1944年末から1945年初頭に世界各地(特にユーラシア)で猛威を振るった異常気象は、各地に大きな傷跡を残していた。
 西ヨーロッパ諸国では大雪によって交通インフラがマヒ状態に陥った上、農畜産業が大打撃を受けた。このため復興途上の各国は少なからざる打撃を被ることになった。
 中でも、津波で国土に大打撃を受けていたイギリスとフランスにとっては泣きっ面に蜂どころではなかった。折角、津波から立ち直ろうとしていた時にこの大寒波なのだ。もはや『呪われている』と言われても納得できる状態だった。

「3年前の津波から、碌なことがない」

 バーのマスターは、自宅から見えるロンドンの様子を見てそう嘆息した。
 イギリス政府は可能な限りの手を打ったが、市民は大きな影響を受けた。勿論、それが政府への不満を助長させたのは言うまでもない。
 イギリスファシスト連合はこれを好機と見て、総選挙において積極的な選挙戦を行い、史実の凋落ぶりが信じられない大躍進を成し遂げた。ただし、この選挙は楽勝と言う訳ではなかった。

「既存の政治家の手腕にも疑問があるが……」

 既存の政治に不満はあるが、実績がなく、能力が未知数の人間に完全に自国の運命を委ねるのも憚れる……そんな人間が少なくなかった。
 党首であるオズワルド・モズリーがヒトラーと親しい人間であるとの情報も、一部の各地の有力者や選挙民に負のイメージを与えていた。
 これに加え、イギリスの総選挙でモズリーが率いるイギリスファシスト連合が勢いに乗っているとの話を聞いたイギリス連邦諸国と親英諸国は軒並み眉をひそめた。

「植民地人の次は、ドイツ人の片棒を担いで、日本人と戦争するつもりと思われかねないぞ」

 イギリス本国政府がドイツに靡いた瞬間に英連邦諸国の大半と華南連邦が落ち目の本国を切り捨て日本に接近するか、本国と距離を取るとの認識を持っている人々は、そう憂慮した。
 実際、華南連邦やカナダ、ニュージーランドは、万が一の時はいち早く日本側につく算段だった。

「イギリスと心中をするつもりはない」

 汪兆銘は非公式にだが、連邦の有力者たちの前でそう断じた。
 白人国家であるニュージーランド、カナダといった国々でも、イギリス本国の巻き添えはご免だという考えが主流だった。
 確かに白人のプライドというものは彼らにもあるが……残念ながらプライドで国土は守れない。ドイツが自分たちを守り切れるなら話は別だが現状では欧州防衛さえ儘ならない有様なのだ。ましてナチスドイツは条約、あるいは公約破りの常習犯。これでは到底、ドイツを信用することなど出来ない。

「黒色の強盗と黄色の武装商人。どちらをとるか? 答えは決まっている」

 そのような声に対し、モズリーは「自分はドイツの走狗ではない」と主張し、栄光ある大英帝国の再建を掲げた。
 日本の明治維新を例にだし、今が改革の時だと訴えた。また日本を筆頭にした諸外国の不安や不信を払しょくすべく、積極的にマスコミの取材にも応じる等あらゆる手を打った。中でも日本のマスコミに対しては、どんな小さな新聞社や出版社であっても丁重な扱いを心がけた。

「日本の記者が来たら、最優先で知らせてくれ。それと彼らを待たせる間、絶対に失礼がないようにしろ」

 モズリーは秘書にそう厳命した。
 何しろ『モズリーが政権を取ったら、再び裏切るのではないか?』と疑念の視線を向ける日本国民は少なくなかった。モズリーが裏切り上等のイギリス人で、更にヒトラーの同類のファシストと聞いて何とも思わない日本人はいない。
 モズリーも自分が色眼鏡で見られる可能性が高いことをよく分かっていたため、その疑念の払拭に全力を挙げた。
 その結果が、大躍進だった。だがあくまで躍進であって既存の政党を完全に排除できるものでもなかった。特に労働者の保護を掲げる労働党は困窮に喘ぐ労働者たちから強い支持を受けており、無視できない勢力を維持していた。

「……些か不本意だが、政権は奪取できた。あとは実績を積むだけだ」

 新首相となるモズリーは党本部でそう嘯いた。
 新首相となるモズリーがまず取り組むことはインド洋演習。彼はこの演習を日英関係の再構築のための第一歩と捉えていた。

「大英帝国を復活させるために、王立海軍が未だに健在であることを日本人とドイツ人、そしてアラブ人に示さなければならない」

 イギリス海軍の軍事的プレゼンスが未だに無視できないものであることで、日本に自国の利用価値を再認識させ、同時に中東・インド問題でも優位に立つのがモズリーの狙いだった。
 尤もその前に混乱が拡大しているインドへの対応もあり、イギリス政府にとって頭の痛い問題は山積していると言えた。
 日本側もインドの混乱には憂慮していた。

「インド南部は辛うじて落ち着きを取り戻しましたが、被害は甚大です。またベンガルではこれまでの経済的混乱と飢饉で300〜400万人が死亡したとの情報も入っています」
「「「……」」」

 夢幻会の会合で田中局長から告げられた情報は、会合の面々の顔を顰めさせるには十分な内容だった。
 さらに田中から回されたインド南部の現状について記された書類を一通り読むと、数人が顔をひきつらせた。衝号の真相を知る一部の人間は表向きは驚く表情をしながら、「また死体の数と瓦礫の量を増やしたか」とこっそりため息をついた。

(史実のベンガル飢饉と同レベルの災厄が起きているということか……あれはある意味、人為的なものだったが、いやこの世界の飢饉も人為的なものか。チャーチルの役割を我々が担ったと言える。全く、世界というのは本当に皮肉に溢れているな)

 皮肉気な笑みを軽く浮かべた後、嶋田は田中に尋ねる。

「インド洋演習を行うことに問題はない、と?」
「セイロン基地はイギリス軍が威信をかけて機能を回復させています。イギリス政府も演習を実施するつもりです」
「……ふむ、なら問題はないか。しかしインド演習後も、インド内戦が起きないとは限らない。テ号作戦についても手を抜く訳にはいかない」

 嶋田は嘆息する。

(何はともあれ、我が国の国の負担は軽くなる気配はない……やれやれ、楽天的な見方ができるのはいつの日になることやら)

 戦後世界に備えるための軍事力の整備、東南アジア諸国及び北米西岸諸国への支援、そして新領土開発とやるべきことは目白押しだった。
 北米情勢が曲がりなりにも安定していることが幸いだったが、インドや中東情勢に足を取られれば日本はその負担に耐えられなくなる可能性はないとは決して言えない。また、昨今の情勢から食糧確保が至上命題である以上、労働力となる青年を大々的に徴兵するのは憚れる。今後、出来るだけ大規模な戦争は避けなければならない状況と言える。

「暫くは、国家の存亡を賭けた綱渡りを続けなければならないと言う訳だ」

 そう呟いた後、嶋田はごく僅かながら苦い顔をする。

(いやはや、ベンガルだけで300万〜400万の死者、インド全体では500万以上の犠牲者が出ている、いや犠牲を強いたのを聞いて『問題ない』、か。『一人殺せば殺人者だが何百万人殺せば征服者になれる。全滅させれば神だ』……フランスの生物学者・哲学者、ジャン・ロスタンの言葉だったな。この世界のヒトラーが東欧の征服者なら、我々は何と定義されるのやら……まぁどちらにせよ、碌でもない評価だろうが)



           提督たちの憂鬱外伝 戦後編13



 イギリスに続いて3月に行われた日本の総選挙は、事前の予想通り、与党である政友会の勝利に終わった。
 そしてその直後には内閣改造が行われ、第二次嶋田内閣が発足した。そして第二次嶋田内閣では副総理として北白川宮成久王が入閣した。

「世界には幸腹が足りない!」

 料理家である北一輝と大の親友であり、緑の革命を推進している男は入閣後、山本など非夢幻会派を除いた上で、某料亭で開催された会合の席でいきなりそう言い放った。

「こ、幸福ですか?」

 嶋田の質問に、科学者を思わせる男、北白川宮は首を横に振る。

「『幸福』ではなく、幸せな腹と書いて、幸腹だ」
(((それって単なる造語じゃないのか?)))

 誰もが内心で突っ込んだが、目の前の男は陸軍大将であり、陛下と親しい高名な学者でもあり、夢幻会が進める『緑の革命』を実現するのに必要な人材でもあったため誰も失礼なことは言えなかった。そもそも彼は皇族なので、当人に無礼を働くということ自体が論外と言えたが……。

「え〜すいません。『幸腹が足りない』との言葉の意味は?」
「腹一杯、美味しい物を食べれないということだ。人間、誰しも腹が減ると苛々するもの。社会を安定させるには飢えを根絶すること、これが必要だ」
「なるほど、それが殿下の信条、と」
「その通り。まぁパソコンが一家に一台あるようにするとの夢も結構だが、私は貧しい者でも美味しいものを、美味しく食べれる社会を重視している」

 辻や阿部は「やはり、この手の問題については打ってつけだな」と囁きあい、他の面々も納得したように頷く。
ただし中には「北の奴、殿下に何か吹き込んだのか?」と思う人間もいた。北一輝はこの世界では転生者であり、前世の仕事柄や趣味の影響でこの世界では料理人として大成していた。彼は自分の店も持っており、その店では政府高官が集う夢幻会の会合さえ開かれるようになった。
 ただし、料理の腕については誰もが認めるレベルで、カリスマ料理人とも呼ばれるものだったが……その性格は「倉崎のご隠居が料理にはまったらあんな性格になるんでしょう」と言われる類のものであった。
 嶋田は「ああ、またこの手の変人か……なぜ、転生した人間にはこうもアグレッシブな人間が多いのだろうか」と半ば達観すると同時に、「吉田茂が登板するまで、内政で成果を上げてくれれば軍部重視も収まるだろう。それに吉田内閣が今の内閣と直接比較されることもなくなる」と考えた。

(軍部の鼻息が荒い今、中継ぎでも、下手な人間を次の首相にはできないからな……)

 昨今の天災に対する迅速な対応、そして中華民国北京政府へ迅速かつ完璧な鉄槌を下したことで軍部の支持は高止まりだった。
 特に中華民国北京政府への容赦のない追い打ちの数々は、国民から拍手喝采を浴びた。戦前の記憶がまだ生々しいため、国民にとっては爽快な政策だったのだ。 更に頭が痛いのは、そういった気運に乗っかり、強硬論を唱える一部の政治家だった。強硬な世論に迎合して中道派や穏健派を詰るような演説は、嶋田からみて鼻白むものだった。

(まぁ最大の問題は、強硬派の拠り所が俺と言うことか……)

 そんな問題児が多い強硬派から支持を受けているのが他ならぬ嶋田だった。
 対米戦争を率いてアメリカ合衆国を降し、サンタモニカ会談ではヒトラーと互角以上に渡り合い、ヒトラーさえ倒せなかったスターリンを排除した男が嶋田なのだ。
 戦後は比較的穏健な政策に転換したが、ここにきて中華民国を完膚なきまでに叩き潰したことで内外では日本を代表する『タカ派』の印象が強まっていた。

「能ある鷹は爪を隠す、とは総理のことを言うのでしょう」
「元帥は日本刀のような存在です。普段は鞘に収まっているが、いざとなれば立ち塞がるものを躊躇することなく一刀両断ですから」

 かつて強硬派の面々のお世辞を聞いたとき、嶋田は顔が引きつりそうになるのを必死に我慢した。

(だからこそ、次の総理は陸軍出身で、かつ穏健で、内政重視の人間が必要なのだ。それにしても強硬な海軍と、穏健な陸軍とはどんな皮肉だ)

 海軍軍人である嶋田が強硬政策を唱えて対米戦争を勝ち抜いたこと、片や陸軍が日米共同の満州経営で培った伝手を使って非戦のための対米交渉に関わっていたことなどから、巷では強硬な海軍と穏健な陸軍という印象が広まりつつあった。故に陸軍出身で、皇族である北白川宮が次の首相として登板するのは大きな意味があった。

「……それでは殿下、緑の、いえ『稲荷計画』の音頭をお願いします」
「うむ。万難を排して、必ずや達成して見せる」

 頷く北白川宮を見て、一同は安堵した。
 稲荷計画。それは『緑の革命』による食糧増産計画を基幹とした食糧政策の総称だった。
 これは単なる食糧の増産に留まらず、日本勢力圏内の諸国(特に東南アジア地域)での飢餓を根絶、或は大幅に減らすことで自国勢力圏の安定化を図るものだった。
 そしてその音頭を皇族である北白川宮に取らせることで、日本の皇族の権威を更に高めつつ、次の首相となった北白川宮の下で文官の復権を図るというのが夢幻会の裏の狙いでもある。

「しかし緑の革命で我々の穀物生産能力が向上すれば、白人たちがまた煩くないかね?」

 北白川宮の懸念に辻は首を横に振る。

「欧州諸国は決して弱体ではありません。テキサスやアルゼンチンなどは穀倉地帯として有望です。それに彼らは使い潰せる膨大な労働力を持っています。ウクライナなどの黒海沿岸地域、アフリカを開発すれば、飢えることはないでしょう」
「……まぁ『一級市民』が飢えることはないだろうが、それまでに旧ポーランド領やアフリカなどでは大量の餓死者が出るな」
「人口爆発が起きるよりは良いでしょう。まぁ盟友であるポーランドの市民については、自治都市に脱出させますが……あくまで技術者、技能者に限ります」

 自治都市はショーケースであり、日本の新領土となった東遼河(遼寧東部)の盾でもある。
 故に辻も自治都市建設のために十分な支援をするつもりだった。だが同時に目立った技術や技能もない一般人まで無制限に受け入れるつもりはない。

(ポーランド人の数が増えすぎると、碌でもないことをしかねませんからね……まぁ自由フランスやユダヤ人を牽制しあわせれば、当面は問題ないでしょう。 正直に言うと、ユダヤ人は扱いが面倒なので、あまり積極的に関わり合いになりたくはないのですが、まぁ仕方ないでしょう。イスラエルも欧州枢軸の圧力で安住の地とは言えず、北米のユダヤ金融の基盤は津波でほぼ消滅。金も力も、安住の地も失った今、暫くはこちらに噛みつくことはない筈)

 ちなみに自由フランスについては、少なくない船舶を保有していたため、海運の分野で日本に貢献していた。
 フランス本国に帰らなかった(帰れなかったとも言う)人間たちはナチスに蹂躙され、ナチスの傀儡となった祖国を、祖国にあらずとして極東の地にフランスの理想を再興しようと意気軒昂だった。
 このフランス人の試みが成功すれば、フランスは日独の2つの陣営で別々に独自勢力を維持することになる。そうなれば万が一、日独が再戦して片方が勝者となってもフランスは名誉ある立場を得ることが可能となる。
 尤もこの場にいる面々にとって欧州枢軸勢力圏で餓死する人間や使い潰される人々の悲劇など大した問題ではなかったので、すぐに脇に置かれることになる。
 北白川宮は自分の専門分野に立った見地から、提案を行った。

「将来の遺伝子工学に必要な資源の確保も急いで進める必要がある。こちらも梃入れを行うべきだ」

 この意見に反対する者はいなかった。
 世界各地の植物の中には、将来の遺伝子工学の発展に必要なキーとなる遺伝子が眠っている。その分野での先駆者を目指す日本にとって、世界各国がその価値に気付く前に、可能な限り収集することは必須だった。

「華南地方、中南米、オセアニア、東南アジア……調査団を派遣しなければならない地域は多い」
「表向き、植物学者による学術調査としておけば、そうそう怪しまれることもないでしょう。表向きは激変しつつある地球環境の影響の調査とでもしておけば何も言わないかと」

 辻の意見に出席者は頷く。だが嶋田は苦い顔をする。

「生物資源の価値に気付かれたとき、世界が津波で混乱している隙をついて貴重な資源を途上国から略奪した、と言われそうですが」
「当時は違法行為ではなかった、そう言い切ればいい話です。多少の批判を恐れていては何もできません」

 辻の強気な意見に北白川宮は同意する。

「あの大津波によって世界の歴史が決定的に変化した今、未来知識が活用できる分野では積極的に活用し、利益につなげるべきだ」

 北白川宮の言葉は、衝号作戦に関わった者達に突き刺さった。
 実際、あの大津波によって夢幻会が持っていた未来知識の内、少なくない情報が役にたたなくなった。それは日本をこれまで支えてきた夢幻会の力が減衰したと言われても過言ではない出来事なのだ。北白川宮など衝号作戦の真相を知らない人間たちが拙速を望むのも一理あった。

「うむ……」

 衝号作戦の真相を知る者達は視線を交わして同意するように頷く。

「ただ、アフリカに調査の手を伸ばせないのは面白くない」
「殿下はアフリカも調査したい、と?」
「昨今の異常気象と情勢悪化で、かなりの数の植物が絶滅の危機にあることを考慮すると……焦燥感にかられるのは事実だ。だがアフリカの現状を見る限りは調査を容易には行えまい。可能なら私自ら行きたかったのだが……」

 それが冗談ではないことを理解した出席者たちは顔を引きつらせるか、或は天を仰ぐ。
 この宮様は、珍しい生物や植物があると聞けば、自ら出向かずにはいられない男なのだ。58歳という歳にも関わらず、その行動力は全く衰えていない。

「我々もアフリカの価値は承知しています。ベルギー領コンゴを拠点として活動を行っています。帝国総合商社をはじめ、複数の国策企業も現地に進出しています。ですが欧州列強の目に気を配らなければなりません。何しろアフリカは欧州側のテリトリー。その上、現地の情勢は決してよいとは言えないので」

 西アフリカの大西洋沿岸一帯も、大西洋大津波によって被災していた。
 沿岸部の再建も進められているが、欧州列強は本国再建を優先しているため、その復興は欧州に比べて遅かった。この状況で更に異常気象がアフリカを襲ったため現地住民は更なる追い打ちを受けていた。これに加え、フランスは植民地の本国化を行うため、そして口減らしも兼ねて反抗的な現地住民の粛清を進めている真っ最中なのだ。
 ついでに津波の影響でフランスの植民地となったアフリカ西部ではベルベル人とアラブ人の対立さえ起きている始末であった。
 何はともあれ、アフリカよりもより安全な自国勢力圏内やイギリス側勢力圏を重点的に調査していくことが決まった。

「それでは、今回はここまでで」

 この嶋田の締めの言葉で、北白川宮を含む出席者の大半は退出した。そして衝号作戦の秘密を知る者だけが場に残った。

「……あの作戦の代償はあまりに大きかったですね」

 嶋田の言葉に、全員が頷いた。少し目を閉じた後、近衛は嶋田に視線を向ける。

「現地での証拠の隠滅は?」
「調査団の報告では、問題ないそうです。関連施設はほぼ消滅していました。火山活動もまだ完全に収まっていないので証拠は見つかりにくくなります」
「書類は?」
「海軍のものはすべて破棄しています。陸軍は?」
「同様だ。それに大西洋側からの米本土攻撃作戦は欺瞞も兼ねて『捷号作戦』としていたから、衝号の名前が多少出ても『それ』と混同されるだろう」

 杉山の返答を聞いて、関係者は安堵する。

「今年中には、欧州列強の調査団をラ・パルマ島に迎えても問題ないか……」
「欧州列強も煩いですからね」

 嶋田の言うように、欧州列強の圧力は日に日に増しており、いつまでも調査団の受け入れを拒否するのは難しくなっていた。

「世間では神風だの、神波だのと言われていますが……」
「おかげで、神道や仏教に対する信仰はうなぎ上りだ。ああ、ロシア正教もだな。寄付に浮かれた宗教関係者や金の匂いを嗅ぎつけた連中が怪しげな動きをしないように釘をさす必要もある」

 近衛はため息をつくと、視線を田中に向ける。

「欧州や北米は?」
「はい。西海岸諸国ではキリスト教の権威は失われつつあります。欧州でもキリスト教への信仰は大きく揺らいでいます。ただしこちらでは逆に宗教に救いを求める者も現れており、過激化する傾向があります。この手の勢力が台頭すれば帝国にとって好ましくない事態に発展するでしょう」
「ふむ……」

 宗教が如何に手強いかを知っている面々は、難しい顔をする。だが悪いニュースはそれだでは終わらない。

「旧アメリカ合衆国領内、特にアメリカ風邪の大流行の前、正確には防疫線が完成する前に東部から脱出することができた難民の中には終末思想と言ってもよい思想に囚われる者も現れ始めています。今の境遇に不満を持っている人間ほど、過激な思想にとらわれやすいようです」
「「「……」」」

 日本を含めて列強諸国は自分たちの都合から旧連邦政府を悪とし、防疫線を形成して東部地域を切り離した。
 防疫線構築後、新たに押し寄せた難民は『滅菌』の大義名分の下、多くが殺害された。だがアメリカ風邪の脅威が明らかになる前、つまり防疫線が完成する前に西部、南部に流れ込んだ後、アメリカ風邪に感染していないことが確認された難民まで殺すことは出来なかった。
 北米に割拠する各国政府は不本意ながら彼らをキャンプなどで隔離するなどして、生活の場を与えている。テキサス共和国では旧東部出身者から兵役に耐えられる人間を集めて二線級の部隊を編制し、治安維持などに利用するなどしているが、彼らの待遇はお世辞にも良いものとは言えないのが現状だった。
 まして南部や西部では、東部から流れ込んできた人間は厄介者扱いが多く、下手をすればかつての黒人並に差別されることさえある。そんな状況に不満を抱かない人間などいない訳がなかった。

「このままだと、不満をため込んだ旧東部出身者がテロリストと化す、と?」
「可能性は十分かと」

 ため息しかでなかった。

「まぁ幸い、西海岸諸国の東にはロッキー山脈や緩衝地帯となる国々があります。我々の負担は少なくて済むでしょう」
「片やドイツとイギリスの負担は増す……やれやれ、また恨まれるか、それとも懐疑の目で見られるか」

 北米を分割した後、欧州枢軸と違って、日本は西海岸の安定化と防壁となる緩衝国家の建国を行うなど『防衛』に主眼を置いた。権益の拡大も消極的だった。
 常に陰で暗躍し、欧米列強の先手、先手を打って利益を掻っ攫ってきた日本とは思えないほど慎重な動きを訝しむ者たちも多かった。もしも旧東部出身者のテロリスト化という弊害が現れれば『日本人陰謀論』のような説が唱えられる可能性は否定できなかった。

「最悪は、東欧のような光景がアメリカ南部で現出する……何とも言えない光景だ」

 近衛の台詞を聞いた面々の脳裏に、東部出身者をロシア人やユダヤ人、ポーランド人のように駆逐していく親衛隊の姿がよぎる。

(この場合、防疫線の破壊を企む『悪』のテロリスト集団を殲滅する『正義』の親衛隊という図式になるのか?)

 史実を知る人間からすれば、SAN値直葬と言ってもよい構図を思い描いた嶋田は乾いた笑みを浮かべる。

「何はともあれ、北米への深入りを主張する連中を牽制する材料にはなる」
「ですね。あと、東部出身者の問題が顕在化すれば、欧州枢軸が北米で必要以上にちょっかいを出してこないようになるかも知れません。いえ、むしろ北米方面における共通の敵として我々が協調できる材料にできるかと」
「陸軍としては助かる。RS○Cの真似事はご免だからな」

 杉山の意見に嶋田は頷いた。
 そして幾ばくかの意見交換の後、話題はカリフォルニア共和国に移った。

「北米ではカルト宗教が台頭する一方で、神道や仏教など日本の宗教に対する関心が高まっています。カリフォルニア共和国では日本文化の研究として日系人が各機関に多数登用されているとのことです。かのマッカーサー将軍も日本の研究を行っているとの話もあります」

 これを聞いていた杉山は苦笑する。

「あの大津波で欧米は神に対する信仰が揺らぎ、夢幻会では未来知識の絶対性、いやその信頼性が揺らいだ。いや、その揺らぎを利用して組織の統制を強化したのだからそれを嘆くのは筋違いか」
「ですが、揺らぎは同時に焦りを生み、拙速を重視する声も出ています。当面は慎重に動きたいところですが」

 そう言うと、辻は横に置いた鞄から書類を取り出す。これを見た近衛は興味深そうな顔をする。

「これは、円卓から?」
「ええ。クルド人問題や宗教問題のような厄介ごとを見た紳士の方々は、『面倒事』から手を引くつもりのようです」

 辻はそう答えた後、「面倒事の押し売りはご免なのですが」、とつぶやいた。
 世界的な異常気象は食糧価格の高騰を招いた。そのしわ寄せは当然ながら、少数民族や被差別民族に向い……世界各地で民族対立が煽られることになった。
 インドではトラヴィダ系(南インド)とアーリア系(北インド)やカースト制度の問題が噴出していたが、中東では異常気象を切っ掛けにクルド人問題が火を噴き始めていた。
 ポーランドやロシアではドイツが、アフリカではフランスが反抗的な民族を抹殺し、その行為を日本やイギリスが表だって批判しないのを見た各国がクルド人に対して穏健な政策をとる訳がなかった。更に頭が痛いのは、宗派間や部族間でも対立が起きつつあることだった。
 この問題に頭を痛めているのが近衛だった。彼は中東問題が飛び火することを恐れている。イギリスは面倒事はご免とばかりにイランから手を引く態度を見せており、一連の問題をドイツに押し付ける気満々だ。

「しかしイランは兎に角、イラクからもあっさり手を引くとは……」
「イギリスの一連の失態と失墜劇で、中東での親英派も凋落の一途ですから。まぁアラビア半島が維持できるだけでもまだ『マシ』というものでしょう」

 辻は意地悪気に唇をゆがめた。

「二度も血と汗を流した有力な同盟国をあっさり切り捨てた『実績』は『誰も』無視できません。ああ、先日まで同盟を組んでいた軍を後ろから撃ったという実績もありました。ついでに、つい先日に裏切った元同盟国と先日までの敵国と協力して、先日まで手を組んでいた国を分割統治もしていますね」
「……まぁ、外交交渉では色眼鏡で見られるでしょうね。外交で裏切りはよくあることですが、こうも短期間にころころ組む相手を変えていると」

 嶋田は複雑そうな顔をして同意し、近衛は苦笑する。
 そして杉山は軽く息を吐いた後、呟くように言う。

「何はとも大英帝国は落日を迎え、アメリカ合衆国の代わりにドイツが中東のプレイヤーとして参戦。彼らにとって3B政策の夢よ再び、といったところか」
「ええ。おまけに欧州の大半と北米南部も征服したのです。先の大戦で苦汁を呑んだドイツ人からすれば、まさに夢のような話と言えます」
「それを言ったら、我が国も、いえ10年前の我々自身も同じ反応を示すと思いますよ」

 そう言った後、嶋田は苦笑し、他の面々も頷く。
 何しろ、今の日本帝国は文字通り『日の沈まぬ帝国』となっている。10年前の嶋田達が描いた未来とは180度ベクトルがずれているのだ。

「何はともあれ、今は未来を見て動くしかない。過去を懐かしんでも実利はない」
「……近衛さんの言う通りですね」

 辻はそう言って話題を元に戻す。

「我々がインドで苦労するのです。ドイツ人にも苦労してもらうとしましょう……ただ、アラビア半島に陣取るイギリスへの支援も必要不可欠ですが」
「それはイギリスからの要請ですか?」
「ええ。イギリスはサウジアラビアやクウェートの利権を餌に、我々を中東に引っ張り込みたいようです。ユダヤ人団体の中にはイスラエル建国に日本を巻き込めないかと画策する者もいるとのことです」
「……まさかと思いますが、サウジアラビアに派兵しろとか、イスラエル建国に協力するなどとは言わないでしょうね?」

 嶋田が顔をひきつらせつつ、辻に尋ねる。横で聞いていた杉山も若干、顔が強張っていた。それを見た辻は肩をすくめるしぐさをする。

「それこそ、まさか、ですよ。中東情勢に首を突っ込める余力はありません。余力があっても、あんな面倒な場所に好き好んで手を突っ込む真似はご免ですよ」

 安堵する面々。
 中東情勢は部族、宗教、民族と様々な問題が混在している地域であり、迂闊に深入りすれば大火傷するのは確実なのだ。

「ただ、ブルガン油田などのクウェートの利権と引き換えにイギリスへの支援を行うことついては考慮する必要があるでしょう」
「欲張らなければイスラム教徒もそう文句は出ないはず。巡礼船を出して、イスラム教徒と関係を深めた甲斐があったというもの」

 近衛の言葉に全員が頷く。
 そのあといくつかのやり取りをした後、会議は解散となった。

「しかし相変わらず、問題は山積み。全く……」

 議論が終わった後、嶋田は思わずため息をついた。
 大日本帝国の統治の実務を担う者たちからすれば、現在の状況は問題だらけだった。

「しかし相対的に見れば、我が国が一番マシなんですよね」
「救いはないんですかね? 辻さん」
「救いは降ってわいてくるものではないですから」
「己でつかめ、と」
「かつて対米戦の前に、嶋田さんが言ったではないですか。通る道が無ければ道を作るだけですよ」
「……やれやれ」




 戦後世界を生き抜くために夢幻会は四苦八苦していたが、辻が指摘した通り、表面上、日本は列強諸国の中では最も調子が良かった。
 アメリカ合衆国という経済大国が消滅した影響は無視できるものではないが、東南アジアのほぼ全域、北米西岸を勢力圏に組み込み、更にソビエトという絶好の鴨を手に入れたことは日本にとって大きなプラスだった。

「次は日本の時代だ!」

 多くの日本人はそう言って憚らなかった。
 そして国外に商機を見出した人間は、積極的に外国に打って出た。
 ある者は南北米大陸、ある者は東南アジア、ある者はソビエト連邦。既存の大財閥と違ってフットワークが軽い者達は、新たな市場を夢見て動いていたのだ。
 そしてそんな日本人を見て鼻白む者もいれば、新たな富裕層となりえる日本人を取り込もうとする者達も欧州に現れることになった。
 『スイスのリヴィエラ』とさえ言われるレマン湖畔にあり、多くのセレブに愛されるリゾート地『モントルー』。そこに並ぶ優美なホテルの中でも由緒あるホテル『ル・モントルーパレス』の一室にいる二人の男女。かつて旧アメリカ合衆国に所属していた彼らは、新たな雇用主の命令を受けて、欧州の情報収集に当っていた。

「ドイツは本国で不足する労働力をポーランド人やロシア人で賄う気か……」

 男は報告書を見てやや苦い声色で呟いた。
 報告書には占領地で行われている物資の徴収や強制労働、そしてその成果が記されていた。その内容は良識ある人間からすると鼻白むものであった。
 強制労働に従事している人間の数は100万以上であり、その労働環境は過酷という表現では生ぬるいものだった。しかしその強制労働がドイツの占領政策を支えていた。
 ナチスドイツの元来の政策では、ウクライナ人もスラブ民族であり排除の対象なのだが、その政策が本格的に動き出す前にあの大津波が起きたため、政策が転換されたのだ。
 そしてドイツ人の力でウクライナ人がロシア人のくびきから解放されたため、これを見たソ連邦内部の少数民族の間では独立機運やドイツに通じようとする動きが起きていた。
 ソ連が日本に資源を貢いでまで、工業化を図っているのもこれらの事情が大きく影響していた。何しろ次に負けたら、共産党関係者とロシア人は周辺の民族による復讐を受けることが確実なのだ。そしてその復讐がどれだけ凄惨なものかはポーランド人の現状が示している。

「フランスやスペインは復興を急いでいるが……」

 ドイツ以外の欧州諸国の行いも戦前であれば国際的に批判されること間違いなかっただろう。だが、『今』は各国の政策を表立って批判する声は挙がらなかった。
 女はテーブルに置かれたワインを一杯口に含むと、口を開く。

「彼らは時計の針を100年以上まき戻すつもりのようです」
「……レッド・ベアが力を失い、テディ・ベアが滅びた後に来たのが、19世紀以前の帝国主義全盛期の世界とはな」

 史実ではCIA長官になり、この世界では偉大な祖国を失った男、アレン・ウェルシュ・ダレスはなんとも言えない顔になった。
 彼は欧州におけるアメリカの諜報活動を管轄していた男であり、彼の兄も優秀な政治学者として一目置かれる存在だった。アメリカが戦争に勝っていれば、彼には明るい未来が待っていただろう。
 だが日米戦争によるアメリカの敗北と崩壊(実質的にはアメリカの自爆)が、それを変えた。
 共産主義の巣窟だの、対日開戦謀略に加担しただのと言われた国務省出身者は瞬く間に肩身が狭い思いをするはめになった。
 情報機関の人間は日本軍の実力を見抜けず、でたらめな情報を送って米軍を敗北に追い込んだとさえ言われて白眼視されることが多かった。

「判断を誤ったのはワシントンと一緒に沈んだ上層部だ!」

 実際に情報収集に当たった人間達はそう反論したものの、誤った情報を基にした結果、前線で多大な被害を受けた者達の感情は容易に収まらない。
 ハルゼー大将やフレッチャー中将、旧在中米軍関係者は情報部に対して不信感を募らせており、カリフォルニア軍情報部の人間は針の筵だった。
 このような旧アメリカ情報機関の関係者に声をかけているのが日本だった。ダレスも一度スカウトを受けたが、彼は断った。彼はアメリカ合衆国の精神的後継者であるカリフォルニアに仕えることを選んだのだ。それは彼にとって一種の贖罪だった。

「あの津波が全てを変えてしまった」

 何度目になるか判らない呟きをダレスは漏らす。
 女は聞き飽きた台詞に苦笑するが、それを否定しない。何故ならそれは事実だったからだ。

「ここも随分変わってしまいました」

 世界大戦中、中立国としての立場が保証されていた頃のスイスには、欧州の名家が戦火から逃れるべくこぞって避難していた。そして名家の『青い血』を求める新興財閥もスイスに出入りした。勿論、中立国であるスイスには各国の諜報機関が集い、自国の国益を少しでも確保するべく骨肉の争いを続けていたため、名家と新興財閥群のパーティーすら各国の駆け引き、陰謀の場となった。
 だが戦争が終わり、サンタモニカ会談で新たな世界秩序が決まるとスイスの中立は失われていった。ドイツは武力だけではなく経済でもスイスに浸透していった。日英は枢軸の勢力圏の奥深くにあるスイスを助ける力はなく、むしろスイスの優れた技術がドイツに接収されるのを恐れて、ドイツに先んじて技術者(特にユダヤ系)をスイス国外に連れ出す始末だった。勿論、スイス銀行に置かれた資金も引き上げた。

「約束破り上等のナチスドイツによって、何時強奪されるか判らない場所に大金は置けない」

 日英の資本家はそう言ってスイス銀行から次々と資金を引き出した。
 そしてそれに取って代わるように枢軸諸国からの資金が流れ込み、ますます枢軸諸国の影響力が増すことになった。これを見た欧州の名家もスイスを安全地帯と見做さなくなり、新たなプレイヤーとなった日本資本が集まる北欧諸国に向かうようになった。

「北欧では日本の華族とサヴォイア家がパーティーを開いたと聞きます」
「時代の流れだろう」

 そして北欧が華やかになるだけスイスが寂れ、それに付け込むように枢軸の人間が入り込むようになり、それがまた日英や反ナチスの人間をスイス離れを加速させている。悪循環だった。
 さらに列強共同の国際機関『世界防疫機関』はスウェーデンに作られ、国際連盟はその機能を停止して事実上消滅した。もはやスイスを中立国とする価値はなくなり、枢軸に完全に取り込まれるのは時間の問題と言えた。

「中立というのは、他国が認めなければ維持できるものではないからな。そもそもドイツ人はスイス、いやアルプス山脈を利用したいと思っている。スイス人が中立を叫んでも無駄だろう」

 核攻撃に怯える枢軸(特にドイツ)はスイス国内やアルプス山脈の地下に大規模な軍需工廠を建設し、大規模な核戦争に備えることを考えていた。それをある程度知るダレスはスイスの中立が失われるのは当然の流れと評していた。中立というのは周辺国が認めなければ意味がないのだ。
 しかし同時に長らく続いたスイスの中立を捨てさせ、枢軸に取り込もうとするドイツの姿勢を見たダレスはヒトラーの焦りを感じていた。

(ヒトラーは焦っているのかも知れないな……)

 原子爆弾と富嶽、或は弾道弾の組み合わせはドイツからすれば悪夢でしかない。加えて日本は世界最強の連合艦隊まで擁している。対抗が不可能なカードを仮想敵が何枚も持っているというのは国防上、外交上、大きな問題だった。
 しかし津波や異常気象、戦争で受けた消耗を癒している最中のドイツ第三帝国だけでは現在のパワーランスをすぐに覆すことは叶わない。他の欧州枢軸諸国も国家の立て直しで忙しく、それどころではない。ならば無傷の国を何とか自陣営に引き込み、枢軸全体の力を底上げするしかない。
 そして日英に邪魔されることなく、引き込めるのはスイスしかない。そしてスイスは小国でありながら、それなりに魅力的な国でもあった。

「しかし日本の影響力がこうも強まると……それを面白くないと思う国々も増えるでしょう」

 女の台詞にダレスは頷いた。

「ああ。日本は強い。だが、それが心の底から歓迎される訳でもないだろう」

 日本は強かった。だがその強さがイギリスやソビエトなどのドイツと敵対する国々にとっても、完全な福音となる訳ではなかった。
 ドイツのように日本と真っ向から対抗している訳ではないので、今のところは日本から直接、軍事的圧力を受けることはない。しかしそれがいつまで続くかは分からない。特に一度裏切ったイギリスからすれば、気が気でない。
 白豪主義が強いオーストラリアは最近になって方針を転換したものの、それに不満を持つ軍人や市民は多い。彼らは黄色人種の日本人の機嫌を伺うような政策に反感を抱いている。アフリカでは黒人が白人に対して物申す姿勢を示し、現地の白人を苛立たせている。
 カリフォルニア共和国でも保守的な人間ほど、有色人種が我が物顔で闊歩する光景に複雑な思いを抱いていた。
 白人のプライドを捨てでも日本に降って自由と民主主義を継承するか、それとも白人のプライドを守ってナチスの軍門に降るか……葛藤した人間は少なくなかった。

「白人にも関わらず実利で動いたハースト氏は非凡だと?」
「……不本意だが、認めざるを得ないだろう。彼がいなければ、カリフォルニア共和国は今の地位を得ていたか分からない」

 舞台裏の一端を知っているダレスからすれば、ハーストは唾棄すべき存在だった。
 しかし彼の節操のない行動がカリフォルニア共和国と言うアメリカの精神面の後継者を守ったというのは変わらない。政治とは結果がすべてなのだ。
 どんなに人格が優れ、清廉な政治を心がける政治家であっても、大失敗をすれば無能の烙印を押される。

「建国の功労者が如何に、唾棄すべき存在であっても……建国の精神は変わらない。今度こそ、我々は祖国を守らなければならない」
「……」
「アメリカの正義も、建国の理念も泥にまみれた。だが生きてさえいれば、その汚名を雪げるときも訪れるだろう。そのときまでは……」

 そこまで言った直後、部屋の電話機が鳴った。
 ダレスは女に視線を送った後、すぐに電話に出た。そして約2分の会話の後、彼は受話器を置いた。

「極東の友人たちが来るようだ」
「彼らが?」
「ああ。彼らもスイスがその技術力ごと取り込まれることを問題視している。そのためにかつての同僚たちと一緒に色々と動くようだ」

 誰もがダレスのようにカリフォルニア共和国に移った訳ではない。白眼視に堪えかねて日本の勧誘に乗った人間もいた。
 そして高給で雇われた彼らは欧州において大日本帝国が行う諜報活動に加わっていた。

「しかしかつての敵国の人間を平然と雇うとは……」
「それほど、日本が我々を評価していたということだろう」

 旧連邦の情報機関を最も評価していたのが、旧連邦を滅ぼした日本だったという事実にダレスも苦笑せざるを得なかった。

「まぁ彼らをあまり失望させるわけにもいかない。早く行くとしよう」

 数多の強敵を打ち破り、最強の称号を手に入れた国家の指導者達、その最強に挑もうとする者達、そして、かつて祖国を失った者達。
 世界が混乱する最中、誰もが己が望む明日を得るために足掻いていた。





 あとがき
お久しぶりです。提督たちの憂鬱外伝戦後編13をお送りしました。
北白川宮ようやく登場です。色々とぶっ飛んだ方ですが、誰もが幸せに食事ができることを重視している方です。
強硬な海軍と穏健な陸軍の組み合わせというのは誰得なのか……仮想戦記でも中々ない組み合わせですね(汗)。
さて、次回以降は何とかインド洋演習編に入りたいと思います。
拙作にもかかわらず最後まで読んで下さりありがとうございました。
戦後編14でお会いしましょう。