提督たちの憂鬱外伝 戦後編11
日本政府の発表を真実と判断した人間、特に旧アメリカ人たちは中国に対する敵意を爆発させた。
「嘘吐き野郎の裏切り者・チンクを吊るせ!」
「チンクを北米から叩きだせ!」
カリフォルニア共和国を中心にした西海岸諸国では、反中機運が一気に高まり、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどの主要都市でも反中デモが多発した。
襲撃事件が起きていないのは、日本から事前に緊急発表の内容を知らされたカリフォルニア政府が警察を迅速に出動させたためであった。この出動が無ければ多数の犠牲者が出ていただろう(少数であるが犠牲者は出ていた)。
しかし警察官の多くは『旧アメリカ人にとっては許し難い裏切り者』で、さらに『世界を欺いた嘘吐き野郎』を守ることに反発していた。
「何で、あんな連中を守らないといけないんです」
「仕方ないだろう。一応、連中はカリフォルニア共和国の国民なんだから」
パトカーの運転席で不満を漏らす若い警官を助手席の年配の警官が宥める。しかし年配の警官も心から中国系市民を守りたいとは思っていない。
「俺の知り合いの家族は、上海で皆殺しにされたんだ。上司の命令が無ければ、一人残らず撃ち殺してやるところだ」
「……」
「だが俺達は警官だ。上司が、政府の命令である以上は奴らを守ってやらなければならんのだ。どんなにクソッタレな連中でもだ」
一方でカリフォルニア共和国政府は、中国系市民の安全を守るためと称して、強制収容所への収容を決定していた。
福建共和国や華南連邦出身者以外の中国系市民は順次収容され、ひとまず旧ネバタ州の砂漠地帯に建設された強制収容所に送る準備を彼らは淡々と進めた。中国系市民は例外を除いて、軍によって収容されていった。
当然、収容される市民は猛反発したが、トラックに乗るように指示する陸軍兵士達が向ける銃口の前には沈黙するしかなかった。一部の人間が反撃したが、それは逆に弾圧の口実を作るだけであった。
「収容所に送られなかったら、お前ら、市民達にリンチされていたんだぞ。むしろ感謝して欲しい位だ」
兵士達は嫌悪と侮蔑と憎悪の視線を、中国系市民に浴びせていた。
特に上海の惨劇を体験した旧連邦軍出身の将兵は『視線で人を殺せたら』とばかりに、凄まじい形相だった。中には怒りの余り、唇を噛み切って血を流している者さえ居る。
「俺達はあんな連中を同盟国にして、あんな連中のために戦ったのか……あんな連中のために、仲間達は死んだのか! 俺は連中のために戦っていたせいで、津波で行方不明になった家族を探すことさえ出来なかったんだぞ!!」
旧連邦軍時代に鍛えられた自制力が無ければ、軍曹の階級章を付けた男は無差別に発砲していたかも知れない。
いや無意識ではそれを望み、それを嗾けていた。しかし彼はそれを理性で押さえた。彼には仲間がおり迷惑は掛けられない。無差別発砲で無抵抗の民間人を大量虐殺などすればカリフォルニア共和国陸軍の、いや旧アメリカ合衆国陸軍の名誉に傷が付く。
「ぐ……」
しかし溢れかえる殺気は抑えきれない。だがそれは他の将兵も同様だった。
老若男女関係無くトラックにまるで荷物のように放り込まれていく中国系市民は、周囲から浴びせられる強烈な殺気と多数の銃口に恐怖の表情を浮かべるしかなかった。場の雰囲気を敏感に察したのか、幼子が次々に泣き叫ぶ。
((本国の馬鹿共のせいでこの始末だ!))
彼らは本気で張学良を呪った。
しかし彼らはまだマシだった。旧アメリカ合衆国領内において強制収容所に送られなかった中国系市民は、怒り狂った他の市民によってリンチされていた。残念なことに福建共和国や華南連邦出身者も少なくない数の人間が巻き添えを受けた。
彼らは「バカな華北政権の所為で、こうなった」と判断すると殊更に華北出身者を敵視するようになった。華北出身者の中には第二次満州事変の真相は日本政府の捏造だの、張学良は化外の民であり中華とは関係ないと主張したが、誤魔化しは効かなかった。むしろ冷たい答えが返ってくる一方だった。
「息をするように嘘をつくお前達が『捏造』だと主張するなら、日本の主張は真実なんだろう」
「満州は自国の領土と主張していたのは、どこの誰だ? 都合が悪くなったら事実を捻じ曲げるのかね?」
そんな声を聴いた華北出身者はそれでも弁明、或いは抗弁したがもはや聞く耳をもたれない。
幾ら弁明しても、袖の下を通そうとしても今回ばかりは効果はなかった。中華民国出身者は徹底的に排斥されていき、残された財産は政府によって次々に接収された。執務室で報告を受けたハーストは接収できた財産の目録を眺めてニヤリと笑った。
「連中から二束三文で買い叩いた財産は政府で有効に使わせて貰おう」
ハーストは接収した財産を返すツモリはなかった。
何しろ彼らは「世界の敵」なのだ。むしろ今の措置ですら甘いとさえ批判されている程であり、ここで連中の財産を保全したら暴動が起きかねない。またハーストは接収した資産を共和国(或いは自分達)のために使うつもりでいた。
(それにしても、まさかこのような行為に及んでいたとは……)
ハーストやカリフォルニア財界の重鎮と言えども旧連邦の国家機密の全てを知っていた訳ではない。そしてワシントンDCと共に重要な情報は証拠もろとも津波によって攫われていた。故に第二次満州事変について胡散臭いと彼らも思っていたが、まさかロングが真実を知っていて、さらにそれを黙認していたことまでは把握できなかった。
このため、詳しい事情を知ったカリフォルニア政財界は文字通りひっくり返ることになった。
(日中交渉が決裂した場合、戦争もあり得る。備えも進めておくべきか)
仮に第二次日中戦争になっても、カリフォルニア共和国にできることは殆どない。しかしそれでも日本側につく姿勢を鮮明にするのは大きな利益になる。
「ごく小規模な部隊でも派遣できれば、市民も溜飲を下げるだろうからな」
ハーストは視線を外のデモ隊に向けた。そこでは政府の対応に不満を持つ市民が、政府の軟弱な対応を批判していた。
「中華民国に然るべき報いを与えろ!」
「チンク共に正義の鉄槌を!!」
市民からすれば、中華民国は時の民主党政権(連邦政府)と共謀して自分達を騙して大戦争に引きずり込んだのに、負けそうになるとアメリカを背後から撃った許しがたい怨敵だった。
さらに彼らは上海虐殺を米軍の仕業と喧伝するなどやりたい放題であり、旧アメリカ人の名誉を徹底的に貶めた。さらに旧アメリカ人の有色人種が奴隷貿易でソ連に輸出されているという情報がさらに怒りを煽っていた。
「あんな連中は一人残らず殲滅するべきだ!」
そんな声が起こるのも当然だった。
市民の間には中華に関わるものを排斥する動きさえ見られた。中国産とされる絵画や壷などの文化財は次々に打ち壊され、中華風の建物は放火されて炎上するなどの被害が出ている。「文化財に罪はない」という声もあったが、大多数の怒りの声の前にはそういった声はかき消された。
同時に中華民国の自作自演を知りながら開戦へとひた走った旧連邦政府に対しても怒り心頭だった。
「何が正義の戦争だ! 無実の日本人を陥れて、俺達に戦争をさせるツモリだったのか!!」
アメリカ人は何よりも『正義』を尊ぶ。
そしてアメリカの精神的後継者であるカリフォルニア共和国の人間達からすれば、旧連邦政府の行いは愚行そのものであり、アメリカの精神を真っ向から否定するものでしかない。
「旧連邦政府は、無神論者のアカと嘘吐きのチンクに唆されて、アメリカの精神を冒涜するような真似をしたから滅んだんだ」
そんな話さえ出てくる始末であり、西部住人の旧東部住人に対する怒りと不信は留まるところを知らない。当然だが東部から流れてくる避難民を見る目はさらに厳しくなった。西部の住民達からすれば東部の政府は『アメリカ風邪のような生物兵器を作っただけではなく、アメリカの正義を踏みにじる卑劣な行いをした許しがたい連中』なのだ。
「ロングの大馬鹿野郎!!」
誰もが対日強硬政策を推し進めていたロングを呪った。或いは罵った。
中でもハワイ沖海戦で多数の同僚と部下のパイロットを失ったカリフォルニア海軍大将・ハルゼーの怒りは凄まじかった。
「旧連邦も、卑怯者のチンク共も全員くたばれ!!」
ハルゼーは海軍総司令部で顔を真っ赤にして激怒した。そして祖国のため、祖国の正義のために散って逝った若者達を思い力なく椅子に座って項垂れた。ハワイから生還したフレッチャーも、憔悴し涙を流すハルゼーに掛ける言葉が無かった。
「彼らは、祖国のために死地に赴いたのだぞ……」
ハルゼーの脳裏に浮かんだのはハワイ沖海戦だった。
無い無い尽くしの中、米軍の搭乗員は最善を尽くした。質も量も圧倒している日本海軍の防空網を必死に突破しようとし……全滅に追い込まれたのだ。
続けて起きた海戦では彼の同僚であり、開戦以来苦労を分かち合ったパイが日本海軍の追撃を諦めさせるためにその身を挺して戦って討ち死にした。米海軍は破竹の勢いで進撃を続ける日本軍を少しでも食い止めようと、必死に戦った。祖国が津波によって半壊し、滅びつつあったにも関わらず、そこまで粘れたのは多くの将兵が祖国を思っていたからだ。だがその祖国が、途方も無い背信行為を働いていたというのだ。
「俺達は何のために戦っていたんだ?」
日米戦争に従事した将兵の中に、そんな疑問を抱くのは当然だった。
ただ、旧アメリカ合衆国政府を否定することで作られたカリフォルニア共和国政府にとって旧アメリカの醜聞は追い風でしかなかった。カリフォルニア共和国を中心とした西海岸諸国は『悪』の旧アメリカ合衆国を否定することで、己の存在意義を明確にし、国民を団結させることが出来る。
こうしてカリフォルニア共和国の国是は『反共』、『反連邦』、『反中国』となり、その国是を持って国民を纏めていくことになる。
反中感情が爆発したのはアメリカだけではなかった。西欧諸国や南米などでも、中華民国や旧アメリカ合衆国の愚行に対して怒りの声が挙がった。
何しろ西欧諸国は(自身の思惑もあったが)中華民国の悲痛な訴えを聞いて中華民国の肩を持ったのだ。しかしそれが実際には中華民国の自作自演であったとなれば彼らの立場が無い。
「黄色い猿と植民地人が余計なことを……」
そんな声が挙がるのは当然であり、それを察知できなかった情報機関では更迭される人間が相次いだ。
特にイギリスでは外務省や情報機関の責任を追及する声が強かった。何しろこの情報を察知していれば、イギリス政府は別の選択肢を取っていたかもしれないのだ。
国が追い詰められている故に、政府から膨大な予算を与えられる情報機関の人間たちは「今度失敗したら、無能者の烙印を押されるだけではすまないな」と実感した。
何しろイギリスのマスコミは中国を叩きつつも、情報機関の働きぶりに関しても酷評しており、軍と国民の視線も冷たくなる一方だった。
「対独戦の最中でも、我が国の情報部の物より日本から送られてきた情報の方が役にたった」
ある軍人はそう切り捨てた。まぁ日本の場合、トランジスタ式コンピュータをすでに実用化しており、それでドイツ軍の暗号を解読していたのでできた芸当でもあったのだが、それを知らない人間たちは自軍の情報部が日本のものより劣っていることの証左と捉えた。
そしてドーバー海峡を挟んでイギリスの隣国であるフランスなどでは「中国人お断り」などと書かれた店が多数現れ、在仏の華人の排斥運動さえ発生していた。何しろ昨年に上海や天津で起きた暴動ではフランスの租界でも被害が出た。これによって無法者という印象が強まっている中でこの暴露なのだ。
「嘘吐きの裏切り者は帰れ!」
「薄汚い黄色い猿を叩きだせ!」
フランス人たちは躍進しわが世の春を謳歌する日本を叩けないフラストレーションを、中国人にぶつけ始めた。そしてフランス政府もそれを強く押さえつけようとはしない。
溜まっている市民の不満が解消されるなら、多少のこと(中国系市民が攻撃されること)は問題ないとしたのだ。尤も本当に何もしないというのは拙いため最低限の保護は行うが……それ以上のことはしなかった。
ちなみにオランダは中国からの食糧輸入の件で、日本にお目こぼしを受けたということで日本に1個借りを作ってしまい頭を抱えることになった。
オランダ国内では植民地を失うということで不満が強かったが、それをますます表に出せなくなっていたのだ。
「……貿易レートで更に文句を言えなくなった」
オランダの財務官僚は頭を抱えた。
なぜならオランダ側はインドネシアに残っている邦人が生活できるように物資を日本から買っていた。何しろ植民地にまで十分な物資を回す余裕がオランダにはなかった。このため蘭印を売却した資金を使ってその購入を行っていたのだ。オランダ側は何とか値切ろうとしていたのだが、今回の一件で更に文句を言えなくなったのだ。
「日本は可能な限り北京政府から資金を搾り取るだろう。彼らは植民地を買い叩くのに出費した金を回収するつもりなのか?」
そんな声がオランダ政界で出るのは当然だった。政治家たちはユダヤ商人もびっくりな日本の強欲振りに半ばあきれた顔をすると同時に、本格的に日本を敵に回すのが如何に危険かを理解した。
亡命時代に、イギリスに同調して日本を庇わなかったため関係が悪化したという教訓もあって、オランダ政府は独自に日本との関係を維持するのは重要であると考えた。彼らはドイツの顔色を伺いつつイタリアに倣って独自の外交ルートを築くことに腐心することになる。
ドイツの場合は、今や世界情勢から置いていかれている蒋介石とも関係を維持していたためにフランスほど露骨な真似は出来なかった。しかし中国系への不信感は一気に高まった。
「上海虐殺事件や、先ほどの暴動、そして第二次下関条約違反から考慮すると中国人というのは全く信用できない存在のようだな」
総統官邸で報告を聞いたヒトラーは「ふん」と鼻を鳴らした。外相であるリッベンドロップは、それに追従するように頷く。
「我々も独自に調査しましたが、日本が公表した内容は信ぴょう性が高いとの結論が出ました。今後、中国大陸の諸勢力との外交については慎重を要するとも考えます」
各国は発表された内容について検証を実施したが、日本が発表した情報を『虚偽』のものと判断できなかった。
「全くだ。ここまで信用できないと、日本をけん制するための駒としても利用できもせん。あの連中が勝手に暴走して、日本と決定的な対立を招いた揚句に全面戦争という流れになりかねん」
第二次満州事変のような馬鹿なことをされて、勝手に独日戦争に引きずり込まれることがあったら目も当てられない……そんな思いがヒトラーの胸中にあった。
(いずれ、奴らと戦うとしても主導権は我々が握っていなければならん)
ヒトラーにとって戦争というのは常に自分たちが主導権を握らなければならないものだった。故にヒトラーからすれば中国人というのは利用しずらい存在となった。
だがそれが日本の狙いであるともヒトラーは半ば確信していた。
(奴らは中国と我々を徹底的に分断するつもりだな……第二の蒋介石、或は第二の張学良を生まないために)
仮に蒋介石が大陸を統一していれば、そこには親独政権が樹立されていた。
そうなった場合、ヒトラーは中国との関係をより強化し、中国軍の成長次第では軍事同盟締結も考えたことがある。
それはドイツにとっては資源供給基地と兵器の輸出先を同時に得るものであったが、日本からすれば仇敵ドイツの影響下にある大陸統一国家の誕生に他ならない。
(しかし大陸を恐れるなら、日本本土侵攻の橋頭保となる朝鮮半島を直接統治しないのはなぜだ?)
そんな疑問符がヒトラーの脳裏に浮かぶ。彼らが日本側の指導者なら朝鮮半島は要地として完全に抑える。勿論、現地住民など徹底して使いつぶすが……。
尤もヒトラーはすぐに「今考えるべきことではない」と思い直し、頭を切り替える。
「あとは純粋な取引相手としてだが……」
「現在の北京政府崩壊は時間の問題です。新たな相手を探すとしても有力な江蘇派はイギリスとの関係が深く食い込むのは困難かと。後は旧北洋軍閥に属する軍閥ですが」
「……問題はそれが蒋介石の二の舞にならないか、だな」
かつてドイツは市場開拓も兼ねて蒋介石を支援したが、その蒋介石は重慶に逼塞するだけが精いっぱいの小勢力に落ちぶれた。
次の商売相手になるかと思った張学良は大失態を演じた挙句、この世から退場し、残った北京政府は世界の敵になったという有様だ。
「今は様子見だ。今後の情勢によって取引相手を定める。北京政府の要請は拒否しろ」
このとき、北京政府はドイツやイギリスなどの列強諸国に対して日本との仲介を要請していた。
彼らは「日本政府中枢は疑心暗鬼に陥り、話を聞かない」といって各国に泣き付き、仲立ちを要請していたのだ。しかし仲介役を買って出る国などなかった。
特に外交面での信用を失墜させ、半ば孤立していたイギリスでは「お前らが余計なことをしたせいで、こうなったんだろうが!」と逆切れする人間さえいる。
こうして北京政府は完全に孤立した。戦前の第二次満州事変とフィリピン事件(輸送船沈没事件)で孤立した日本のように。
そして弾劾を行ってから9日後の昭和20年2月10日。
大本営に集まった嶋田達は一連の報告を聞いて、自分たちの予想が当たったことを理解した。
「……何というか、もう声もないな」
海相と軍令部総長の地位を退き総理に専念している嶋田だったが、大本営における発言力は未だに健在であり、嶋田の発言を遮る者はいない。
戦勝の立役者にして、日本で2人しかいない海軍元帥であり、余命がそう長くない伏見宮の後を継ぎ海軍の後見役となるであろう嶋田を軽視できる人間などいなかった。
「まぁ大陸の恒例行事再びといったろころでしょう」
辻は嘲笑しながら肩をすくめると、これまでの経緯に思いをはせた。
2月1日以降、外交面で完全に孤立し、有力国のすべてが中華民国北京政府を見放したということが明らかになると北京政府は浮き足立った。
日本の弾劾後、江蘇派だけでなく、周辺の軍閥も事情を察したのか北京制圧の好機とばかりに活動を活発化させている有様だ。
北京政府の数少ない実働戦力である首都防衛隊も、日本が本気で攻め寄せるとの話を聞いて腰砕けになっており、司令官クラスの中にはいち早く逃亡を画策する者さえいた。
そんな状況では末端の兵士の統率が維持できる訳がなかった。
まして外交交渉が予想通り不調であることを知る指揮官たちが次々に逃亡しはじめると、中華民国軍は次第に烏合の衆となっていった。
そしてこの混乱を見逃す者も存在しなかった。
「攻めるぞ!」
北京政府から独立し、小競り合いを繰り返してきた山西軍閥は、ここぞとばかりに河北省へ侵攻を開始。多くの兵士が号令の下、河北省に流れ込んだ。
尤も彼らの装備の多くは旧式であり、機甲戦力も航空戦力もほとんどない。普通なら北京側が持ちこたえることもできた。だが今回はそうはいかなかった。組織の統制は失われ中華民国軍部隊は空中分解寸前だった。このため発見も対処も遅れた。
さらに敵軍侵攻の報告を聞いた部隊の中には、事前に内通していた部隊も多くあり、彼らは迎撃に向かう友軍を背後から撃った。
「寝返るにも手土産がいるからな!!」
祖国のために戦おうとするごく少数の者達は、先日まで味方と信じていた者達によって次々に討ち取られていった。
ある者は信じられないという顔で、ある者は泣き叫び、ある者は裏切り者と元味方を詰りながら殺されていった。逃れた者は殆どいなかった。
そして裏切り者と山西軍閥の兵士たちは占領地で暴虐の限りを尽くした。自分の家族の安全を確保した裏切り者たちはより残酷に振る舞い、戦利品に酔いしれた。
北京政府では日本の条件を丸呑みしてでも、救援を頼むべきだとの声があがったが、在外同胞を売り渡すのかとの声もあがり右往左往するばかり。
自ら音頭を取って決定を下す人間がいないこともあって、北京政府は何もすることができなかった。そんな中、日本艦隊が渤海に入ると混乱は加速した。
今や世界最大・最強と言われる大日本帝国海軍を食い止めるだけの海軍力は、北京政府には存在しない。日本側がその気になれば沿岸一帯は焦土と化すのだ。加えて都市部に残っていれば日本が原爆を落とすかも知れないという声もあがり、都市部の住民はこぞって逃げ出し始めた。
当然、逃げ出そうとする市民が多ければ多いほど、交通は混乱し、治安も悪化した。
そしてこれを見たほかの軍閥や周辺の匪賊が相次いで動き出すと……呆気なく戦線は崩壊した。そしてこれが更に士気の低下と組織の崩壊を加速させた。
誰もが国を顧みず、自分の安全のことだけを考えるようになったのだ。
「この国はもう終わりだ!」
財力に余裕がある者達は、使用人を使って家財を運びだし、夜逃げをするようにわれ先に北京から逃げ出していく。
かつて勇ましく反日を煽っていた軍高官は北京政府の滅亡間近と見るや否や、列強の租界がある天津に逃げ込むべく家財を軍用車両に積み込ませ、前線視察を名目に家族や子飼いの部下と共に北京から離れた。
そして軍と警察が崩壊していくのを見た貧困層や虐げられてきた農民が相次いで蜂起。元々、流民などが河北省に流れていたこともあって、暴動は瞬く間に拡大し、治安を崩壊させていったのだ。これまでの圧制で恨まれている北京政府高官の中にはテロに合うものさえいた。
そして弾劾から8日後の2月9日には河北省各地は無政府状態と化し、略奪と破壊の嵐が吹き荒れた。元々崩れかけていた国であったがため、一度崩壊し始めると崩壊は急速に進んだ。混乱は政府のお膝元である北京の市街地にも及び、あちこちから黒煙が立ち上っている。
「孫文が夢見た中華民国の結末が、これか……」
北京に赴いていた(相変わらずのトレンチコート姿の)村中は特務機関が入ったビルの頂上から見える北京の様子を見て、詰まらなそうに言った。
誰も彼もが他者を顧みず、生き残る事、あるいはこの混乱のドサクサに紛れて利益を得ようと奔走する有様は、まさに末世と言ってよい状況であった。
「まだメキシコ人のほうがまともだったな。彼らは少なくとも最後の決断ができた」
村中の目からすれば、この場で右往左往する支那人はメキシコ人にすら劣る存在だった。
彼らは一度道を誤った。だがそれでも最後には国を救うために必要な決断を下し、守ろうとした人々から罵声を浴びつつ、刑場に消えていった。
「偉大な中華文明とやらはどこにいったのやら……そうは思いませんか、尾崎さん?」
「彼らの文明は王朝が変わるたびに途絶えています。新興の王朝である『中華民国』が終わる時が来たというだけですよ」
村中の後ろ側に立っていた尾崎は、嘆かわしいとばかりに首を振りつつ答えた。
二重スパイでありながら近衛の側近として夢幻会中枢と近い男は、村中と同様に冷めた視線で北京を眺めつつ、村中の右隣に立った。
「……これで奴隷商人共と話をせずに済みますね」
「ええ。当分、あの誇大妄想の持ち主達と話さなくてよいと思うと、気分も軽くなりますよ」
第二次下関条約の不履行及び第二次満州事変の真相暴露は、日中友好を唱えていた者達に大打撃を与えていた。
尤も中国側は「あれは張学良と一部の政府役人がしたこと」としれっと言って、「中国人の多くは日中友好を望んでいる」と平然と言い放ったが、それを真に受ける日本人はすでにいない。大陸住人に対する根強い不信と怒りが宿った日本人は、大陸と距離を取ることを選びつつあった。
「どちらにせよ、中華民国は終わりです。数々の輝かしい歴史を誇る彼らにとってはふさわしい幕引きでしょう。何しろ世界史に大々的に名が残るのですから」
尾崎の台詞に村中は苦笑する。確かに中華民国と張学良の名前は残るが、それは悪名としてだ。
これから華北出身者はあらゆる場所で白い目で見られ、排斥されることになる。仮に新たな王朝が勃興したとしても悪名を拭うことは容易ではない。
「しかしこれであなた方は、号外を挙げることができますな。何せ1国の最後に立ち会うのですから」
「ははは。確かに。北京の落日、中華王朝の最期の日と見出しを出せば売れるでしょう。部下もやる気になっています。良い記事ができるでしょう」
「王朝の最後、ですか」
尾崎は頷く。
「適切な時期に、適切な人材が、適切に力をふるえなかった。故に滅ぶのでしょう」
「……」
「寡頭制でも、多頭制でもこれは変わりません。人材と制度は両輪です。どちらが欠けてもうまくいかない」
「制度に多少欠点があっても人材が豊富なら補える、と?」
「どんな制度も欠陥はあるでしょう。完璧な制度など存在しませんよ。勿論、完璧な人間も存在しません。仮に私利私欲を持たない優秀な人材がいれば共産主義だって実現できるでしょう。だがそんな人間はいない」
「……ためになる話ですね」
「『あの御方達』はそのことをよく理解しています。まぁ彼らも『今の先生方』は信用できないようなので、テコ入れを進めるとのことですが」
そこで話を区切り、尾崎は村中を見る。
「公曰く『自分たちの操り人形になるだけの人間は間に合っている』とのことです。そこで優秀な人材を政界に送り込みたいと。村中少将もどうです?」
「……私は仕事がありますので、この辺りで失礼します」
村中はそう言うと、背を翻してビルに入っていく。尾崎は誰に言うことなく、世話話のように言った。
「ああ。そういえば件の情報漏えいは止まったようですよ。誰がやったかは分かりませんが、全くもって鮮やかな手並みでした」
「……」
「そのような有為な人材は、是非、表でも活躍してほしいものです」
「……」
一旦足を止めた村中は振り向くことなく、そして何も言うことなくビルに入っていった。
それを見送った尾崎は「やれやれ」と肩をすくめて、尾崎は煙草をくわえる。
「共産主義の幻影は消え、アメリカ式の自由民主主義も失墜した。されど夢幻会の方々は賢人政治が継続することも望んでいない……さて世界はどう動くか」
尾崎とて新聞記者の端くれ。この世界の政治がどんな変遷をたどっていくか興味は尽きない。
新しい思想であった共産主義は滅びつつあり、この戦争の結果、民主共和制にもケチがついた。イギリスは戦後復興を進めるため円卓を結成した。ドイツの動向は不明だったが夢幻会のシステムが有効と判断すれば同様の組織を結成しかねない。そうなれば他の枢軸諸国も倣う。
そして列強が優秀なシンクタンク又は利害調整のための組織を構築すれば、新たに独立した国々も真似る可能性は大だ。特に日本が成功したやり方と聞けば間違いなく模倣を試みるだろう。
「フランス革命のような転換期となるか……新聞記者の端くれとして心が躍る」
激動の世界なら、記事に困ることはない……そう考えつつ尾崎は煙草の煙を吐き出すと、目を細めて空を眺めた。
尾崎がそんなことを呟く中、日本側の情報機関は北京の現状、もはや北京政府の断末魔と言ってもよい状況について細かい情報を東京に報告していた。
その報告を受けた帝国軍および政府高官たちは今後の対応を協議するべく大本営に集ったのだ。
「北京政府はすでに統治機構としての体を成していないと言って良いでしょう。そして駐日大使に具体的な指示を出す能力ももはやないかと」
中央情報局長である田中の報告を聞き、出席者たちは北京政府を交渉相手としては不適と判断した。そこで辻は介入が必要であると説いた。
「北京政府崩壊となれば債務不履行ということになります。他の諸勢力が遺産の引き継ぎを拒否するのであれば、差し押さえの強制執行が必要になるでしょう。我々が泣き寝入りすると思ったら大間違いであることを彼らに思い知らせてやらなければなりません」
北京政府に反旗を翻した各軍閥は漢族を詐称する満州人・張学良と彼を後押しする米国が作った『偽りの中華民国政府』に無理やり従わされていただけと主張した。彼らからすれば満州人(あるいは奉天派)が作った政府による取決めなど「知ったことではない」のだ。
たとえ戦前に反日行為を行っていても、すべて米国と張学良に強要された所為であり、本意ではないと臆面もなく言うつもりだった。
その理論だと、元のような漢民族以外の民族が作った王朝は中華王朝ではないのだが、そのことを指摘されても彼らは全く意に介さない。しかし向こうがそう出るならこちらもそれなりの姿勢で動くだけ……これが夢幻会の意向だった。
(更に満州、内モンゴルを支那から切り離し、彼らを徹底的に叩くだけですよ。それに対中不信を煽る材料にも使わせておらいましょう)
辻は軽く唇の端を釣り上げる。何しろイギリス、ソビエトとの話もついていた。
トルキスタンを拠点としたソビエトの中国侵攻については日本も影から支援することになった。輸送車両や燃料の提供だけでなく、兵器も提供する。
ただし兵器は旧アメリカ合衆国製だ。日本との戦いで惨敗した結果、価値が暴落した旧米軍兵器や中古の輸送車両を屑鉄扱いでソビエトに流すことになっている。あまりに非力な兵器ならドイツも文句はつけないというのが日本の考えだった。
(ついでに余剰人口も処分しなければ。あの寒波の影響は思ったよりも大きいですからね)
戦争で荒廃しても尚、3000万を超える人間が満州に生活している。戦前は米資本と関東軍によって満州が安定していたため多くの人間が移り住んだため、人口が増えたことが人口増の大きな原因だった。
しかし現在、食糧生産能力が低下した満州においては治安を維持するために多少、口減らしをする必要があった。その為に、夢幻会は東北軍が小遣い稼ぎとしてソ連に住民を売り飛ばすのを敢えて見逃すようにしていた。
1月の大寒波でシベリアでは大量の凍死者が出ており、トルキスタン経由での中国侵攻も考慮すると使い潰せる人間の需要は減る気配はなかったため、彼らの商いは大盛況であるとの話も辻の耳に入っている。朝鮮からの輸出も考えると大陸の『口減らし』は順調と言えた。
(満州では連中を適度に太らせ、度が過ぎる者については見せしめで潰すのが良いでしょう。東北軍の統制、そして現地住民のガス抜きにもなる)
夢幻会の面々からは「相変わらず黒い」と評価される辻だったが、本人は「腹黒紳士(イギリス人)に比べれば可愛い物」と思っていた。
まぁ何はともあれ、辻は今回の一件で軍事的オプションを含む介入を行うべきと考え、その方針を支持していた。
しかしこの方針では『また』荒事となるのは確実なので、外務省としてはあまり面白くない。
「辻蔵相は出兵に賛同されると?」
外相である重光葵は顔を顰める。
「現状では話し合うこともできないのです。やむを得ないでしょう。それに……現状なら皇軍が動いても文句をつける国もなく、大義名分には事欠きません」
辻に賛同するように杉山が頷く。
「それに北京政府が潰れて中央政府が消滅すれば遼河の西岸に旧自由ポーランド、旧自由フランス、ユダヤ人の自治都市建設も容易となる。これは望ましいことでは?」
「……ふむ」
一理あると重光は考えた。何しろ、杉山の言ったように祖国に帰れない亡命政府やユダヤ人達に安住の地を与える必要はあった。
しかし日本国内に与えると無用な軋轢の元になりかねず、かといって適当な土地を探すのも中々に難しい。故に遼河の西側、日本の新領土の対岸に彼らの都市を作れるというのは大きな利益となる。彼らを大陸勢力への盾として使うと同時に、日本が彼らを見捨てていないこともアピールできる絶好の位置なのだ。
「支那の抗日気運は?」
「抗日よりも反北京機運が強く、清朝末期と同様であると陸軍は判断している。情報局も同様の見解を示している」
戦前の外務省なら『日本主導(日本の支援)で新政権を作って、日中友好を』との声が出たかも知れないが、今の状況ではとてもそんな声は出なかった。
アメリカ合衆国が如何に苦労させられていたかが明らかになるたびに、「あの連中の世話は見切れない」との声が強くなっている。
「ただし、露骨に領土欲を見せれば抗日気運が高まりかねない。漢人に団結させる理由を作ることになるので、その点は留意する必要がある」
そう言った後、杉山は呼吸を整えるように一呼吸おく。
「邦人保護を名目にして北京、天津などを一時的に占領。更に野盗化しつつある北京政府軍を撃滅することを提案する。特に満州の脅威となりうるのが山海関にいる北京政府陸軍第2軍。これを『殲滅』できれば脅威を排除できるだけでなく、臣民に向けて『報復』を行ったと言える」
「「「………」」」
日本国内では反中気運が強かった。規模はどうであれ、直接、日本が手を下さないと誰も気は済まないだろう。
何しろ「原爆を落として華北を焦土にしろ」という声さえあるのだ。ここで何もしない訳にはいかない。まして嶋田は表向き強硬派なのだ。
(ふむ……戦場を河北省周辺に限定し、山西派とも十分な連絡を取り合えば問題ない、か。後は列強からの支持だな。これも取り付けなければならない)
一時的な占領後、山西派に北京を委ねて撤退すれば民衆との衝突は最小限にとどめられる等と暫く考えた後、嶋田は決断を下す。
「介入を行う」
そしてこの会議の4日後、昭和20年2月14日。大規模な空爆と日本陸軍空挺部隊による降下作戦によって介入の口火は切られた。
あとがき
提督たちの憂鬱外伝 戦後編11をお送りしました。
拙作ですが最後まで読んで下さりありがとうございました。
いよいよ北京政府の最後です。でも派手さはないと思います。何分、瓦解寸前の政府なので……戦闘はあっさり終わりそうです。
まぁこれで嶋田総理は在任中に2つの国の滅亡に立ち会った(滅ぼした)ことになります。歴史書に何と書かれることやら。
2014年も良い年であることを願って、あとがきを終わらせていただきます。
それでは戦後編12でお会いしましょう。