込んできた日本の意図を正確に把握した。
 華僑系の中には中華民国北京政府を崩壊に追いやり、華僑の信用を失墜させた日本の行動に負の感情を抱く者もいたが、それを表に出す者はいなかった。今、表立って日本に刃向うことが破滅を意味することを彼らはよく理解していた。
 そして当然ながら独立準備政府やタイ、フィリピンとしては盟主国の艦隊(それも有力な機動艦隊)を歓迎しない訳にはいかない。特に先の戦争での立ち位置から日本主導の新秩序の中で立場が弱いタイは失礼がないように、盛大なセレモニーを開くこととなった。
 だがセレモニーが終わったからといって、賑わいがなくなる訳ではなかった。

「……また来客か。彼らはぎりぎりまで粘るようだな」

 舷門のある最上甲板で、栗田は苦笑した。
 栗田がここで立っているのはタイ政財界の重鎮たちを迎えるためであった。サタヒップでのセレモニーが終わった後は、その手の要人たちがひっきりなりに訪れておりその対応で栗田も大忙しだった。

(こういうのは南雲さんが向いているんだろうな……あの人はこの手の仕事は得意分野だし)

 栗田はそんなことを思いつつも、タイ側の心情も理解していた。
 日本とタイ王国は友好関係にあったが、日米開戦前においてタイ王国は日本に肩入れせず、中立を宣言していた。政府高官、特に文官達は孤立した日本が米中に敗北すると思っていたのだ。しかしその予想は外れ、タイ王国の国益は損なわれた。よって戦後においてタイ王国は外交で事態を打開すべく活発に動いていた。
 その一環としてタイ王国は市場開放を進め、王族さえ動いて日本資本の誘致を進めている。この誘致に真っ先に応じたのが中小企業だった。特に東京通信工業(後のソニー)はいの一番に現地に出向き、政府と折衝していた。
 何しろ、内地は既存の財閥や大企業が幅を利かせている。このため多少市場規模が小さくとも、中小企業が入る余地がある地域へ真っ先に進出することは大きな意味がある。
 まぁ何はともあれ、タイ王国と日本との交流は活発なものとなっていた。しかし日本側で戦前のタイの態度を覚えている者は少なくない。故にタイ王国高官たちは機会を見つけては日本側と接触して、太平洋における日本中心の新秩序で然るべき地位を得ようと努力しているのだ。
 ただしそんな下心だけで彼らが来るわけではない。彼らには現代の伝説といってもよい日本海軍が作り上げた鋼の城をこの目で見てみたいという思いもあった。
 嶋田なら「伝説? 何を大げさな」と思いそうだが、今の日本海軍は日露戦争でバルチック艦隊を相手に完全勝利を飾り、第一次世界大戦のユトランド沖海戦ではドイツ海軍に苦杯をなめさせ、先の大戦においてはアメリカ、フランス、スペインといった国々の海軍を文字通り一蹴し世界一となったアジア人の海軍であり、白人に圧倒されてきた有色人種からすれば伝説といっても差支えがない存在なのだ。
 また日本陸海軍航空隊の精強さも先の戦いで知れ渡っていたため、海に浮かぶ航空基地である航空母艦も注目の的だった。

「あれが『タイホウ』か」
「大きいな。世界一の巨艦というのは本当のようだ」
「我々があれだけの船を建造できるのに何年かかると思う?」
「日本と同じように発展しても70年は掛かるだろう」

 港近辺の市民に見えるように停泊した空母『大鳳』は特に注目を浴びた。
 このとき日本海軍は、軍機に触れない程度の情報を公開し、パンフレットを配るなどの配慮を行っていた。さらに現地の子供に親しみをもってもらうため、可愛らしい着ぐるみ(その多くが防災キャンペーンで没になったマスコットキャラ案を流用)まで現地に送っていた。
 ちなみに防災キャンペーンのマスコットキャラに交じり、軽やかに動き回る自称『梨の妖精』の着ぐるみを見た夢幻会派の一部の将兵は絶句することになる。

「……何でアレがここにいるんだ?」
「さぁ?」

 そんな会話が交わされる横で、着ぐるみを着ることになった軍人の中には「海軍はチンドン屋ではない!」と不満を漏らす者もいた。このように海軍軍人にとっては悲喜こもごものイベントであったが、これらのアピールは概ね好評だった。
 ただし、東南アジアの人間が全員、日本に対して好意的という訳ではなかった。
 米国から独立したものの、依然として大地主と大財閥が強い影響力を持つフィリピンでは、貧農を中心に地主や財閥、そして彼らと手を組んだ日本への不満が噴出しつつあった。独立を果たしても尚、富を独占する地主や財閥が健在である以上、彼らからすれば不満は当然だった。
 支配者がアメリカから日本に変わっただけと見た者たちの中には、食料価格の高騰に不満を抱えた者たちを纏め上げ反政府ゲリラを開始する者も現れた。
 片や金持ちたちは、日本資本と結託することで自分たちの地位を守ろうとしていた。

「小癪な貧乏人共を叩き潰すように伝えろ」

 大財閥の長であり、政財界に大きな影響力を持つエンリケ・アキノは側近を通じて政府や軍にゲリラを撃滅するように働きかけると同時に、日本に接近を図った。
 これまでアメリカ資本と結託していた男は、アメリカが滅ぶや否や、すぐに日本に乗り換えたのだ。アキノ家が中華系ということもあり、日本側がどうでるか不安がる側近に対しては自信満々に彼らの意見を否定した。

「日本人、いや日本の高官たちは極めてドライだ。我々が日本に協力して利益をもたらす限りは、我々を潰そうとはしない」

 アキノはこれまでの日本の動きから、自分とその一族が日本に不利益を超える利益をもたらす限りは日本は手を出してこないと判断していた。
 日本側はアキノ家を筆頭にした財閥とその配下の地主たちの専横に嫌な顔をしていたが、現状で彼らを早急に潰すという選択は取らなかった。彼らを無理に潰せばフィリピンは混乱するのは目に見えていた。日本側は危険思想である共産主義が跋扈するのを防ぐためとして、まずは小作農の負担軽減を求め、さらに現地で雇用を創出するために産業の育成を支援することにした。日本側は長い時間をかけて、貧富の格差の問題を少しずつ解消するつもりだった。
 しかし反政府ゲリラが日本資本も敵にしているという情報に、夢幻会の関係者は苦い顔をした。自宅で事の詳細を聞いた近衛はため息をついてぼやいた。

「あっちを立てればこっちが立たず、か」

 しかし当面の間、フィリピンにおける反政府ゲリラが続くことになる可能性が高い。このため日本政府は稲荷計画の変更が囁かれるようになった。
 当初はフィリピンにも稲荷計画の関連施設を建設する予定だったのだが、フィリピンの情勢を見て、建設計画の変更が必要ではないのかとの声があがったのだ。

「失敗が許さない以上、より安全な場所に研究所を建設するべきだ」

 北白川宮はそう主張した。このため、日本と同じ立憲君主制で、政情がそれなりに安定し、国を挙げて日本資本を誘致するタイ王国が次の有力候補に繰り上がることになる。




           提督たちの憂鬱外伝 戦後編14



 日本海軍遣印艦隊の動きに対抗するように、ドイツも有力な部隊をイランに派遣する準備を進めていた。
 イラン演習の目玉であり、富嶽への対抗手段であるMe163とBa349、そしてドイツ初のジェット機Me262、日本の弾道弾開発に触発されたドイツが作り上げた飛行爆弾『フィーゼラーFi103』……史実ではV1と言われた兵器の輸送については細心の注意が払われた。

「黄色いサル共にドイツ空軍の底力を見せつけてくれる!」

 空軍総司令部ではゲーリングはそう気炎をあげた。
 BOBでチャーチルを仕留め、ドイツの判定勝利に貢献したとはいえ、その後はパッとしないことが多かったゲーリングとしては、得点の稼ぎ時と思っても無理はなかった。
 部下たちの中にはそんなゲーリングを呆れた目で見る者もいた。ゲーリングはそんな視線に怒りを覚えつつも、イラン演習の次を考えていた。

「Me262で得た経験をもとに高速爆撃機を開発すれば日本海軍の空母部隊とも戦える」

 急降下爆撃に拘ったり、空軍の実力を過大評価する癖があるゲーリングだったが、日本海軍空母機動部隊が侮りがたい強敵であることは理解していた。
 故にゲーリングは拠点防衛用のロケット戦闘機開発と並行してジェット機であるMe262の開発を強力に推進したのだ。
 まぁソ連を潰すための戦略爆撃機に興味が移っているヒトラーの歓心を買うには、日本海軍空母部隊を叩ける矛を用意するしかないというゲーリング個人の思惑もあったのだが、いずれにせよあの大西洋大津波から3年足らずでMe262が大空を飛翔できた理由の一つにゲーリングの手腕があったのは間違いない。
 ヒトラーもこの画期的な戦闘機の開発成功には大いに感激した。しかし一方では飛行爆弾の性能に不満を抱いた。

「奴らの弾道弾よりも劣るのか」

 そんなヒトラーの言動を見た高官たちはビスマルクの二の舞を恐れ、技術者と共に必死にヒトラーを宥めた。その結果、まずはフィーゼラーFi103を完成させ、その技術をさらに発展させていく形に落ち着いていた。
 次にドイツ陸軍はエリート部隊であるグロースドイッチュラント師団をふくめ2個装甲師団を派遣した。彼らはX号戦車、Y号戦車を有する有力な部隊であり、ヒトラーの肝いりでドイツ陸軍でも指折りの指揮官、戦車兵が集められていた。
 史実を知る夢幻会からすれば「プライベートで会ってみたいが、戦場では絶対遭遇したくない」と言わせしめる面々ばかりであり、ヒトラーがどれだけ気合を入れているかが分かるものだった。そしてドイツ陸軍に負けじと親衛隊も虎の子である第2SS装甲師団をイランに送った。

「(史実よりも)独ソ戦で消耗が抑えられたせいか、ドイツ軍地上部隊は脅威だな」

 参謀本部でドイツ側の陣容を知った東条は思わずそう唸った。
 確かにドイツはソ連軍の必死の反撃で多大な損害を被ったものの、末期という有様ではない。経験豊富で優秀な将兵はまだ数多く残っているのだ。
 一方、帝都にある某高級料亭の一室でイラン情勢についてイギリス側の交渉人と話をしていた辻は、ドイツの動きを聞き興味深いとばかりに頷いていた。

「ドイツ側も気合を入れているようですね。それともそれだけ余裕があるということでしょうか」

 目の前の座布団に座っている男から話を聞き終えた辻はそう言いつつ、考えを張り巡らす。

(ドイツ陸軍は多少ふらついているものの健在、と。まぁ我々の暗躍のせいで弱体化したソビエトにしては、よく頑張ったほうでしょう)

 日ソ貿易が始まってからというもの、辻は如何にソビエトという人工国家が史実に比べて弱体であったかを改めて理解した。
 最近では、支那に侵攻したソ連軍前線部隊が旧中華民国領内で手に入れた日本製兵器を重宝しているというブラックジョークのようなニュースまで耳にしている。
 そのことを考慮すれば、あのドイツ国防軍となぐり合ってまだ立っていられただけでも十分に評価すべきものだと、辻は考えを改めていた。
 ただしソ連軍は善戦と引き換えに多くの優秀な将兵を失った。スターリン失脚と同時にジューコフのような若い将軍が軍の主導権を握ったが、失った将兵の穴を埋め切れるものでもなかった。戦後のソ連陸軍の弱体化は著しいものだった。ソ連政府が日本に頭が上がらない理由の一つに『軍事力の著しい弱体化』が挙げられるほどだ。
 辻はそんなソ連の弱気に付け込んで、ソ連との交渉を優位に進めていた。しかしソ連が現状で潰れるような交渉をするつもりもない。

(下手にソ連を追い詰めるとドイツに降りる危険もある。崩壊すれば後始末が面倒。ソ連を分断するまでは多少の手加減も必要か。英国も色々とヤキモキしているようですし)

 案山子同然でもソ連が存在すれば、ヒトラーは東部から完全に目を離すわけにはいかない。日本にとってもソ連が『ある程度』存続するのは好ましいことだった。
 一方、円卓の一部は日独へのカウンターとしてソ連の存続を望んでいた。勿論、彼らにとってのベストは共産主義政権が崩壊した後、ロシアが分断されることなくロシア帝国として復活することだ。
 辻はイギリスが内心ではソビエト・ロシアの分断に賛同していないことは察していた。イギリス人がどのような策をもってソ連分割を阻む真似をするか予測はできなかったが……イギリスが日本の対独、対露政策に盲従するとは露とも思ってはいなかった。

(表向きは日英協調路線ですが……そこで甘く見ると足元を掬われるのは間違いない。『信じる者は掬われる』と言ったところでしょうかね)

 そんな内心の思いを表に出さず、辻は話を再開する。

「……ロシア人にはもう暫くの間、頑張ってもらわないといけませんね」
「はい。彼らが健在である内は、ドイツ人の目は東に注がれます。ですが、彼らの台所事情は中々厳しい」
「ええ。彼らの窮状には同情さえ覚えます」

 サヴィル・ロゥ仕立てのスーツに身を包んだ英国側の交渉人『ヴィクター・ロスチャイルド』……第三代ロスチャイルド男爵はロシア人を今の窮状に追い込んだ人間の一人である辻の面の皮の厚さに改めて嘆息する。
 ロスチャイルド家は第二次世界大戦と大西洋大津波で多大な被害を被ったものの、その影響力はまだ健在だ。ましてヴィクターは現役の陸軍大佐であり、諜報機関と連携することが多かったことから、その手の伝手は多い。
 そんな経歴故にヴィクターは日英関係立て直しの一環として日本に派遣されたのだ。そのため彼は日本の政財界高官達と折衝する機会が多くあった。だが辻のような人間はいなかった。

(並の外交官より、遥かに面倒な御仁だ)

 そんな彼の思いを他所に、辻は口を開いた。

「陸戦兵器については多少頑張ってもらう必要があるでしょう。ヴァスホート(日の出)計画という面白い計画もあるようですし」

 日英はこのとき、ソビエトが進める赤軍再建計画について正確につかんでいた。
 これは日独を仮想敵として赤軍の再建と機械化を進める計画であったが、この計画を知る夢幻会の一部の面々から「ソ連版V作戦?」と言われていた。
 陸軍軍人の東条や杉山は「今のソ連は戦車作るより、パンツァーファウストをコピーして量産したほうが良いような気がする」等と呟いていたが、近衛や辻は政治面からこの計画を評価していた。

(あの計画は、ソ連人民、いやロシア人にとっての希望なのでしょう。人が生きるためには希望が必要。そう例え共産主義者でも……)

 ただし、この男はその希望の産物をシベリアの工業地帯ごと根こそぎ奪うつもりでいた。
 そしてイギリス人はヴァスホート(日の出)計画の成果のお零れを得ようと目論んでいた。

「正直、海軍と空軍の再建だけでも荷が重いのが現状です。ですので我が国としてはソ連の兵器を、より正確にはその技術を導入したいと思っています」
「残念です。我が国も事情が許せば三式戦車を供給できるのですが」

 今の日本の世論では現役兵器のイギリスへの輸出はなかなか認められなかった。
 それがわかっている故に、イギリスは陸戦兵器についてはソ連から調達することを図ったのだ。勿論、ソ連の兵器は信頼性が低いので輸入しても大半は使い物にならない。だが設計図や稼働する実物があるだけでもイギリスには十分だ。すでにイギリスはIS系列の重戦車の設計図を手に入れており、それをベースにした本土決戦用の重戦車開発を進めている。ちなみに事情を知る杉山は「赤い英軍か……未完の商業仮想戦記にそんなネタがあったな」と苦笑した。

「これで王立陸軍の再建も進むでしょう。ですが本土決戦が発生する可能性を考慮すると、アラビア半島の守りが重荷となります」

 そこで一旦、話を切ると男は横に置いてあった鞄から書類を取り出し、辻に渡した。

「ここに書いてある通り、イランはドイツの後ろ盾を得てますます強気になっています。バンダレ・アッバースに加え、インドとの国境に近いオマーン湾に面した軍港の建設も計画中とのことです。加えてイラク内でもクウェートに食指を伸ばそうとする勢力が現れています」
「……」

 辻は書類に一通り目を通すと、顔をあげた。

「そのためのインド洋演習だったはずですが?」
「我が国も戦端を開くことは考えていません。ですが万が一の場合を考えると……恥ずかしながら我が国単独では支えきれません。ですので支援をお願いしたいのです。当然、対価は用意します」

 イギリス側がまず提示したのはクウェートとサウジアラビアの利権だった。

(まぁ想定通りというべきでしょう……ですが)

 辻は首を横に振る。

「どちらもリスクが高すぎる物件だと思いますが?」

 言外に「支援をしても英軍だけで守り切れるのか?」と問いかけるものだった。辻としては現状でも特に問題ないと思っていたが、敢えて問いかけた。

「支援を頂けるのなら必ず守り切ります」
「勇ましい限りです。ですが失礼を承知で言わせてもらいますが、現状では貴方方の言葉を鵜呑みには出来ないのです」

 先の大戦での英軍の戦績は悪い。むしろ良いところを探すのが難しいというのが実情だった。日本でも「英軍がまともに勝てるのは騙し討ちをした時だけ」と酷評する者がいるのだから、英軍がどんな目で見られているかがわかる。そして英国にとって何より辛いのが、そんな評価に対しまともな反論は難しいことだった。

「……では、カナダおよびオーストラリアで産出されるウラン鉱石。これはどうですか?」
「おや、貴国で使うのではなく我が国に優先して輸出するとでも?」
「今のところ、我々に使い道はありません。原子爆弾を開発するような余力もありません。それなら、有効活用できる国に相応の価格で輸出するのが当然かと」
「……」
「爆弾以外に、原子力の活用を考えている貴国には大きな利益になると思いますが?」

 こちらの内情がある程度知られていることを改めて知った辻は、「さすがはイギリス情報部か」と内心で感嘆する。同時に防諜機関のテコ入れも急ぐことを考えた。

「……確かに興味深い提案です」

 日本の核戦力整備に必要なウランを安定的に供給することで日英の関係を実利面で確固たるものにする……それがイギリスの考えだった。

「しかし採掘は?」
「カナダについては日本の採掘権も認めます。ただしオーストラリアについては、オーストラリア政府を含めた交渉次第かと」
「ふむ……」

 カナダに日本をコミットさせようとする政策か……と辻は推測した。

(カナダの早期復興は日本にとっても利益が大きい。カナダ太平洋岸を含む北米西海岸とアラスカ南岸を中心とした経済圏が作れれば……それにメキシコがああなった以上は、カリフォルニアを監視する役割を持つ国家が一つは欲しい。だが……)

 「だが、それだけではないのでは」……そう考えた後、辻は口を開く。

「ケベック問題、ですか」

 テキサス共和国とカリフォルニア共和国の間に緩衝地帯を設けるなど、安定化が図られている北米だったが、問題がないわけではなかった。
 その問題の一つがケベックだった。大西洋大津波からの復興の遅れは現地のフランス系住民の間の不満を煽るのには十分だった。
 今のところ、ドイツがフランスを抑えているために問題は大きくならなかったが、これがいつまでも続くと考えるほどイギリス人は能天気でもなかった。

(今年初頭の大寒波はイギリスに深い傷跡を残した。本土復興は急がなければならないが……その分、カナダなどの支援は抑えなければならなくなる。その穴埋めか)

 「日本からの投資を呼び込みカナダを復興させ、豪州の安全の安全も確保しつつ、同時に懸案となっているアラビア半島防衛の負担を軽減する……それがイギリスの狙いではないか」……そんな考えを辻は抱いた。
 辻の前に座る男。

「はい。仰る通りです。ですが貴国にも利益はあると思いますが?」
「……ふむ。確かに」

 どちらにせよ、中東全域を欧州枢軸に与えるわけにはいかないのだ。辻の答えは一つだった。

「その条件で進めましょう。夢幻会のお歴々は私が説得します」
「ありがとうございます。ただ、我々も支援を請うだけでは心苦しい。我々としては日本が進める自治都市建設の手助けをしたいと思っています」
「助力とは?」
「ポーランド人の救出に加え、我が国の勢力圏で自治都市への居住を希望するユダヤ人の移送を請け負います。そして我がロスチャイルド家は彼らへの生活支援も行います」
「何百万人もの規模は考えていませんが、緩衝地帯を兼ねた自治都市として機能する程度の人数は必要ですね……」
「集まったユダヤ人達は傭兵だけでなく、様々な分野で貢献ができると思います」

 辻は薄い笑みを浮かべる。

「自治都市が日英友好の懸け橋となることを祈りますよ」
「我々も、そう願います」

 男爵が去っていくのを見た辻は瞼を閉じ、軽く息を吐く。

(暫くは頼れる同盟国がない状態が続くか……こうなると嶋田さんが進めているイタリアとの交渉ルート開拓が重要になりますね。あとは外務省か)

 イタリアに駐在武官として務めたことがある嶋田は、そのときの経験を活かしてイタリアと独自の交渉ルートを構築すべく動いていた。勿論、嶋田本人が最初から仰々しく動くと大騒ぎになるため、今は在イタリア駐在武官を通じた工作となっている。
 ちなみに軍に負けじと外務省も独自に動いていた。彼らは欧州や中南米で大きな影響力を誇るバチカンに接触した。

(ヒトラーの教皇と言われたピウス12世ですが、この状況でポーランド人を保護するとは……いやはや、なかなかの狸のようで)

 ポーランドは、もともと敬虔なカトリック国であった。周辺国から恨まれていたものの、カトリックの総本山であるバチカンがポーランド人を匿うのは分からないまでもない。
 しかしポーランド人への弾圧が激しい今、それは危険な橋でもある。だが現教皇ピウス12世はそれを敢えて行い、保護したポーランド人を日英側勢力圏に脱出させる手助けをしていたのだ。それを察した外務省はポーランド人救出を取っ掛かりに、非公式のコネクションを作ろうと動いている。
 上辺だけを見れば人道的措置と称えられそうだが、辻はバチカンの裏の思惑を薄々ながら察していた。

(仮にドイツが倒れ、ポーランドが復活したとしても彼らはポーランド人を助けたと強弁できる。それに極東のポーランド人自治都市への影響力を確保し、帝国との交渉ルートも確保できる。しかし、それにしても史実ではナチスドイツ関係者を南米に脱出させましたが、こちらでは極東にポーランド人を脱出させる手助けをするとは)

 辻はバチカンの狙いをある程度察したが、それを否定することはしなかった。バチカンがバチカンの利益のために動くのは当然であったし、何より日本にも損はないのだ。

「頼れる友好国はなくとも、話ができる国はもっと増やしておく必要がありますね」

 夢幻会の策謀によって今のところ、日本は平和と繁栄を謳歌していた。しかしそれゆえに日本を妬んだり、恨んだりする勢力は数え知れない。
 そして負の感情が高まりすぎれば、日本だけでなく世界にとって好ましくない事態が起こり得る。夢幻会としてはそんな事態だけは何としても避けようと足掻いていた。
 だが彼らの足掻きを嘲笑うかのような出来事がインド洋演習の直前に発生することになる。




「戦前のツケですかね……」

 インド洋演習が目前に迫る中、急きょ開かれた夢幻会の会合の席では、少し困った顔をした辻が軽く肩を竦める仕草をした。

「因果応報とはこのことでしょう」

 嶋田も首を縦に振って同意した後、嘆息した。出席者たちもそんな2人を咎めない。何しろここにいる人間の多くは心当たりがあったからだ。

「スペインの反日感情が、まさかここまで昂ぶるとは……」

 事が起きたのは1945年4月28日の日曜日。この日、スペインの首都マドリードで大規模な反日デモが起きていた。
 フランコ政権は国民の不満のガス抜きとして遠巻きに監視しつつ、このデモを制止することはしなかった。
 先の内戦で散々にスペイン国内を引っ掻き回した日本に対してフランコも腹を立てていたため、デモに同情的だった。勿論、感情面だけでフランコがデモを黙認した訳ではない。「この程度のデモなら対日外交に神経をとがらせるドイツも細かく口出しはしないだろう」とフランコが独自に判断したことも大きかった。
 だが数発の銃声によって、その判断は今回裏目に出る。

「デモ隊が撃たれたぞ!」

 何者かによって撃ち込まれた銃弾は、デモに参加していた若い女性の命を絶った。そしてさらに悲劇だったのが、その女性は両親を内戦で、夫をカナリア沖海戦で失っていたことだった。下手人は不明だったが、彼女の事情を知っていたデモ参加者の目には「日本の陰惨な攻撃」と映った。

「日本からカナリア諸島を奪還せよ!」
「死の商人に相応しい裁きを!」

 デモ隊の一部は激昂し過激化した。
 冷静になるよう呼びかける者もいたが、そんな人間でも反論されるとすぐに口を閉じた。

「連中は内戦をあおって俺たちから家族と金と領土を奪い、更に海軍の大半を海に沈めたんだ。そのことを忘れたのか!」

 ポルトガルを併合したと言っても、内戦と大西洋大津波の傷跡が色濃く残るスペインの経済はお世辞にもよくない。加えてスペインは先の内戦時にドイツとイタリアから借りた金を返さなければならず、それがますますスペイン経済を圧迫した。
 故に多くのスペイン国民が苦しい生活の中にあった。そんな中、一国だけ繁栄を謳歌しているのが日本なのだ。腹を立てない訳がない。

「これ以上奪われないためには、奴らを叩き出すしかない!」

 暴徒と化したデモ参加者は日系の商社が入る建物を襲撃。更に混乱に紛れて貧困層は周辺の商店やビルに押し入った。慌てたスペイン政府は暴徒鎮圧を急いだものの、暴徒の数は次第に増した。このためスペインの警護も間に合わず日本大使館も若干ながら攻撃を受けることになった。
 現地の邦人は日本大使館に逃げ込むか、イギリス大使館で保護されたため、犠牲者は少なくて済んだ。しかしこの大暴動で犠牲者が出たという事実が日本の世論を大いに刺激した。

「スペイン政府に謝罪と賠償を要求するべきだ!」

 そんな声が日本の朝野を覆った。
 日本で続発する天災を利用したこれまでの世論誘導の甲斐もあって、いきなりスペインに喧嘩を吹っ掛けようとする声はなかった。しかし多くの日本人には非戦闘員を標的にしたスペイン人の行動は、支那人の行いを連想させるものであり、スペインの印象を悪化させるのは十分だった。
 さらにフランコ政権が当初デモを静観していたこと、デモ隊を撃った犯人が不明とのニュースが入ると、この暴動の背後には実はスペイン政府がいるのではないかとの声さえ挙がるようになっていた。

「まぁスペイン政府はとりあえず謝罪と賠償に応じる姿勢を見せているし、国民も再度の大戦争は望むまい。早めの手打ちは可能だ。発砲事件については身の潔白を主張する必要があるが」

 近衛の意見に出席者たちは頷く。

「我々を陥れた人間がすでにいる。スペイン以外ではこちらの主張は受け入れられやすいだろう」

 杉山は少し楽観的な意見を口にする。しかしそのあと、「最悪の事態も想定するべきだ」と杉山は主張した。
 戦後世界に適応するため、海軍の軍政で辣腕を揮う山本は杉山の台詞を聞いて「現状での再戦には職を賭しても反対する」と言い切った。

「夢幻会が進めている技術革新と戦後の情勢に対応するためには、あと3年は欲しい。それまでは大規模な戦争は避けなければならない」

 山本は万が一、対独戦(ただし限定戦争)をする場合は昭和23年以降が望ましいと判断していた。しかしそんな山本の意見に対して嶋田は首を横に振る。

「それはこちらも同感だよ、山本。しかし戦争、いや外交には相手がいる。こちらが望まなくとも相手が望めばそれまでだ。対米戦争のように」
「うむ……」

 嶋田の台詞に、山本は黙った。何しろ欧州枢軸の内情は決して良いとは言えなかった。
 ポーランド以外の東欧地域(ハンガリー、ルーマニアなど)でも、2年連続での凶作と異常気象による打撃は大きく政情が安定していない。かつてドイツがソ連から奪い取った占領地ではパルチザン活動が活発になっている。

「帝国主義者を追い出すのだ!」
「大衆的英雄精神を発揮せよ!」

 ロシア人(彼らの場合、半ば自業自得だが)を含む被差別民族は、そう叫び各地で反抗を続けた。
 これに対処しているドイツ軍や親衛隊は少なくない消耗を強いられており、それはドイツ国民への負担となっている。今は中国人へ不信と怒りをぶつけるように仕向けているが……それがいつまでも続くと思っている人間はここにはいなかった。

「まぁ今回は何とかなりそうですが……このような事態が続けば危うい。何か手を打つ必要があるやも知れません」

 辻はそういうが、すぐに良案が浮かぶことはなかった。しかし次の日、彼らは思いもよらぬ提案をドイツ側から受けることとなる。

「イランに日本海軍を招待したい、だと?」

 首相官邸で外相・吉田茂から報告を聞いた嶋田は興味深そうな顔をする。

「それがドイツからの提案だと?」
「はい。ドイツはこのスペインの一件で日本と欧州との関係が拗れることに懸念を抱いているそうです。よって日独の協力関係が強固であることを内外に宣伝するために、インド洋演習の後で日本艦隊をイランに招待したい、と」
「なるほど……我々が仲たがいすれば、利を得るのはソ連、あるいはイギリスだからな」

 ドイツにとって軍事面で最大の脅威は日本であったものの、仇敵であり、共産主義を掲げるソビエト・ロシアが健在である以上は日本との関係を拗らせるのはよろしくない。日本側も対独関係を拗らせたくないのが現状だった。
 このためヒトラーの申し出は喜ばしいものでもあった。だがヒトラーは単に友好をアピールするためだけに彼らを招待する訳ではなかった。

「ただ、ドイツ側は最新鋭戦闘機と、帝国陸海軍の新鋭機である疾風の模擬戦も提案しています」
「模擬戦、だと?」

 一瞬、嶋田は「正気か?」と問いかけそうになったが、慌ててその台詞を喉元で止めた。

「最新鋭機同士の模擬戦……ドイツ側は自国の新鋭機によほどの自信があるのか、それとも疾風の性能を見極めたいのか……あるいはどちらもか」

 疾風のことを知り尽くしている嶋田からすれば、初期のジェット機であるMe262は圧倒できる相手だった。
 しかし相手は疾風の性能をつかんでいないのなら……友好のセレモニーと称して性能を探るために模擬空戦を申し込んでくるのも十分考えられる。

(日本がこの模擬戦を拒否すれば、疾風の性能に自信がない日本は逃げたなどとドイツに言われかねない。それはそれで、インド洋演習の意味がなくなる。それに東南アジア諸国への示しもある。子分を守れるだけの力が親玉にあると思わせなければ、体制は維持できない。だが……)

 嶋田はそこで軽く溜息を吐く。

(疾風でMe262に完勝するような事態が起きれば、黄禍論を更に煽りかねないのも事実。面倒な申込みをしてくれる……)

 暫し熟考した後、嶋田は自分なりの結論を出した。

「この際、徹底的にやるしかないか……」
「では、ドイツ側の申し出を受ける、と?」

 吉田茂の問いかけに嶋田は頷く。

「関係部署に根回しをする必要はあるが……その方向でいく。インド情勢が不安定である以上、これ以上の不安定要素は許容できない」

 ドイツ軍の最新鋭機を中東諸国の人間たちの前で完膚なきまでに叩き潰し、実力差をはっきりさせる……嶋田はそう決断した。

「しかし藪蛇になることもあり得るのでは?」
「正面から戦って勝てないとなれば、連中はインド内戦を利用するかもしれない。だが……そのためのテ号作戦だ。うまくやればインド内戦の責任を彼らにも被せることも出来る」
「……」
「それに欧州の覇者から『決闘』を申し込まれた以上、受けて立たねばならない。敵に背を向けるような姿は、他国に見せられない。環太平洋諸国会議も近いからな」

 一旦、そこで話を切ってから嶋田は吉田の顔を見る。

「また武力に頼ることになるのが不満、と?」
「正直に言えば不満です。ですが、今はそれが必要とも思います」

 そんな吉田の率直な感想を聞いて、嶋田は苦笑した。

「それで良い。『軍事力が全て』のような今の風潮のほうが間違いなのだ。私の後を引き継ぐ人間には、そこの是正をしてもらいたいと思っている」

 そういうと嶋田は苦笑する。

「もっとも、武力で戦前の逼塞した状況を打破した私が力説しても、説得力などないだろうがね……まぁ良い。ご苦労だった」

 話を終えた吉田が出ていくのを見た嶋田は、窓越しに官邸の外を、正確には帝都の空を見る。

「疾風が中東に吹く、か……その風で山積みの諸問題を一切合財吹き飛ばしてくれればこちらとしては助かるが……そうはいかないか。それにスペインでの発砲事件もある。下手人は今だ不明。一部の人間は日本を疑っている」

 ソビエトとアメリカ財界、そして中華思想の狂人の暗躍が日米開戦の一因になったことから、今回の一件も何者か、或は複数の勢力の思惑の結果ではないかと言う考えが嶋田の脳裏によぎっていた。当初は「疑い過ぎだ」と思ったが、そのような疑念を拭い去ることが出来なかった。

「出る杭は打たれる。ならば、出過ぎた杭は……」

 そのあとの呟きは、誰にも聞かれることなく部屋の中に消えていった。








あとがき
提督たちの憂鬱外伝戦後編14をお送りしました。
さてスペインでの反日暴動が切っ掛けとなり、イランの空で疾風対Me262(模擬戦ですが)が実現します。
ただしその前にまずはインド洋演習ですが……まずイギリス空軍と海軍がここで疾風の洗礼を浴びることになるでしょう。
まぁ疾風以外にも出る兵器はありますが……。
拙作ですが、最後まで読んでくださりありがとうとざいました。
提督たちの憂鬱外伝戦後編15でお会いしましょう。