『日本軍、河北へ侵攻』……この情報はすぐさま全世界に発信された。
 すでに中華民国北京政府を見捨てていた各国は、日本の行動に異議を挟まなかった。より正確に言えば欧州諸国には極東の情勢に口を挟む余裕がなかった。なぜなら、1月の寒波は欧州列強にも大きな被害を与えていたのだ。
 2月になって寒さは多少和らいだものの、欧州諸国は依然として厳し環境に置かれていると言って良かった。
 帝都ロンドンの某所に集まった円卓の面々は各地から集められた報告に顔を顰めた。

「流氷が各地に現れています。これによって海上輸送も危険な状態です。石炭の輸送にさえ支障が出ています」
「交通網の復旧を急いで進めていますが、春が来れば雪解け水による洪水が考えられます。降雪量を考慮すると甚大な被害になると考えられます」
「これまでの寒波による農業と畜産への被害も甚大です。羊だけでも全体の15%が死亡しているとのことです」

 凶報の数々に、円卓の面々はどうするべきかと囁きあった。
 しかし相手が自然ということもあって根本的な対策など打ちようがない。

「電力と食糧確保を最優先にしろ」

 英国の発電所は石炭を用いた火力発電所が多い。仮に石炭が運び込めず、発電が停止すればイギリス経済は大打撃を受ける。ただでさえ津波と戦災でボロボロなのだ。ここで大停電など起せば企業の倒産が相次ぎ、英国の産業は壊滅してしまう。
 英国は生き残りを賭けて生き残った大企業を中心とした産業界の再編を押し進めていたのだ。ここで工場が操業停止に追い込まれて産業崩壊となったら目も当てられない。
 また食糧確保も必要不可欠だった。ただでさえ労働者階級には苦しい生活を強いているのだ。下の階級である彼らは普段は上流階級に対して攻撃することはないが、彼らの生活を脅かすようなことが続けば革命を起す恐れがあった。

「食糧も備蓄を切り崩すしかないでしょう。この様子だと、ジャガイモも再び配給することになるでしょうが」

 津波直後の混乱時には、ジャガイモも配給の対象となった。44年には解除されたが、この寒波を受けては再びジャガイモすら配給するしかない。

「戦時中よりも辛い暮らしになるな」

 対独戦争でイギリス市民の生活は大幅に悪化。さらに市民の士気も大きく下がっていた。満足に飯を食べられないような状況で負け戦が続けば士気など上がるはずがない。対独休戦とアメリカからの支援で何とか一時持ち直したが、その直後の津波で全てが水泡と帰した。 
 英国沿岸部は多大な被害を受けた。帝都ロンドンでさえ2mもの津波が押し寄せ大きな被害を被った。あの津波から2年以上が経ったが、全ての被災地が復旧したとは言えない状況だった。
 ここまで痛めつけられて尚、立っていられるのはイギリスの底力と言えるが、負担を負わされている市民、特に労働者階級の不満が高まっているのは言うまでも無い。
 苦しい状況を見て出席者の多くが苦い顔で議論を続けた。その中で一人目を瞑り熟考する男がいる。彼の名前はオズワルド・モズリー。イギリスファシスト連合(BUF)の長を務める人物であり、英国次期首相の有力候補だった。

(民主的に選ばれた政治家が、足を引っ張り合って国益を損なった結果がこれか。我々の主張は正しかったというわけだ)

 戦前からイギリスファシスト運動の有力者だったモズリーは、議会制度の解体と有力者による会合である『集会』の開設を求めていた。彼は大戦勃発で逮捕されたが、英独停戦後に釈放された。そしてイギリス政府の失策によって高まる政治不信、そして貧困層に蔓延る社会主義思想へのカウンターとして勢力を拡大させた。その結果、彼はここに居る。
 一見、余裕たっぷりに思えるモズリーに対し、イーデンを含む政治家達は顔を顰めた。

(あのファシストが、この国の首相になるとは……大英帝国も零落したものだ)

 だがイーデンが何を言おうと政治は結果が全てだった。
 既存の政党は多くの失点を続け、大英帝国の没落を決定付けた。そして今回の大寒波。市民の我慢も限界だった。革命がおきなかっただけでもマシだった。まぁドーバー海峡の向こう側の様子があまりにも酷いことが、市民を自重させただけかも知れないが。
 何はともあれ注目されているモズリーだったが、この男はそんな視線など気にもしなかった。
 初めてこの会議に出席した際、モズリーは自分が理想とした組織を日本人が遥か前に実現し、日本を世界最強の座に押し上げたという事実を知って驚愕した。同時に、日本人がそのような組織や制度を作って成果を出していたにも関わらず、無為無策のまま戦争に挑み祖国を衰退させた自国政府と議会制度に対する不信感と怒りはさらに強くなった。
 だが、この場で感情を露わにしても何の利益にはならないことを、この男はよく理解していた。

(多少遅かったが、円卓会議という形で理想は実現できた。今は前進あるのみ)

 モズリーはそう己に言い聞かせると、冷静に、そして丁寧な口調で己の意見を述べる。

「食糧を確保するために、ブラジルとの関係を強めるというのは? 幸い、あの地域の農地は被害が『比較的』軽微と聞きます」

 モズリーの意見に円卓の面々は「それしかないか」と言う顔をする。

「中東やインドがあの状態では、な。華南連邦だけでは不足だし、カナダへの支援分も考慮すると、それしかないか」
「しかし我が国の信用は大幅に低下している。ブラジルとの関係を深化させるとなると……かなり高い出費になるな」
「だがブラジルをテコ入れすると、他の親独国家との摩擦を招く危険がある。バランス調整は必要不可欠だろう」

 どちらにせよ、反対意見はでなかった。

「オーストラリア政府も、こちらの説得でようやく態度を軟化させた。近々、発表があるだろう」

 イーデンの言葉に出席者は安堵のため息を漏らす。イギリス本国の住民にとって『あの』流刑者の子孫たちはそれほどまでに頭痛の種だったのだ。
 何はともあれ、不和の種が一つ消えたことは望ましいことだった。だがイーデンの内心は穏やかなものではない。

(オーストラリアが態度を変えたのは、我が国の説得だけではない。日本が中国に行った報復も関係していることは間違いないだろう……)

 過去に日本を裏切ったことのあるイギリス、そして中国と同様に日本に食糧を輸出しているオーストラリアにとって日本の対応は決して他人事と済ませられるものではなかった。今後、下手な手を打てば、中華民国と同様に苛烈な報復を受ける……そう思わせるものだった。

(アメリカ合衆国に続き、中華民国も滅ぶ……彼らは自分たちを二度も裏切った国を許さない、そういうことか)

 しかしここで怖気づくようではイギリス紳士は務まらない。イーデンは自身が円卓に居られる内に傷ついた対日関係を好転させる目途をつけようと決意していた。
 その手段の一つとして、彼は日本政府から伝えられた旧自由政府、そして亡命ユダヤ人が統治する自治都市建設に協力することを申し出ること考えていた。
 現状では自国のことだけでも手一杯と言ってよい状況だ。だが、むしろ自国が苦しい今だからこそ、身銭を切って過去の行い(亡命政府を見捨てたこと)に対する償いをすることに意味がある……イーデンはそう判断していた。
 ちなみにロスチャイルド家も、ユダヤ人自治都市建設に興味を示していた。まぁ彼らにとって同胞支援は表向きの口実で、実際には自治都市建設に関わることで日本とのコネクションを、特に日本帝国の奥ノ院である夢幻会との関係を築きたいと言うのが本音だ。
 北京政府が滅亡した後を見越して、イギリスは動き出していた。



       提督たちの憂鬱外伝 戦後編12



 日本軍の介入によって始まった『河北事変』と呼ばれる戦いは2週間で終結した。
 主な戦場となった天津と北京、そして山海関には日章旗がはためき、この戦いにおいて誰が勝利者であるかを示していた。

「目的は達した、か」

 関東軍司令部の作戦室で報告を受けた東条は満足げにうなずく。
 実際、陸軍は戦前に定めた目標を達した。特に山海関に展開していた北京政府軍主力を大した損害も出さず、ほぼ殲滅したのだ。
 パーフェクトゲームだったといっても過言ではない。

(……まぁこれで負けたら、それこそ給料泥棒扱いだよな)

 圧倒的な航空戦力、機甲戦力を誇る日本陸軍の前に北京政府軍は全く歯が立たなかった。
 彼らが保有する機甲戦力は雀の涙と言ってもよい規模であり、さらに最強の戦闘力を持つのがM3軽戦車であった。航空戦力も少数のP−40や固定脚のP−36だ。そんな彼らに四式重戦車や三式中戦車、そして隼改、飛燕を擁する日本陸軍が襲い掛かり、海上からは遣支艦隊が支援を行った。
 かくして制海権も制空権も奪われ、機動力でも劣る北京政府軍はどこにも逃げ出すこともできず、山海関で文字通り消えてなくなった。
 ちなみに山海関攻略の指揮は栗林中将が執っており、彼は油断も隙も見せず見事な統制をもって脆弱な抵抗を見せた北京政府軍を完膚なきまでに叩き潰した。

「……捕虜の扱いには注意しろ。あくまでジュネーブ条約に準じた扱いをするように」
「了解しました」
「さて、あとは政府の仕事だな」

 東条は内地の参謀本部とも綿密に連絡を取り合っており、政府と参謀本部が何を望んでいるかをよく理解していた。
 そして東条自身、彼らの意に沿って動くことを心得ていた。

(大陸への深入りは避けたいからな。それに支那人には、アカと露助に敵意を向けてもらわないと)

 『河北事変』が勃発して僅か3日後、東トルキスタン軍(及びソビエト義勇軍)は自国を脅かす周辺の匪賊の根拠地を掃討するためとして旧中華民国領内に進軍を開始した。彼らは治安を乱す匪賊掃討を掲げていたが、「どんな状況で治安が回復した」と判断するのかなどは一切明言していなかった。

「ロシア人らしいな」

 冬戦争を指揮したフィンランドの名将、マンネルヘイム元帥はソ連の行動を見てそう評した。
 フィンランド市民もソ連の行動には僅かに眉をひそめたが、これまでの中華民国の行いによって中華民国を擁護する、或はソ連の行動を強く非難する者は現れなかった。
 ソビエトの露骨な行動(火事場泥棒)を見たヒトラーも眉をひそめたが、ソビエトの行動を妨害することはできなかった。重慶政府は引きこもるだけで精一杯。北京政府は消滅寸前。華南連邦はイギリス寄り。中国大陸にはドイツの代理人は居なかったのだ。

「先の租界襲撃事件の惨禍を全面に出されると、ソビエトの無法を強く批判するのも難しい……」

 ヒトラーは顔を顰めた。上海事件、そして昨年に起きた暴徒たちによる列強租界襲撃事件はまだ記録に新しい。その状況で第二次満州事変の真相が暴露されたのだ。
 一般的なドイツ人は『凶暴な無法者の黄色人種を擁護するようなことを言って、あの連中の仲間と思われたくない』とも思っていた。

(日本側がロシア人の行動を黙認しているということは、日ソで何か密約を結んでいるということか。その気になれば単独で潰すことができるのに、わざわざソ連側に配慮したというのは、やはり件の貿易が絡んでいると? だとすると日本人というのはどこまでも狡猾だな)

 ヒトラーは日ソ貿易で日本が稼いでいる分、ソビエト連邦に何かしら餌を与えたのではないかと推測した。

(日本は中華民国に鉄槌を下し、同時に懐を痛めることなくソ連に恩を売る。ソ連は国際的非難を受けることなく勢力圏を拡大することで自国内の不満を解消し、ついでに労働力も確保できる……上手い取引だな)

 イギリスは表向きはソビエトの行動に僅かに嫌味を言う程度で、あとは何もしなかった。ただし陰では日本と一緒に釘をさすことはしたが。
 何はともあれ、戦前、日本を嵌めて孤立させ、米中で袋叩きにしようとした中華民国は国際的に孤立した上で、容赦なく叩かれることになった。

「因果応報、自業自得。己の所業を悔いてもらいましょう」

 ソ連軍の侵攻を受けても、殆ど全くと言って良いほど擁護されない程、国際的に孤立した中華民国政府の姿を見た辻はそう吐き捨てた。
 何はともあれ、中華民国は東西から挟撃されることになった。そして東から侵攻した日本軍は、大した時間もかけずにその目的を達することができた。
 内地では満州だけでなく北支の土地も切り取り放題ではないかとの声もあがったが、政府と軍ではそんな楽観的な意見は出なかった。

(……必要な処理が済み次第、北支から早めに引き上げたいものだ)

 東条は内心では1日でも早く撤退したいという思いで一杯だった。

(最低限の治安維持のために、どれだけの物資が食いつぶされていることか)

 日本陸軍が侵攻した北支地域の困窮ぶりは目を覆わんばかりであった。
 反中感情が強い日本陸軍でも、占領地で餓死者を続出させるわけにもいかないので、占領地の安定化のためにも最低限の食糧供給を行っている。
 このような事態はもともと想定していたため、食糧や医薬品には余裕を持たせていたため、即刻、備蓄が枯渇するようなことはなかった。しかし東条を含む関東軍上層部及び日本陸軍参謀本部からすれば、これらの負担は頭痛の種だった。戦闘よりも、占領地の維持に費やす労力の方が負担となっているのだ。

「銀○伝の帝国領侵攻かよ」

 夢幻会の面々はそうぼやいた。
 更に頭が痛いことに、日本軍が占領地を安定させればさせるほど、周辺から住民が流入してくる可能性が高まるのだ。長らく続いた圧政、そして戦後の経済破綻と異常気象によって苦しんでいた人々は安定して暮らせる場所を渇望していた。そんな住民たちからすれば、日本軍の力とはいえ、安定した土地は理想郷だった。だが現地住民からすれば理想郷であっても、日本軍、特に兵站を預かる者からすれば、もはや無間地獄と言える。
 また補給面以外でも、東条にさっさと引き上げたいと思わせる事象もあった。

(大陸の住人はよくも、あそこまで敗者に残酷になれるものだ。日本でも落ち武者狩りというのはあったが、あそこまでではないぞ)

 北京政府の滅亡が決まったと見た人々、特に流民たちはこれまでの恨みを晴らすべく、北京政府関係者やその親族を攻撃し始めたのだ。
 襲撃され炎上した役所や役人の家についての報告は東条も目にしていたが、愉快になるような内容ではない。しかしそれ以上に東条を不愉快にさせることがあった。

「北京の『悪足掻き』と言い、バイタリティーが強くなければこの魔窟では生きてはいけないということか」

 日本人からすれば無駄に高いバイタリティーを持つ大陸住民に苦労しているのは陸軍だけではなかった。海の治安を担う海上保安庁も、相次ぐ密航者への対応に頭を痛めていた。

「日本に来ても、まともな仕事にはありつけないだろうに」

 渤海で取り締まりに従事している保安官達は純白の巡視船の艦橋でそうぼやいた。
 確かに労働力は不足していたが、日本語もまともに喋れず、いつ雇用主を裏切るか判らない人間を迎え入れる酔狂な人間は皆無だった。真っ当ではない職業なら多少の需要はあるかも知れないが、いつ雇用主を裏切るか判らないとなれば……その待遇は低いものになるのは当然だった。尤もその低い待遇でも大陸での扱いよりはマシだという事実が、難民の流入を招いているのだが。

「連中からすれば食べるものがあるだけ天国なんだろう」
「ふん、連中の自業自得だろ。俺たちを陥れて、負けたんだから」

 髭面の保安官の目は厳しい。彼からすれば支那の人間など全員が信用できない嘘吐き共であり、可愛がっていた甥っ子を上海攻防戦で殺した仇だった。

「原子爆弾を量産して、大陸を更地に変えてしまえば良いのに」
「おいおい、さすがにやりすぎだろう」
「連中のせいで、俺達は世界の敵になりかけたんだぞ。それくらい当然の報いだ」

 日本では中華民国出身者は蛇蝎のように嫌われていた。戦中の悪行に加えて、戦前の陰謀まで暴露されたのだ。無実の罪である自分達(日本)を陥れ、名誉を毀損し、滅ぼそうとした国に対して寛大になれる人間など居ない。一般的な日本人の間でも華北出身者とは関わりたくない、或は日本には入国させたくないという気運が強かった。しかし日本はまだマシだった。カリフォルニアなどの北米西岸諸国において華北出身者と分かれば、その人物は間違いなく収容所送りなのだ。

「裏切り者の朝鮮人も、まとめて始末すればよかったんだ」
「おいおい、あまり過激なことは言うなよ」
「ふん」

 しかしその意見は決して少数ではなかった。何しろ新聞社の中には反中、反朝鮮を煽っているところもあったのだ。
 彼らは福沢諭吉の脱亜論を取り上げて「日本の不幸は朝鮮と中国が隣にいること」と言って憚らず、中朝は滅ぼしてしまったほうが良いとまで主張していた。この髭面の保安官は、そんな過激な新聞を読む人間の一人でもあった。

「やれやれ」

 同僚は肩を竦める仕草をしてため息を付く。しかし彼らの無駄話もそこで終る。不審船発見の報によって。
 彼らはこの後に不審船を追跡し、最終的に自分たちの呼びかけに応じなかった不審船を搭載している40mm機関砲で渤海の海の藻屑とした。

「全く、こんなことがいつまで続くのやら」




 現場が悪戦苦闘していることを十分わかっている知る夢幻会は、速やかに大陸から引くために動き回っていた。
 そもそも夢幻会の基本方針は「大陸勢力を内陸に封じ込める」ことなので、自分たちがわざわざ大陸に深入りするのは本末転倒なことなのだ。
 それにインド方面の動乱に備えたテ号作戦発動も考慮しなければならない政府と軍上層部の立場からすれば、面倒事が多い大陸から足抜けしたいというのが本音だった。
 そして北京を攻略した際に手に入れた、旧北京政府の機密情報(謀略含む)に関する情報は、大陸の住民が如何に面倒な住人であるかという現実を日本政府に突きつけるものだった。

「全く、油断も隙も無い連中だ」

 大本営の席で報告を聞き終わった嶋田は苦り切った顔をした。

(本国を切り捨て東南アジア、華南地方に潜伏する準備を進めただけでなく、共産主義者を騙ったテロ攻撃を画策するとは)

 陸軍及び中央情報局が接収した情報から、中華民国上層部の『一部』が進めていた政策が判明した。
 東南アジアや華南地方へ潜り込もうとすることは日本側も予想していたので、驚くには値しなかった。しかしその作業に並行して進めていた陰謀が問題だった。彼らは自国民から搾取した富と奴隷貿易で得た資金を元手に壊滅した筈の中国共産党を騙る武装勢力を編成した上で、租界へのテロ攻撃を計画していたのだ。
 そして日本租界への攻撃計画の中には現地人の殺傷だけでなく、邦人(特に女子供)の拉致もあった。

「対ソ政策で(比較的)穏健的な嶋田政権自体に打撃を与え、積極的な反共で、大陸に深く関わることを是とする勢力の台頭を煽りたかったのでしょう。華北部を共産勢力に対する防波堤と売り込むことができれば、相応の支援も期待できる……追い詰められた彼らがそう判断してもおかしくはありません」

 この辻の台詞を聞いた杉山は苦い顔をする。

「どちらにせよ、迷惑なことだ」

 杉山は軽く息を吐くと、一旦、口を閉じた。

「……それと件の人間は我が国による中華民国弾劾直後に姿を消している。逃げ足も速いようだ」
「しかし、よく資料を確保できたな……このようなものは破棄されるはずだが」

 山本海相が疑問を聞いた杉山は意地の悪い顔で答える。

「支那人の敵は支那人、そういうことだ。裏切り者達は命と財産の保証と引き換えにこれを売ってくれた。勿論、陸軍情報部や特務機関の働きも大きい」

 村中達、陸軍情報関係者が北京に入っていたのも、北京政府によって機密情報が破棄される前に、それらの情報を少しでも回収するためだった。
 そして村中達は期待以上の成果を挙げたと言って良かった。このため杉山はおおむね満足だった。

(あの男は優秀だ。だが、置き場所に困るような土産を持ってくるのがたまに傷だ……)

 この何とも言えない杉山の思いなど知らない田中は、中央情報局局長の立場から発言する。

「件の人物は放置するのは危険です。また我が国へこのような真似を目論んだ人間がどうなるか、それを示す必要があります」

 テロ計画の首謀者である件の人物を探し出し、始末することについて出席者から異論はなかった。

「他に何かあるかね?」

 嶋田の問いかけを聞いた男は覚悟を決めたように頷くと、はっきりとした口調で告げる。

「難民の問題もあります」

 出席者の視線は南雲に代わって海上保安庁長官に就任した大久保武雄に向けられる。

「大寒波後、大陸から密入国をたくらむ人間の数は増加の一途です。海保としては海路で密入国を図る人間や、密漁を図る支那人に頭を痛めています」

 夢幻会でも密航者の増加は見込んでいたが、現状はその見込を大きく上回っていた。
 中華民国の人口が公式発表より遥かに多かったこと、そして異常気象と内乱で北支経済が大打撃を受けたことが大量の密航者を生み出す原因となっていた。また最近になって日本が繁栄を極めているとの話が各地で蔓延し始めたことから、今後、ますます密航者が増えるのではないかと考えられている。
 そして日本に行けば食糧や仕事が手に入る、そんな淡い希望を持った人間たちを犯罪組織は食い物にしていた。中国の闇社会の住人達は自国の弱者たちを利用して小遣い稼ぎに勤しんでいた。

「現状の人員、装備で対処が困難だと?」

 嶋田の問いかけに対し、大久保は僅かな間、口を閉じる。

「……対処は可能です。酒匂をはじめ、多くの艦艇、資材を回して貰いましたので。ですが現場の負担が大きいのも事実です」

 海上保安庁は南雲の根回しもあって、海軍から地中海の戦いで辛うじて生き残った阿賀野型『酒匂』を回してもらっていた。尤も日本本土に戻ってきた時には損傷していたため、修理と改装を受け、今ではヘリを搭載した巡視船『しきしま』となっている。
 ヘリ搭載型の大型巡視船に生まれ変わった酒匂は災害救助の際にも活躍しており、将来はそのヘリ運用能力と指揮能力を活かして海外への派遣も検討されている。
 しかしそのような支援を受けても、昨今の大地震や異常気象による海難事故の多発や密入国者の増加によって彼らの負担は高止まりだった。

「ふむ」

 海保が苦労しているのは嶋田も理解していた。
 しかし苦労しているのが海保だけではないのも事実だった。

(やれやれ。相変わらず気苦労が絶えないな……)

 夢幻会の影響力拡大に伴い、夢幻会に所属する者達、特に各組織の頂点に近い人間は、戦前よりも遥かに忙しいスケジュールをこなしていた。
 対米戦争終結時には多少気が抜けた者たちも大勢いたが、アメリカが崩壊した戦後世界の様々な問題が顕現化するとさすがに腑抜けたままではいられなかった。史実の知識の多くが役に立たない状態になっているとなれば、どんな楽観的な人間でもそうそう安穏とはしていられない。
 さらに次に日本の前に立ち塞がる敵は史実では悪名高く、火葬戦記では日本の敵として出てきやすい国・ナチスドイツ第三帝国なのだ。おまけにこの世界では奴隷制という時計の針の向きを逆転させるようなことまでしている。
 史実で同盟国だったアメリカは滅び、この世界では長い間、同盟国だったイギリスにも一度裏切られているため、日本は信頼できる同盟国がなかった。激変したこの世界で手にした太平洋の覇権を四苦八苦しながら自力で維持して生きていくしかないのだ。
 よって夢幻会の面々に気を抜く余裕などなくなっていた。一歩誤れば亡国というプレッシャーの中、彼らは働かなくてはならないのだ。

(おかげで、現実逃避の趣味についても色々と派手になっているが……いや、思考を切り替えなくては)

 見てはいけない物を幻視したような気がした嶋田は、慌てて思考を切り替える。

「密航者を幇助する組織を潰していくことで、海保の負担も軽くなるだろう。国内でも防疫を理由にして対処を厳しくしていく。臣民も理解してくれるだろう」
「しかし大陸の組織を叩くには、現地政府の協力が必要になります」
「有力な勢力が沿岸部にあれば問題は減るだろう。大陸分断のため、各地に群雄割拠する勢力に支援するのは既定路線だった。まぁ多少、前倒しになるが問題はない」
「……その一環として山西の要求を受け入れる、と?」

 杉山は少し渋い顔をする。これを見た重光外相は宥めるように言う。

「お気持ちはわかります。ですが、彼らは万里の長城以北の放棄や我が国の威海衛の租借継続、租界への不可侵、排日運動の停止を確約しています」
「山西省と河北省は判る。だが彼らが手も付けていない山東省まで渡せと言うのは強欲が過ぎるだろう」
「列強筆頭であり、東アジアの覇者である我が国のお墨付きが欲しいのでしょう。力尽くでいきたくとも、山西には余力があまりありません」

 山西政府と言っても、その生産力は大したものではない。
 日本が弾劾を行う以前の、弱体化した北京政府が統治する河北省をせめ落とせなかった程なのだ。故に彼らは現状で列強の頂点に位置する日本の威を借りたかったのだ。
 杉山は軽く息を吐いた後で、重光を睨む。

「……外務省はこの条件で彼らの求めに応えるべき、と?」
「大陸の分断をより確実なものとし、かつ各々の地域で交渉する勢力があるのはよいことかと」
「……華東共和国か」

 日本軍の介入で北京政府が消滅したことから、中国大陸各地の軍閥(東北軍以外)は次々に新国家の樹立を宣言した。
 有力な勢力だった江蘇軍閥は自ら『華東共和国』と名乗り、首都と定めた南京で高らかに宣言した。勿論、中華民国北京政府が犯した失態はすべて満州人である張親子の責任として『自分たちは関係ない』と臆面もなく言い切っていた。
 同時に日本政府には、支那統一の野心はないこと、上海の日本租界維持については最大限の便利を図ること、日本企業が大陸で商売することに対して一切の縛りを設けないなども伝えてきていた。しかし散々に大陸勢力にやられてきた日本人がそんな甘言を信用することなどない。
 そして外相である重光もそのことはよく理解してた。

「海相の意見は?」

 嶋田は海相である山本に尋ねる。

「外相の言う通り、イギリスの影響力が強い華東政府を放置するのも拙いでしょう。それに……」
「それに?」
「華東政府が山東省に侵攻しないとは限らないのでは?」

 山本の意見に異論はなかった。山西軍の主導で北京に新政府が作られようとも、戦争と異常気象で荒廃した華北を自力で戦前レベルまで立て直すのは困難だ。そんな弱体な華北政権を見て、華東共和国が良からぬ野心を抱かないとは思えないと言える者はいない。

「そしてイギリスが再び裏切るようなことがあれば、山東省は再び敵側の拠点となりかねません。特に土壇場で裏切られた場合は……遼河油田が危機にさらされかねない」

「「「「……」」」」

 裏ルートでイギリスとの交渉を仕切っている辻も、この場でイギリスによる再度の裏切りがないとは断言しなかった。

「我々が依然として空と海で圧倒的優位にあることを改めて知ってもらうのが良いだろう。幸い、印度洋演習も近い」
「しかし総理、あまり力に頼るのは」
「判っている。外交面でも環太平洋諸国会議の開催を喧伝する」

 これを聞いた重光は一旦引き下がる。
 それを見た嶋田は改めて重光に尋ねた。

「イギリスはこのことで何か?」
「イギリス外務省は、現地住民の判断であると言っています」

 会議の出席者はイギリスと独自の交渉ルートを持つ辻をこっそり見る。その視線に気づいた辻は何も言わず、ただ頷くだけだった。

「一応、彼らの言うことは真実なのでしょうが……イギリスを経由して釘を刺しておくべきです。華東政府の動静には継続的な監視が必要かと」
「海軍も賛成する」

 永田陸相、そして古賀軍令部総長の意見に反対する者はいなかった。この2人の後を引き継ぐように嶋田は口を開く。

「あと満州についてだが……こちらは予定通り、分離独立の路線で進めたい。異論は?」

 こちらも反対意見はなかった。むしろその路線を後押しする情報が中央情報局から示された。

「幸い、大陸では反満感情とも言うべき感情が水面下で強くなりつつあります。満州族のみならず、満州出身の漢民族も纏めて『韃慮』と呼び、排斥する者も現れ始めているとのことです。満州を支那から分離する好機かと」

 田中の報告を聞いた嶋田は苦笑した。

「北京政府の主流派だった奉天派を『韃慮』と扱うと?」
「世界を陥れたのが同じ漢民族であったなどと認められないのです。それに、戦前は奉天派が北京政府主流派として権勢をふるい、戦後は裏切った満州の人間が日本に尻尾を振って甘い汁を吸っているという現実が彼らを苛立たせ、憎悪させているのでしょう。漢民族が信じる血の絆を引き裂くほどに」
「ほう?」

 何人かが興味深そうな顔をする。

「では隔離した旧市民は?」
「彼らの多くは満州の中国回帰を主張していたのです。ならば華北政権に引き取ってもらうのが適当でしょう。金銭面で多少の譲歩が要りますが問題はないかと」

 辻は意地の悪い笑みを浮かべて、そう言い放った。
 反満感情が高まっている支那に、彼らを『送り返せば』どうなるか。それはこの場の誰もが理解していた。しかしそれでも反対する人間はない。

「ああ、それと『誇り高い』東北軍はあまり内政に干渉されたくないようなので、満州への支援はこれまでと同程度がよいでしょう」

 事情を知る人間からすれば『嫌味』でしかないが、それを指摘する人間はいない。むしろ辻の意見に賛同する者ばかりだった。

「そうだな。彼らには曲がりなりにも統治機構があるのだ。余計な口出しはよくないだろう。彼らが公式に頭を下げてこない限りは」

 東北軍の実情を知る杉山が間を置くことなく同意する。
 そんな両者のやり取りを見ていた夢幻会、正確には史実を知る者達は皮肉な笑みを浮かべ、口の中で「棒読み乙」と呟いた。
 この後もいくつかの議題について話し合った後、彼らは解散した。尤もこの日の夜には、夢幻会の会合が召集され多くの人間が再び顔を突き合わせることになった。

「イギリスの努力の御蔭もあって、オーストラリアがこちら側についたこともありますから、イギリスへ多少の配慮も必要でしょう」
「まずはカナダの復興事業支援か。まぁ日本企業が参加できるのなら国内向けに言い訳も立つ」
「あとはオーストラリアへの投資でしょう。リスク分散を考えるイギリス企業との連携も探れます。それに豪州の食糧、鉱物資源は魅力的です」

 昼間の会議とは打って変わって、会合の席においては対英融和政策が一定の支持を集めていた。
 戦前の裏切りによってイギリスが信用できない存在になったとは言え、日英関係が重要であることは変わらないのだ。故に如何なる策が適当か議論が重ねられた。
 官僚や政治家がそんな会話を交わす一方、その傍らでは商人たちが密かに牽制しあっていた。

「東南アジア市場、特に旧英植民地の開拓では倉崎、それに住友が手を携え、更に最近では三井が倉崎との関係を強化したいと申し出ていると聞くが?」
「倉崎重工は航空産業に重きを置いていますが、自動車や重機なども手掛けています。倉崎と関係を結びたいと思う財閥がいても問題はないのでは?」
「仲が良いのはよきことだが、あまり羽目を外されると困る」
「まぁ健全な商談なら問題ないでしょう。それに三菱さんの商品も十分に魅力的ですよ。うちにも色々と問い合わせが多いですし」

 日本最大の巨大財閥である三菱、規模では三菱には劣るが技術力では抜きんでた存在である倉崎重工。それに国策企業でありながら、大陸や欧州で死の商人として暗躍した結果、その筋で知らない者などいなくなった帝国総合商社の関係者の会話は金の匂いが濃厚に漂っていた。
 アメリカは滅んだが、引き換えにイギリス連邦の市場は開かれたのだ。東南アジアの各市場の取り扱いも含めて駆け引きは活発だった。かと言ってイギリスや東南アジアから一方的に富を収奪したいと発言する人間はいなかった。彼らもそのような行為が長期的にどれだけ大きなデメリットになるかはよく理解していたのだ。
 だが上の人間は日英関係の重要性を理解していても、下の者まで完全に理解している訳ではないし、何より感情面の問題もあった。

「イギリスへの不信感は未だ拭えないものの……ドイツよりかは、遥かに妥協の余地があります。ただしその前に入念に根回しをしておく必要がありますが」
「国民の手前、あまりイギリスを信用しているとは言えませんからね。手緩いやり方もそうそう出来ませんし」

 辻はそう言って肩をすくめる仕草をし、嶋田はため息をついた。

「しかしイギリスの威信も大分、落ちたようですね。華東の動きを制御できないとは」
「イギリス人は華南連邦の統制だけで手一杯ということか……或は彼らがお得意の二枚舌外交で陰で事を進めているのか。後者であっても驚くには値しないだろう。情報収集は継続するべきだ」

 近衛は意見に出席者たちは頷く。彼らは対英情報収集について怠るつもりはなかった。

「まぁ華東共和国及び華南連邦については、関東軍、それに台湾の南部軍、それに本土の艦隊で睨みを利かせるしかないだろう」
「定期的に東シナ海で演習を行うというのも手ですね」

 杉山と古賀の意見に反対意見は特に出なかった。これを見た杉山は話題を変える。

「それで我々と手を組むことになったオーストラリアだが、彼らの軍の内情、特に装備面で問題は多い。梃入れは必要だろう」
「ええ。インドネシアが色々と文句を言うでしょうが……インド洋や南太平洋の安定化のためなら安いものですよ」

 来るべきインド方面の混乱に備えるため、少しでも味方が欲しい日本としてはオーストラリアは何とか味方に引き込んでおきたい相手だった。確かに現状のオーストラリア軍は、強敵ではない。日本がその気になれば叩き潰せる相手だろう。だが味方に引き入れて梃入れすれば、心強い軍になる存在でもあった。手が足りない日本としては魅力的な存在だった。
 さらにオーストラリアは食糧生産でも魅力があった。日本が緑の革命の恩恵を与えることで、オーストラリアの食糧生産能力がさらに伸びることも期待された。
 今のところ、緑の革命に関する拠点(研究施設)はフィリピン、カリフォルニアなどに建設される予定だったが、オーストラリアの態度次第ではオーストラリアへ優先的に技術供与を行う事も夢幻会は考えていた。

「まぁ我々が支援したオーストラリアとインドネシアが衝突しないように手を打つ手間を考えると、また仕事が増えたと言えなくともない」

 嶋田は外務省の仕事だという視線を吉田に向け、吉田も承知していると頷いた。

「ですが政府と軍の協力も必要です」
「判っていますよ。自分で育てたオーストラリア海軍に手を噛まれたくない」

 オーストラリアの反日の理由の中には、白人の文明とは異なる異種文明(それも自国より強大)への恐怖に加え、その異種文明が自国の隣にある東南アジアの原住民(インドネシア人)に露骨に肩入れしていることもあった。
 元々、オーストラリアは原住民(有色人種)を駆逐して成立した国だ。その彼らが有色人種の復讐を恐れないわけが無い。ましてオーストラリアと同じような形で成り立ったアメリカ合衆国と言う頼れる大国が津波というアクシデントがあったとは言え、有色人種(日本人)との戦いに敗れて崩壊したのだ。彼らがどの程度恐怖を覚えていたかは言うまでも無い。
 そんな状況で、日本はインドネシアを武力と黄金を背景にオランダから譲り受けて、傀儡国家(オーストラリア人主観)を建国する準備に入っていると聞けば、次の標的は自分達と思うのも無理の無いことだった。
 オーストラリアの近くに、頼りになる白人国家があればまだオーストラリアも安心できたかも知れないが周囲にそんな国は無い。宗主国のイギリスなどは日本に歯向かえない有様だった。
 このため彼らは独自に自分の身を守れるような軍事力、特に海軍と空軍の整備に乗り出していたのだ。
 しかしその軍備拡張も、イギリス本国の危機的状況によって躓いた。イギリス本国は尻に火が付いた状況であった。このため南太平洋で無用な緊張を高めかねない豪州の軍備増強に手を貸す余裕も意思も無かった。
 それでも足掻くオーストラリア人はカリフォルニア政府にも秋波を送り、旧アメリカ合衆国海軍艦艇の売却を打診したのがそれも失敗。空軍の増強についても上手くいかず、最終的に軍備増強の試みは頓挫することになった。
 そして日本を陥れた中華民国が完全に破滅させられたのを見たオーストラリア政府は、ここに至り方針を転換した。

「日本に与することで、我が国の安全を確保する」

 日本に対抗するのではなく、多少のことには目を瞑り手を組む道を彼らは選んだのだ。
 日本政府内ではオーストラリアの人種差別政策を是正させるべきではないのかという意見も挙がったが、夢幻会側はこれを抑え『内政不干渉』ということで妥協した。

「まぁオーストラリア人にも矜持というものがあるでしょう。必要なら、私自らオーストラリアに行って世辞を言ってもよいですよ。まぁ行くとすれば印度洋演習の後がよいと思いますが」
「そういえば、件の演習は?」

 近衛の問いかけに対し、嶋田は「準備は進んでいます」と即答する。

「河北事変及び各地の異常気象の影響でゴタゴタが続きましたが、5月には開始予定です」

 ユーラシア各地に多大な被害を出した異常気象、そして河北事変で演習を主宰する日英両国は混乱していた。
 しかしながら、日英側はインド洋演習を中止する気は皆目なかった。インド洋での軍事力プレゼンスの誇示は必要であると両国は考えていたのだ。

「白鳳が参加できないのは残念ですな」

 近衛は中東情勢について危惧を抱いていた。
 特に反英感情に凝り固まったフランスが、中東を舞台にして火遊びをする可能性について憂慮していた。
 大西洋大津波に端を発した異常気象はユーラシア各地に深い傷跡を残していた。そしてその被害は今や宗教、民族対立を煽る要因となり、ユーラシア各地では不穏な気配が漂いつつあった。この状態で下手な火遊びをされたらどんな化学反応が起こるか判ったものではない。

(フランス人の理性やヒトラーの手腕に期待するだけ、と言うのはあまりにも愚かだ。力を背景にしてでも、彼らの軽挙は未然に止めなければならない)

 そんな考えが近衛の脳裏をよぎっていた。

「白鳳は5月に完成しますが……乗組員の熟練度を考慮すると本格的に艦隊に配備するのは9月以降が望ましいです。戦時下なら強引に工事を前倒しして出すこともあり得ますが、今は平時なので。ですが空母は大鳳、紅鳳、海鳳の三隻だけでも十分であると海軍は考えています」

 ここで嶋田は一呼吸置く。

「そして、3隻の空母に戦艦伊吹、鞍馬、超甲巡富士、新高。重巡洋艦以下の艦艇も新鋭艦が殆どです。次世代の帝国海軍の顔である彼女たちと疾風などの新型機の組み合わせは、見せ札としては効果的です。特にフランスは海軍力の増強を我々の見積もりより、小規模なものとしています。彼らが受ける心理的衝撃は小さくはないでしょう」
「ふむ……」
「演習後、彼らが海軍力拡張に乗り出すのもよし。拡張が低調でも、その視線はインド洋周辺に注がれます。大和型戦艦の存在もそれを後押しするでしょう」

 海軍にとって欧州諸国の目がインド洋とその周辺に展開する連合艦隊に向けられるのは望ましかった。

「そして我々はその間に、原子力潜水艦を実用化します。連中の目が南の洋上と空中に向いている内に、北の海から攻勢に出られる用意を整えるのです」

 日本海軍は原子力潜水艦の開発に取り掛かっている。
 だが原爆と違って、原潜の開発は難航していた。技術的な問題を完全にクリアするには相応の時間が掛かると思われていた。
 しかしそれがクリアされ、実用的な原潜が配備できるようになれば、北極海を日本が先に抑えることが可能になるのだ。

(連合艦隊主力、原爆、富嶽、そして我々が建造する大和型戦艦……世界にとってどれもが切り札に見えるだろう。それが故に、相手も無視はできない)

 嶋田は黒い笑みを浮かべる。
 嶋田を含めた夢幻会派の軍人は自分たちの優位がいつまでも続くとは思っていない。仮に技術面で優位に立っても、何かしらの対策を取られたら優位性を失ってしまう可能性が高いと考えていた。故に嶋田は『現状』では本物の切り札で相手の目を引き付けつつ、その隙に次世代の切り札を手に入れるつもりだった。

(相手も馬鹿ではない。ならば……相手が飛びつかざるを得ない『見せ札』で吊るしかない。そして相手が『対策ができた』と思った時、それが好機となる)

 見せる手札と伏せる手札を取捨選択し、相手を幻惑し、ここぞと言う時に伏せていた切り札をぶつけることができれば大きな利益となる。
 だが同時に、圧倒的な優位に立った場合、国内世論が調子に乗り過ぎることも危惧していた。

(そのときはうまく世論を導かないと拙い。まぁその点、アメリカ風邪の存在はありがたくもある……狸の皮算用かも知れないが、十分に考慮するべきだろう)

 嶋田の話を聞いていた古賀は少し渋い顔で頭を掻く。そして軽くため息を吐くと、ぼやいた。

「栄光ある連合艦隊主力が見せ札か……」

 古賀が遠い目をするが、感情的に否定はしなかった。

「これも時代の流れ、か……しかし、老人には辛いものだ」
「今更、時計の針を戻すこともできません。我々にできるのは、次代を担う者達のために時計の針を早めることだけです」

 西暦1945年。かつて同盟国だったアメリカ合衆国の後を追うように、アジアの龍と称された『中華民国』は歴史に拭いきれぬ汚名を残して滅び去った。
 しかし彼らを滅ぼした大日本帝国の指導者たちは、そのような事件にさえ感傷を抱くことなく、次代のための『次の催し物』に備え準備を進めていった。






 あとがき
 提督たちの憂鬱外伝 戦後編12をお送りしました。
 中華民国の後始末はこれで終わりです。漸く、次のイベントであるインド洋演習に向けて話が本格的に進むと思います。
 拙作ですが最後まで読んで下さりありがとうございました。
 提督たちの憂鬱外伝 戦後編13でお会いしましょう。




 今回、採用させて頂いた兵器のスペックです。

巡視船「しきしま」(旧阿賀野型軽巡洋艦「酒匂」)

基準排水量=6,500t
全長=158m 全幅=17.8m
主機出力=オールギヤードタービン2基2軸・45,000HP
最大速力=25kt   航続距離=18kt/10,000海里
武装
40o機関砲 連装1基
20mm機銃  連装6基
艦載機 ヘリコプター2機
舷側装甲-主装甲帯76mm 甲板装甲32mm