提督たちの憂鬱外伝 戦後編10
西暦1945年1月上旬、北半球、特にユーラシア大陸各地は厳しい寒さに襲われた。
元々、厳しい寒さが続いていたが、この1月上旬の寒さは一層、厳しいものだった。これにより復興途中の西ヨーロッパ諸国は更なる打撃を受けることになった。ドイツやフランスなどの植民地を持っていた国々は、幸いにもその負荷を植民地人に押し付けることができた。
当然のことだが、その負荷を押し付けられた人々は各地で困窮に喘ぎ、その不満を爆発させることになる。
「ナチスを追い出せ!」
「食べ物と自由を!」
ナチスドイツによって厳しい占領政策が続けられているポーランドでは、困窮したポーランド人が各地で自由と食糧を求めて暴動を起こした。
何しろポーランドでは労働に耐えうる成年男子が次々に徴用され、残された老人や女子供は入植してきたドイツ人達によって次々に生まれ育った土地から叩き出されるという事態が相次いでいた。更にドイツはポーランド人の愚民化を進めており、それがポーランド人の反感と怒りをさらに煽っていたのだ。
しかし、ポーランド人の敵は占領軍だけではなかった。
「撃て!」
暴徒たちに容赦なく銃弾を撃ち込むのは、ドイツの親衛隊髑髏部隊だった。この髑髏部隊は相手が女子供であっても容赦などしなかった。髑髏部隊のモットーは「寛容は弱さの印」なのだ。彼らの存在は、ポーランド人達にとっては死神そのものだった。
そしてこの死神達は……かつてポーランドという国を構成していた民族だった。それを理解するがゆえに、暴徒たちは叫ぶ。
「この、裏切り者が!!」
血走った眼で睨みつけるポーランド人達だが、そんな彼らの感情など一顧だにせず、髑髏部隊は必要な行動をとっていった。
そんな彼らの行動を背後から見ていたドイツ人の親衛隊員は内心で嘲笑する。
(カシューブ人か。憎まれ役としては十分に役に立つな)
ポーランドの少数民族であり、かつてプロイセン王国が健在だった時代には王国の一員であったカシューブ人はドイツの親衛隊に志願し、今回の暴動鎮圧に参加していた。ヒムラーとしてはゲルマン民族以外の人間を武装SSに入れたくはなったが、労働力の問題や国防軍との軋轢もあってゲルマン以外の民族も採用していたのだ。この政策によってカシューブ人、そして他の少数民族も武装SSに入ることが可能となっていた。
当然、ナチスに尻尾を振るということはポーランド人から裏切り者扱いされ、ある意味、ドイツ人以上に恨まれる立場となる。そして報復の恐怖に晒された彼らはドイツ以上にポーランド人に容赦がなかった。
更にドイツのポーランド占領政策に積極的に協力している一部のポーランド人(大多数のポーランド人からすれば売国奴)も、暴動鎮圧に協力していた。彼らは不穏分子の情報を密告したり、或は反乱分子を内部から攪乱していた。故にドイツ政府にとってこの暴動鎮圧は不可能ではなかった。
だが鎮圧できるからと言って統治者であるドイツにとっては面白い事態ではない。
「……ふむ。ポーランド人はまだまだ多すぎるようだな」
総統官邸で報告を聞いたヒトラーは少し苦い顔をした後、淡々とポーランド人の浄化政策を一層進めるように命じる。
ウクライナなどの新領土開発のためにドイツはポーランドから大量の労働力を徴用していたが、ヒトラーはその規模を更に拡大することにした。独ソ戦の戦禍、ドイツの占領政策、異常気象による食糧危機によってポーランドでは既に全人口の約15%に相当する約450万人の人命が失われ、100万人以上の人間が命の危機に晒されているが、ヒトラーはそのようなことを気にしなかった。
「スラブ人共がいなくなれば、優秀なゲルマン民族が入植できる」
ヒトラーにとってはその程度の問題だった。
当然、これだけ苛烈な統治が行われれば、その圧制から逃れようとする者も現れる。しかし周辺国に逃れた者達が待ち受ける運命もまた過酷なものであった。流民たちは逃れた先でも弾圧されるか、密告されて地獄へ連れ戻された。
旧ポーランド周辺に、ポーランド人を支援する勢力があれば話は違っていたかもしれないが、残念ながらこれまでのポーランドの所業によって周辺地域には反ポーランド勢力しか存在しなかった。かつて首都を占領されたリトアニア、裏切られた上、領土をかすめ取られたウクライナ、それにドイツと対峙していた際、背後から撃たれたチェコ。詳細なものを入れれば数え知れないほどの恨みをポーランドは周辺国から買っていたのだ。
故にポーランド人に助けの手を差し伸べる勢力など欧州(特に東欧)には存在しなかった。
ちなみにポーランド並に色々と無茶なことをしていたハンガリーは、地中海の覇者であるイタリア王国が諸王国の庇護者として振る舞っていたのでかつてのように無茶なことは出来なくなっている。
ハンガリー政府は歯ぎしりしたが、世界最強の日本海軍(正確には日本海軍の地中海派遣部隊)に大きな打撃を与えたという実績を持ち、欧州枢軸海軍の主力を担うイタリア王国の威光、それにドイツ政府の説得の前では何もできない。
こうして欧州は一定の安定を得たのだが……イタリアがそんな重石になっているとは夢幻会の一部の面々には信じられないことでもあった。
「イタリアが頼れる兄貴分? 何の冗談だ?」
「エイプリルフールはまだ先のはずだが……」
このように一部の面々を唖然としたが、現実は変わらない。ムッソリーニ政権はマフィアを叩き出しつつ、国内の再編を加速させ、更に国際的地位の向上も図っていたのだ。
「まさか、イタリアが欧州で有数の勝ち組になる日が来るとは」
大臣室で辻は苦笑いしたが、そこには僅かな羨望があった。何しろイタリアは夢幻会が欲したナンバー2(枢軸内限定だが)という地位を手に入れたのだ。
「片やこちらは面倒な太平洋の覇権を背負い込み、いまいち信用できないイギリスと手を合わせて有色人種の雄としてナチスドイツと相対する……本当に欲しい物は手に入らず、面倒事ばかり転がり込む。おまけに転がり込む面倒事を見て、手を叩いて喜ぶ人間と羨む人間が何と多いことか。実際に切り盛りする人間の負担というのを分かっているのかと小一時間ほど問い詰めたい」
神を呪い殺さんばかりの勢いで呪詛の言葉を唱える辻。会合で辻を知る面々が今の状況を見れば、間違いなく震え上がる程の負の念が部屋にあふれていた。
会合に持ち込まれる厄介ごとは戦後になって減るどころか、むしろ増加傾向であった。おかげで辻のストレスも天井知らずだった。
印度や北米での問題への対処だけでも頭が痛いのに新領土、東南アジアの衛星国に関わる利権の分配、帝国陸海軍と省庁再編を巡る駆け引きは熾烈を極めており、延々と続く暗闘はタフなはずの辻の血圧と眼圧を上昇させ続けている。
「お嬢様学校で萌えるだけでは足りない。ふむ……気分転換に、頭の運動を兼ねて山本さんと賭け事でも」
辻がそんなことを呟いた瞬間、海軍省の大臣室で山本五十六が謎の悪寒を覚えたのは言うまでもない。
ポーランドの惨状を知る日本帝国政府及び帝国軍首脳部は眉をひそめたものの、ドイツに対し大規模なアクションを取ることはしなかった。
「自由ポーランド関係者、それに可能なら知識人の脱出を急がせろ」
嶋田達は外務省と中央情報局にそう命じるだけだった。
ドイツの行いは、一個人としては見ていて気分が良いものではなかったが、かといってそれを理由に現状においてドイツや東欧諸国との関係を『必要以上』に悪化させるつもりもない。
しかし日本政府は東南アジアの各独立準備政府、それにフィリピン、タイ政府に対して、東欧やアフリカでのどのような蛮行が行われているかを伝えることを怠るつもりはない。日本政府は各国をまとめ上げるのに、ドイツやフランスの蛮行を最大限利用するつもりだった。
当然、外務省は実績作りと考え張り切った。そして同時に外務省は地盤沈下している自分たちの立場を回復するべく、国益にもつながる計画の実施を夢幻会上層部へ働きかけていた。そしてそれは嶋田の働きかけによって会合における議題となった。
「外務省から提出された『大東亜会議』、改め『環太平洋国家会議』を今後の主要な議題にしていきたいと思いますが、宜しいですか?」
嶋田の問いかけに対し、反対意見はなかった。
環太平洋国家会議とは政治、経済、軍事、それに防災や防疫などをテーマにして話し合い、諸外国の協力関係を構築することを目的とした会議だ。
外務省は衛星国となる東南アジア諸国や北米三ヶ国をうまく統制するための場としてこの会議の創設を主張したのだ。最初は『大東亜会議』などという色々と拙いネーミングであったり、創設する意味について懐疑的な雰囲気が夢幻会内にあったこと、何より他に優先すべき問題が山積みであったことから本格的な議論については先送りされていた。
しかし伏見宮邸から戻った嶋田は改めて外務省の提案に着目し、この提案を実現するため積極的に働きかけを行ったのだ。
中華民国を弾劾する準備に忙しい面々は、嶋田の意見に苦い顔をしたものの、『戦後世界を生き抜くための日本外交の再建』を主張する嶋田に反論することも難しかった。加えて外務省にすべて仕切らせるのはかなり不安であったが、能力面では信用できる吉田や白洲などを中心に行わせれば成功の可能性は高く、
さらに次の次の総理に推挙する際に周囲の説得が容易になるとの打算も働き、最終的に嶋田の提案は了承された。
「しかし、珍しく嶋田さんが積極的に動きましたな」
近衛の感想に辻は同意してい頷く。
「ええ。宮様から何か言われたのかもしれません……」
「それはあり得るでしょうな。ですが、さすがと言うべきか……いつもは受動的に動く彼が積極的に動くと、回りを巻き込んで事が一気に進む」
「普段からあれだけ回りを引っ張ってくれれば更に言うことはないのですが……」
辻の言葉に、近衛は苦笑する。
「さすがにそこまで期待するのは酷というもの。それに普段、彼が抑えているからこそ、その爆発力が非常に発揮されると考えれば良いのでは」
近衛の台詞を聞いた瞬間、辻は「その発想はなかった」と言わんばかりに目を見開いた。
「なるほど。そう言われると確かに……」
「ええ」
「つまり、これが嶋田さんの能力と言う訳ですね」
「は?」
突拍子もない言葉を聞いて、近衛の脳裏に『自動車がガードレールを突き破る』光景が頭に浮かぶ。
「つ、辻さん?」
「普段は受身で各部署の調整に専念することで提督力(ちから)の開放を最小限に抑え、いざという時にはそれを開放し絶大な成果を叩き出す。つまりアドミラルパワー(?)メイクアップということですね!!」
近衛は頭を抱えた。同時にガードレールを突き破って谷底に落下した自動車が爆発炎上する光景が彼の脳裏によぎる。
ちなみに近くで聞いていた出席者が「「「な、なんだってー!!」」」と叫んだが、近衛は意に介さない。
「……辻さん、貴方もお疲れなんですね」
「ははは。すいません。少しテンションが高くなりました」
「今日は早めに休みましょう。いや、本当に」
そんなやり取りがされていることなど気にもせず、嶋田は吉田達と話をしていた。
「ありがとうございます。総理の力添えで、我々の提案は何とか実現できそうです」
吉田は嶋田の前に出向き礼を述べた。
「気にすることはありませんよ。私は日本のために必要な行動をとっただけです」
嶋田は気にしなくても良いと手を振る。表向き、独裁者と言われるも実際には強権をふるうことを好まない軍部出身の首相を見て吉田は内心で苦笑する。だがその直後に放たれた嶋田の言葉に目を丸くした。
「それに軍人というのは、私を含め単純な人間も少なくない。戦後の世界を生き抜くためには我々軍人ではなく、吉田さんのような人材に活躍してもらわなければなりません」
「………は?」
あのブルドッグのような吉田茂が豆鉄砲を食らった鳩のような反応を示し、近くで話を聞いていた山本も驚いたような顔をする。
「そこまで驚くようなことですかね? 私は餅は餅屋に任せたいと言っているだけなのですが?」
そう尋ねた嶋田を見て、吉田は「一本取られた」とばかりに笑う。
「いやはや、嶋田元帥がそれを言われますか」
嶋田の台詞を冗談と受け取った吉田。嶋田はこれを見て顔を顰めそうになるが、いつまでも雑談をするわけにはいかないので議題を移す。
「中華民国北京政府が小癪な真似をしていると聞きますが?」
白洲と田中が頷く。田中は処置なしといった表情で答える。
「第二次下関条約の不履行。より正確には我が国に輸出されるはずの食糧が、他国……いえ、オランダ向けに回されています。こちらの苦情に対し、北京政府側は匪賊の襲撃で奪われたなどと言い訳をしていますが、政府関係者が背後にいることは間違いないでしょう」
「しかし、オランダにですか?」
田中からバトンタッチされた白洲が口を開く。
「はい。オランダは我々から得た金の一部と引き換えに中華民国から食糧を輸入しようとしているのです」
「しかし、あれだけ信用できない中華民国と取引するとは……」
「彼らもあまり信用していないようで、取引の際にはまず対価である食糧を先に輸出するように求めています。オランダが追い詰められていることの表れとも言えますが」
「ふむ……」
オランダ王国は、利権は維持できたと言っても植民地であったインドネシアを失っていた。
さらに今年一月に入ってからは、ユーラシア各地で寒波が吹き荒れており、大きな被害を受けていた。戦災、第二次世界大恐慌、大西洋大津波、植民地の喪失、異常気象と立て続けに大きな打撃を受け、更に食糧価格は高騰している。このため国内は安定しているとはいいがたい状況だった。
尤もこのオランダと中華民国の取引、それも中華民国側が条約違反をして食糧を集めて輸出しようとしているというのは中国を弾劾するための絶好の切っ掛けとなる。故に朗報と言えなくともない。だがなぜ中華民国側の人間がこうも短絡的な方法に打って出たかについては疑問が出た。
「ふむ。中華民国の担当者は、オランダから金を得た後はさっさと逃亡するつもりだろう。中華民国北京政府の命脈はもう長くない、彼ら自身がそう思っても不思議ではないからな」
杉山の意見に近衛が頷く。
「尾崎君からの報告では、中華民国北京政府の腐敗と堕落振りは予想を超えている。賄賂や横流し、着服の横行は当たり前。それどころかソ連に国民を売りさばき、それを役人が自分の懐に入れるなどの行為が横行している。阿片欲しさに住民から金を巻き上げる軍人、警官さえいるそうだ。加えて農民からは容赦なく税と称して食糧を徴収している。税が払えない場合は労働や兵役に耐えうる男、それがいないなら若い女性を徴用と称して連れ去っている。河北省やその周辺地域の農村は地獄絵図だそうだ」
「中国人民は文字通り、血税を支払わされているということですか。反乱が多発する訳です。まぁ反乱を起こした連中の地域も似たようなものですが」
辻は「まさに末世ですね」と呟いて肩をすくめる。
「さらにこの大寒波で、華北部では凍死と餓死が多発している。家畜の死亡も相次いでいる。農業と牧畜は壊滅だろう。尤も家畜どころか人間の死体さえ調理して飢えを凌いでいるとの話もあるがね。飯がまずくなる話ですまないが」
「気にしませんよ。その程度で気分が悪くなるようなら、この場にいませんから」
嶋田の返しを聞いた近衛は軽く笑って頷く。
「最近、比較的、元気なのが南京に本拠を置く江蘇軍閥ですが」
「彼らを支援しているのは浙江財閥。そしてその背後には……イギリスの香港上海銀行がいる」
近衛の後を継いだ杉山の説明に出席者は顔を顰め、嶋田は辻を見た。
「彼らは何と?」
「香港上海銀行側はあくまで商取引と言っています。江蘇軍は北京政府に負けず劣らずで無理に税を徴収していますが、取引相手としては問題ない相手ですから」
日中が比較的早めに和平にこぎつけたため、南京周辺の被害は華北程ではなかった。これがまず江蘇軍が元気な理由の一つだ。
他に旧アメリカ資本を接収し、更に反抗的な富裕層を粛清し、その財産を没収。更に農村では共産主義者のレッテルを張った人間たちを弾圧すると同時に略奪を行い、加えてアヘンの売買や人身売買も行っていた。
「昨年の末には鼻が利く奴隷商人や上海の商人共の中に、江蘇軍への支援を申し出る人間が現れていると聞く」
「ふむ……江蘇軍など地方軍閥の台頭と体制の崩壊。北京政府の人間が逃げ支度をするわけですね」
「場合によっては手土産を持って地方軍閥に積極的に寝返ることも考えられる」
杉山の意見に、嶋田は嘆息する。
「……今は何世紀でしたっけ?」
「20世紀の中盤だ。三国志の時代と変わらない隣国を見ると頭が痛くなるが、ああいった土地が隣にあるのは事実だ」
一部の出席者は軽く頭を振って、議題に集中する。だが今度は別の問題がクローズアップされた。
「このままの勢いで北京政府を弾劾すれば、北京政府そのものが潰えるのでは?」
大寒波と想像を絶するレベルの北京政府の腐敗によって華北周辺の不安定さは去年の時点での想定以上に増していた。
支那人の怨嗟の声は高まり続けており、日本が口実を与えれば革命につながりかねない……そんな危惧が生まれていた。
北京政府そのものが潰えるにしても、潰えるまでに東遼寧住民は引き取ってもらいたいというのが夢幻会の本音だった。下手に北京政府をテコ入れしても必要以上に日本が恨みを買うことになるので頭が痛かった。逆に放置したままだと北京政府と言う食糧供給源の一つが潰れかねないという意見もでて議論は紛糾した。
そんな意見に対し、辻は時を見計らって問題ないと言って首を横に振った。
「北京政府はもはや統治能力を失い形骸化しつつあります。第二次下関条約以降、かなりの量の食糧を吸い出しました。この際、潮時と考えるのもよいでしょう」
辻の意見に何人かが頷き、口を開く。
「北京政府のサポタージュもありますが、第一次産業が壊滅的打撃を受けているため、今年後半には北京政府が我が国に食糧を拠出するのは困難になるかと」
「海南島、台湾での食糧増産は進んでおり、加えて華南連邦への進出も軌道に乗っています。来年以降、緑の革命の成果が出れば問題はなくなります」
だがここで強制退去させる東遼寧の住民をどうするか、という問題が浮上する。その解決策を示したのは近衛だった。
「……仮に北京政府が消滅したのなら、他の勢力に声をかけるしかない」
この近衛の意見を聞いた辻は渋い顔をする。
「良いのですか?」
「中華民国の国民を引き受けるのは、支那の中央政府の仕事。勿論、受け入れを表明した勢力は中華民国の正統な後継者となる」
これを聞いた吉田は近衛の意図に気付く。
「踏み絵、と?」
「そう。正統な後継者ということは中華民国、先代王朝の遺産を継ぐ。その覚悟が彼らにあるかな?」
中華民国政府が作った負の遺産は膨大なものだった。これらを引き継ぐとなると相当の覚悟がいる。
「御維新の後の日本のように、苦難の道を覚悟して歩むのなら……我々と相対するに足る国家として認めよう」
「逆に手を挙げないなら……正当な後継者はいないということを喧伝する、と」
「連中から支那統一の正統性を奪う。勿論、連中は認めないだろうが、将来的にはそれなりのカードになる。国内向けにも次に支那に出来た政府は過去の歴史と伝統を捨て去った新興国家だと言える。大陸の幻想を打ち払うには効果的だろう」
特に反対意見はでなかったが、杉山はある疑問を口にする。
「しかしそうなると、東遼寧の住民の扱いは?」
「補償金を得た上で国外追放を受け入れるか、実力で退去させられるか、2つに一つ。各地の勢力も住民丸ごとの受け入れは拒否しても、個々人の受け入れまでは拒否しないだろう。何しろ彼らは円という外貨を持っているのだから」
「……」
反対意見が出なくなったのを見て、辻は弾劾を行う時期について切り出した。
「弾劾するのであれば、オランダが食糧を輸入するまで待ち、最大限、オランダ政府に恩を売りましょう。一部の人間は日本を逆恨みしていますからね」
「ついでに、下関条約違反を犯して輸出したという証拠も突きつける、と?」
嶋田が確認するように尋ねると辻は頷く。
「北京政府が潰えない場合は恫喝を行い、更なるペナルティを課します。食糧はもう無理かもしれませんが……奪えるものは全て奪い取ります」
かくして北京政府の運命は決した。
西暦1945年2月1日。この日、日本帝国政府は「本日正午に緊急発表を行う」ことを全世界に対して発表した。
「政府からの緊急発表? この時期に?」
「何かあったのか?」
「判らん。だが只ならぬ様子だぞ」
首相官邸で緊急発表が行われることを聞かされた報道関係者や国民は固唾を呑んで発表を待った。
アメリカは滅び、中国は瓦解。ソ連は極東方面から軍事力を撤収させつつある。さらに東南アジアは日本の影響下に入った。日本の忠告を無視したインドの行動に対して国民は不満と不信を抱いていたが、政府が緊急発表をするような異常事態はまだ起きていないと考えていた。
「第二次満州事変は中華の自作自演だって噂だが」
「その関連かも知れん」
「だとしたら、さらに連中の悪評が高まるな」
冗談半分で語る記者達。だが、彼らはその冗談が実は『真実の半分』を言い当てていたのだ。
彼らが冗談を交わした3分後、嶋田は自ら記者会見場に現れ、壇上に上ると真剣な表情で口を開いた。そしてその内容を知った者達は驚愕し、そして日本人の多くは怒りに打ち震えることになる。
第二次満州事変が中華民国(北京政府)による自作自演であったこと、そしてそれを米国が事実上黙認していたとの情報は瞬く間に世界を駆け巡った。
これに加え米国を裏切った中国が、対米戦への参戦を打診していたことも明らかになると各国では中華民国に対する怒りと呆れと侮蔑……あらゆる負の感情が巻き起こった。
当然のことながら、発表直後から日本各地では反中デモが相次いだ。
「暴虐な支那人に懲罰を!」
「恩知らずの卑怯者を叩き潰せ!!」
自然発生したデモは膨大な数であり、それは普段おとなしい日本人がどれほどの怒りを覚えたかを示していた。
まぁ自分達に濡れ衣を着せ、米中で挟撃しようとしただけでは飽き足らず、中国側の求めで締結した第二次下関条約を破っていたと知らされて怒らない人間はいない。
「北京を占領して、北京政府の人間をメキシコ人と同じように裁判にかけて、吊るせ!!」
特に第一次上海事変や大陸での戦いで身内を失った者達の怒りはすさまじかった。
「華北の主要都市を原爆で吹き飛ばし、近代文明が再建できないようにしろ!」とまで言う者が現れる始末だった。
そして実際に、彼らの望みは実現不可能ではなかった。何しろこのとき、すでに帝国陸海軍は臨戦態勢に移っていたからだ。
「北満州掃討戦を見ていたソ連はまともに動かんよ」
東条は部下をそう言って関東軍を南下させる準備に入った。
海軍でも演習の名目で準備されていた戦艦『日向』、重巡『妙高』、『羽黒』を基幹とした艦隊に出動が命じられた。さらに各地の基地航空隊、特に富嶽は出撃準備命令が下されていた。
そして多くの軍人は、出撃命令が下るのを待ちわびた。特に知り合いを失った者達の意気は軒昂だった。
「糞、支那人どもめ……今度は絶対に容赦しねえ」
「ああ。軍曹の仇をうってやらないとな」
「あの連中に比べればイギリス人がよほどまともに見えてくるぜ」
日本軍が臨戦態勢に入っていることに慌てたのは北京政府だった。
「事実無根だ!」
中華民国政府は当然、濡れ衣だと主張した。そして中華民国大使・沈瑞麟が首相官邸に駆けつけ直に嶋田に抗議し、撤回を求めた。当然ながら嶋田はその抗議を一笑に付した。対面に座る大使に向けて、日本が集めた情報を突きつける。
「これだけの証拠があっても、尚、濡れ衣だと?」
ソ連経由の情報、そして中央情報局によって確保された張学良の元・側近、カリフォルニア共和国に恭順した元・在中アメリカ大使と元・在中米軍関係者などによる証言(当然、取引を行った)とこれまでの中華民国の行いが、日本政府の発表に絶対の信憑性を持たせていた。
「そもそも第二次下関条約に定められた賠償さえ怠ったのは貴国でしょうに」
嶋田の突きつけた言葉に、特使は一瞬だが口ごもり、縋るように尋ねる。
「……貴国は一体何を望んでいるのですか?」
日中の力関係からすれば、日本が中華民国を支配することも出来る。日本の発表を聞けばあらゆる国がそれを支持し、誰もそれに反対しないのは目に見えている。日本が第二次満州事変の真相を暴露した以上、何らかのアクションを起す……そう考えた故の問いかけであった。
「我々が貴国に提供できるものは、もはや土地しかありません」
「荒廃した華北を領有する意思は、我が国にはありません。ただし……今回の一件から相応の対応をさせて頂く」
嶋田は中国人の日本への渡航制限(殆ど禁止)、駐在する中国人に対する監視強化、中国資本の日本勢力圏での活動制限、中国船籍の船舶への臨検などの措置を実施することなどを告げる。太平洋を支配する日本の勢力圏での活動を制限されるとなると中国資本は大きな打撃になると言えた。
「それと食糧の供給が不可能なら、未払いの賠償金約2億円、それに今回の条約違反への償いとして更に1億円を現金で支払ってもらいます」
「そ、それは……」
今回の一件で中国資本の信用は失墜しておりまともな商売は実質的に不可能になる。経済がボロボロの状態で、更に賠償金を支払うとなれば、中華民国は破産しかねない。だがそれでも尚、甘い制裁といえなくとも無かった。中華民国が仕出かしたことを考えれば、北京に問答無用で原爆を落とされても不思議ではなかったのだから。
真っ青になりつつも打開策を練る沈。しかしそんな彼に、嶋田は追い討ちを掛ける。
「これに加えて」
「な、何を望まれるのですか?」
「簡単なことです。諸外国で排斥されるであろう中華民国出身者を貴国が責任をもって引き受けることです」
「在外の同胞の引き受け、ですか?」
「過去にあのような謀を行い、日米戦争を引き起こした国の人間が、海外でこれまで通りの生活が送れると思いますか?」
(それを引き起こしたのはお前達だろうが!)
沈は内心でダース単位で嶋田に罵声を浴びせる。しかしそれは決して表に出さない。
中華民国政府の命運は目の前の男との会談の結果に掛かっているのだ。沈の目の前に居る痩せた男の号令が下れば、世界最強の艦隊が渤海に展開し、両日中に北京に日章旗が立つことになるだろう。だが祖国が滅亡するよりも、恐ろしいことが中華民国の要人達にはあった。
(下手に戦って負ければ中華民国政府高官は全員が捕縛された上、世界の敵として処刑される……かつてメキシコを暴走させた男達のように)
元メキシコ陸軍将軍・ダビット少将などの旧メキシコ陸軍将校と革命政府の一部高官は文字通り『世界の敵』として絞首刑に処された。
アメリカ風邪を悪用して全世界を破滅に導こうとした男の末路として、彼らの最期は喧伝されていた。何しろアメリカ風邪の威力を見て生物兵器を開発しかねない勢力(その筆頭はソ連)は存在した。故に列強諸国は、生物兵器を開発しかねない勢力を牽制する必要があったのだ。
勿論、日本はその動きに乗った、いや積極的に主導した。何しろ日本は人口密集地帯に核兵器を投下したのだ。後に批判されることを避けるためにはその正当性を絶対のものにしなければならない。この先、人権や人道が重視される世界になっても、お人よしの人間から非難される謂れの無い絶対の正当性……それを得るためにはメキシコ人数名の名誉など軽いものだった。
メキシコ政府やメキシコ人達でさえ、祖国を破滅に導こうとした愚か者達に詰め腹を切らせる程度で罪が減じるなら安いもの……そう考えて処刑に賛同していた。
何はともあれ、メキシコ合衆国と当時の政府高官たちの末路が『列強全てに喧嘩を売った者(国)の末路』とされていた。そんな状況であるが故に今や世界の敵とされそうな中華民国は下手なことは出来なかった。
かつて日本を帝国主義者、侵略者と罵り、謀略で日本を陥れて世界から孤立させた国は、今や世界から孤立していた。もはやどの国も中華民国を助けようとはしない。いや、そもそも中国人そのものを不信の目で見るようになっている。
(どうしてこうなったのだ……)
幾ら粘り強い中国人と言っても、味方が皆無となるとさすがに厳しい。まぁそれでも生き残れないとは言えない辺りが彼らのバイタリティーの強さを物語っている。
何はともあれ、そんな沈の苦悩を見透かすように、嶋田は話を続けた。
「このままでは海外で現地住民と華人達の衝突が激化するでしょう。未だに混沌としている世界で、これ以上の混乱は望ましくないと我が国は考えています。そこで……」
「我が国の出番、と」
「その通りです」
一言で言えば、厄介者を引き受けろ……だった。
だがそれを聞いた沈は日本が何を考えてわざわざ中華民国を弾劾したかを理解した。
(日本人は、我々の海外への影響力を一掃するつもりか!)
中国人からすれば忌々しい戦略であったが、米中によって挟撃され亡国の一歩手前にまで追い詰められた日本からすれば当然の措置であった。
(貴様らの仕出かした罪に比べれば、十分に甘い措置だよ)
さすがの嶋田も、彼らの所業には腹を立てていた。故に容赦はない。
「船が必要なら『有償』で融通しましょう。退去までの時間が長引けば長引くほど大きな被害が出ます。無用な被害が出るのは好ましくありません」
まるで海外で迫害を受ける中国人を案じるような素振りを見せる嶋田。だが中国人が排斥される原因を作った張本人が言うのはあまりにも白々過ぎた。
(我々が受ける被害ではなく、諸外国が受ける被害が心配なのだろう!)
屈辱と怒りの余り、顔を真っ赤にする沈。
「……海外の同胞達が大人しく排斥されるだけかとお思いですか?」
「反撃なされると?」
「彼らとて生活があります。当然のことでしょう。それに東南アジアはどうされるのです。貴国とて東南アジアが混乱するのは望まないのでは?」
華僑を排斥すれば、日本も唯では済まない……沈はそう告げる。だが嶋田は余裕を崩さない。
「東南アジアの華僑は華南や福建出身が多い。そして彼らは我が国の友好国の人間です。すでに危害が及ばないように手は打ってあります。また仮に友好国で騒乱が起きた場合、迅速にこれを鎮圧する用意も進めています」
先の会見において嶋田は『日本の同盟国・福建共和国、友好国・華南連邦の人間へ不当な攻撃があった場合、迅速な対応を取る』ことを宣言していた。日本政府はあくまでも『北京政府(華北)の人間』が悪いことを強調していたのだ。福建共和国、華南連邦はそれぞれ戦前から独立しており、それなりにその存在を周知されていたこともあって、彼らの保護は不可能ではない。
「で、ですが仮に海外の同胞達を保護したとしても、今の我が国には彼らを養う余裕はありません」
「彼らにただ飯食いをさせなければ良い話では?」
「その働き口が……」
ここで沈は目の前の男が何を言おうとしているのか気付く。
「北の大地に送れと?」
「貴国がどのような働き口を用意するかは貴国の内政問題であり、我々が関知するものではありません」
「……」
「ああ、貴国が拒むのであれば、それはそれで構いません」
沈瑞麟は黙りこくった。
(仮に北京政府が拒めば、他の勢力がこぞって手を挙げるだろう。そして日本と手を結んだ者達は自らを「華北に於ける正統政府」と自称する。そうなれば北京政府は危機的状態に陥る。まして北京政府は今や世界の敵なのだ。『逆賊討伐』の名目に各勢力が連合して北京に攻め寄せる危険がある)
沈瑞麟は顔面を蒼白にして、必死に考えたが良いアイデアなど浮かぶわけがない。
「じ、人道を重視する貴国が、民間人をむざむざと死に追いやるような非道な行為を我が国に実施せよと迫るのですか! それではナチスドイツと変わりませんぞ!!」
帰ってきた台詞を聞いた嶋田は一切の感情を消した顔で告げる。
「残念です。我々は最大限譲歩したのですが……どうやら話し合いの余地はなかったようです」
「なっ」
「大使は帰られるそうだ」
嶋田が視線を向けると部下たちが動き出す。慌てた沈は首を横に振って会談は終わっていないと叫ぶ。
「待ってください、総理! 話はまだ終わっていません!」
沈は必死の形相で叫ぶ。勢いで髪が乱れたが、そんなことを気にすることもなく、嶋田に訴えた。
これを見た嶋田は改めて沈に顔を向ける。
「私が聞きたいのは、「はい」か「いいえ」のどちらかです。不要な議論をするつもりはありません」
「………」
「色よい返事を期待しています。極東アジアの平和のためにもね」
嶋田の鋭い視線を受けた沈は項垂れたまま官邸を後にした。
「寛大な措置と思って欲しいものだ」
負け犬の大使が出て行くのを一瞥した後、嶋田は不機嫌そうに吐き捨てるように呟いた。その直後、負け犬と入れ替わるように辻が嶋田のもとを訪れた。
「どうでした? 会談は?」
「ご自慢の中華5千年の文化を活かした言い訳を期待したが……期待はずれでしたよ。辻さん」
「手厳しいことで」
辻は苦笑して首を横に振る。だがそんな辻の様子など気にもせず、嶋田は尋ねる。
「東南アジアの華僑達は?」
「自分達の財産や地位が保全されるのなら、我々に協力するそうです。ああ、それと北伐のような馬鹿げた考えは煽らないとも言っています」
「それも『当面は』が付くのでは?」
「ここ半世紀押さえられるなら、それで良いでしょう。それに今の華南連邦は寄せ集めで中央政府の統制力は強くない。付け入る隙は多い」
華南連邦は日本にとって友好国であった。だが同時に仮想敵の一つでもあった。ゆえに夢幻会は対華南工作で手を抜くつもりはない。しかし『今』崩壊してもらっても困る。匙加減は必要だった。
「今回の一件は中華思想の狂人に押し付け、漢人でも中華思想を持たないなら『辛うじて』協力できると思われるように喧伝。同時に華北の人間を北の大地に封じ込めるには華南の人間の一致団結が必要であるとの考えを浸透させれば、あの脆い国も持つでしょう。ああ、ここで内輪もめを起せば北の漢人と同類扱いされると脅すのも効果的ですし」
共産主義国家である北朝鮮に対する抑えとして韓国が後押しされたように、夢幻会は華南連邦を中華思想が蔓延する(と宣伝している)華北への抑えとするつもりであった。幸いにも汪兆銘は穏健路線であり、彼が政府首班である間に利害関係を強化し華南連邦を雁字搦めにして中国分断を確定するのは可能との判断がその戦略の根底にあった。
「まぁ何はともあれ、大掃除を始めるとしましょう。日本に喧嘩を売ったら、どれだけ高い代価を払うことになるかを判らせてやらなければ」
日本人を侮って喧嘩を売ったツケがどれだけ大きかったか……それを大陸の住人とその親族達は嫌と言う程思い知ることになる。
あとがき
提督たちの憂鬱外伝戦後編10をお送りしました。
第二次満州事変の真相暴露で、北京政府は窮地に立ちます。
彼らが存続できるかはどうか……次回で。
一連のゴタゴタが終わったらようやく、インド洋演習に取り掛かれると思います。長かった……。
それでは拙作にもかかわらず最後まで読んで下さりありがとうございました。
提督たちの憂鬱外伝戦後編11でお会いしましょう。