西暦1942年8月16日に突如とした発生した『大西洋大津波』。これによって大西洋沿岸地域は甚大な被害を被ることになった。 世界有数の巨大都市『ニューヨーク』、世界最大の工業大国の首都『ワシントンDC』を筆頭に多くの都市が消滅し、海水が引いた後も 塩害によって多くの土地が耕作に適さない土地と変わり果てた。
 大西洋の主要航路も半ば遮断され、世界経済は大混乱に陥った。さらに旧アメリカ東部では『アメリカ風邪』と呼称される疫病さえ発生した。 キリスト教信者の中には『黙示録』、『最後の審判』の始まりと言って恐れ慄くほどの出来事の連続だった。
 しかし大西洋に面する地域に住む住人にとって本当の受難はそれからであった。

「今年もダメだった」

 フランスの穀倉地帯では43年、44年と続いた凶作に農民達が嘆いていた。ある農民は、自宅の倉庫の前で神を呪いつつ、膝を折った。 かつては収穫された穀物で満たされていた倉庫。だが今ではその3分の1にも満たない量しか穀物はない。

「あの津波以降、天候は滅茶苦茶だ。これじゃあ生活していけない」

 大西洋大津波以降続く異常気象によって、西ヨーロッパの穀物生産は壊滅的大打撃を受けていた。地中海沿岸はまだマシだったが、フランスや ドイツの穀倉地帯では凶作続きだった。漁船や養殖施設、港が大打撃を受けた漁業は漁業者や政府の必死の努力で少しずつ持ち直していたが、漁獲量は戦前にはまだ届かなかった。
 これらの事情により欧州の食糧事情はお世辞にもよいとは言えなかった。まぁ日本もそこまで良いとは言えなかったが、欧州の事情に比べれば遥かに良好と言える。
 ドイツ第三帝国のお膝元である帝都ベルリンでさえ、決して明るいとは言えない状況に多くの人間がため息を付いていた。

「本国の人間へ配る食糧こそ、何とかなったが……他の地域は悲惨そのものだな」
「仕方ないだろう。大西洋沿岸はボロボロだ。漁業は人と船、それに港をまとめて喪失している。復旧にはどれほど掛かることやら」
「フランスだと、被災した住人やワイン農家の生活が困窮して国内対立が深まっているそうだ」
「おかげでフランスのワインは品薄か。連中も踏んだり蹴ったりだな。いや俺たちもそうそう言ってはいられないか」

 飲み屋のカウンターの席でビールを飲みながら、男達はそうぼやいた。

「お前の長男は?」
「何とかロシアから戻ってきたよ。でも心を病んでいてね。政府からは補償を得ているが……」

 男はそう言って俯いた。彼の息子はあのソ連軍の大攻勢で辛くも生き残った。だがその代償は……彼の心だった。
 トラウマを負って帰ってきた息子の姿に、彼の妻は嘆き、そして絶望した。政府から補償は得られても、掛け替えのない日常は戻ってこない。 そして尚救われないことに、この男のような父親はドイツでは決して少なくなかった。

「息子のような人間がまだ増えると思うと、心が痛むよ。早く平和な時代になってほしいものだ」
「「「………」」」

 ドイツは新たに獲得した新領土の維持とソ連への備えのために膨大な戦力を外地に張り付かせていた。
 ソ連の弱体化を考慮して、兵力は削減しつつあるが、動員が解除されたとは言えない状況だった。さらに占領地で頻発する抵抗活動によって少なくない消耗をドイツは強いられていた。

「まぁ辛気臭い話はなしにしようぜ」
「そうだな。ユダヤ人やポーランド人に比べればマシと思うしかないだろう」

 1944年後半のドイツ国内は比較的平穏さを維持していた。あの忌々しい大津波を引き起こした火山の噴火によって冷害が発生し 食糧生産に多大な打撃を受けていたが、それも海外の占領地からの徴用、そして航路が漸く回復した南北アメリカ大陸からの輸入で何とか凌ぐことができた。

「食糧の安定供給は欠かすな!」

 折角、共産主義に勝ったのに、お膝元で革命が起きては目も当てられないとヒトラーは食糧の安定供給を命じ、さらにその強権をもって統制を強化してドイツの窮地を救った。
 ナチを嫌う者さえ、この強権があったからこそドイツは混乱を避けることが出来たと認めるほどなのだから、当時のドイツの窮状が判る。だがここで重要なのは、救われたのは『ドイツ』ということだ。
 前述のようにドイツは救われた……だが、ドイツの占領下にある地域は悲惨そのものだった。
 割を食ったのが占領地の住民であるユダヤ人とポーランド人、ロシア人だった。食糧難や新領土開発のためにドイツ政府は彼らを徹底的に酷使しており、三等国民の扱いは凄惨きわまるものだった。

「ジョンブルには辛うじて勝ったが、スラブ人とは引き分け。これだけで青息吐息だ。一番得したのは、忌々しいが『あの国』だろう」
「大恐慌のときと同じさ。連中はうまく立ち回って、一気に自国の地位を押し上げやがった。全く、連中には凄腕の占い師でもいるのかね?」

 飲み屋でビールを飲みながら、男達はそうぼやいた。一般的なドイツ人からすれば日本というのは絶対絶命のような状況に陥っても、そこから大逆転を遂げて躍進してくる忌々しい国だった。
 勝ち目がないと思われてきた日清戦争、日露戦争、そして日米戦争で悉く勝利し、世界中が貧困に喘いだ世界恐慌、世界を阿鼻叫喚に叩き込んだ大西洋大津波と第二次世界大恐慌さえ追い風としたのだ。

「正直に言うと、ユダヤ人よりも連中のほうが余程、欧州にとって脅威だと思う。下手をすればモンゴル人の再来だぞ」

 モンゴル帝国の来襲は、欧州に住む白人たちにとって未だにトラウマだった。
 そして今の日本の急速な勢力圏の拡張は、そのトラウマを思い出させるのに十分なものだった。

「ユダヤ人の陰謀と、日本人の陰謀……どちらが怖いか、分ったものではないさ」
「日本人の場合、領土と国軍、それも世界最強と言われる海軍や街ひとつ消し飛ばす原子爆弾があるからな……実力を行使することもできる」

 メヒカリで何が起きたか……それはすでに世界中に知れ渡っていた。
 これまでの兵器とはまさに一線を画す超兵器の登場に各国は慄き、同時に自分たちも保有することを目論んだ。だが欧州諸国は復興と勢力圏再編とやることが多く、まだ本格的に手を付けられない。
 そんな中、日本がひとりだけ先を行こうとしているのだ。脅威に見られない訳がない。

「何もかも、日本の思うが儘、と言われても信じてしまいそうだ」
「まさか……」
「違う、と言い切れるか? 未開人同然だった極東の小さな島国の黄色人種が100年も経たないうちにあそこまで成りあがったのを見ても『違う』と言えるか?」
「「「………」」」

 ドイツは第一次世界大戦以降、日本によって散々に煮え湯を飲まされ続けてきた。だがそれでもこの大戦で勝ち組となったことで多少の心理的余裕はあった。
 何しろ彼らは前回の大戦の借りを存分に返したのだ。多くのドイツ国民は現状に多少の不満はあっても広大になったドイツの領土を地図上で見るたびに多少なりとも気分を高揚させることができた。
 これと対称的に、日本によって現在進行形の形で散々に痛い目にあわされているスペインは、心理的余裕はあまりなかった。

「疫病神め」

 それがスペイン人の日本人に対する評価だった。
 何しろ日本がスペイン内戦時にばら撒いた大量の武器は、いまだにスペインの治安悪化の要因となっていた。アフリカの旧ポルトガル植民地を得られかったこともスペイン国民の苛立ちを強くした。
 フランコは必死に立て直しを図っていたものの、スペイン内戦時の負債は大きく一朝一夕にできるものではなかった。これに加えてドイツやイタリアへ借りた金を返さなければならないと問題は山積みだった。
 獲得したポルトガル領土や無事だったスペイン内陸部(特に穀倉地帯)を発展させることができれば、スペインの発展は十分に見込まれたのだが……現状の過酷さから完全に目を逸らすには不十分だった。
 そんな中、スペイン国内では日本の行動に対する反感と警戒心から「日本人陰謀論」なる論調が高々に主張されることになった。フランコはドイツの視線を気にして露骨な反日感情が高まるのを阻止したかったのだがフランコの手腕でもそれは中々に難しかった。

「日本人の所業を考えれば、簡単に否定はできないし、完璧に押さえつけるのも難しいのが現状です」

 閣議の席で部下たちにそう言われると、さすがのフランコも苦い顔をするしかない。
 スペイン政府内でも日本によって奪われた途端にカナリア諸島の重要度が跳ね上がったことを受けて『日本人陰謀論』は一定の支持が集まっていた。  そしてそんな鬱屈した感情をもった人々にとって、日本によって奪われたカナリア諸島はスペインが日本に手痛い敗北を喫した象徴であり、いつかは奪還してスペインの国旗を高らかに打ち立てる土地であった。
 欧州諸国で不安や不満が募る中、ヒトラーは難しい舵取りを余儀なくされた。
 ヒトラーは欧州再建を進めると同時に、富嶽と原爆の組み合わせから欧州を防衛するために新型戦闘機の開発を推進した。その一つがMe262であった。
 史実ではいろいろと横槍が入ったこの機体は、この世界では真っ当な迎撃機として開発が進められていた。

「欧州を守る盾。これを整備しなければならない」

 そう決意したヒトラーは空軍省に対して発破をかけた。同時に未だに抵抗を続ける意思を捨てないソ連を脅し上げるための戦略爆撃機の開発にも注力した。
 瓦解寸前でかろうじて踏みとどまっているソ連を日独で分割するにせよ、主導権を少しでも握るにはカードが多いに越したことはないのだ。しかし現状ではドイツ側のカードが日本より少なく、些か心もとなかった。
 この現状を理解しているがゆえに、ヒトラーの気分は優れなかった。

「世界に冠たるドイツが、遅れを取るとは……」

 総統官邸でヒトラーは渋い顔をしていた。
 曲がりなりにもアメリカ風邪封じ込めを名目にして、日独英の協調体制を築いていたが、ヒトラーからすればいつ崩れるか分かった品物ではなかった。
 もしも日本が画期的な特効薬を開発したら、または日本が原子爆弾を安価に量産できる体制を整えたら、今の三巨頭体制は終焉を迎える可能性が大と彼は考えていたのだ。

(日本が東部を核兵器で焦土にし、その勢いで欧州までも壊滅させないとも限らん)

 夢幻会としてはドイツの人種差別政策がなくなれば妥協の余地があると考えていた。彼らは頼まれても超大国、世界のリーダーとして世界秩序の維持に責任を負うことなど願い下げだった。
 だがヒトラーは、日本人にその野心がある、いや無い筈が無いと考えていた。いやイギリス、ソビエト、その他の国々ですら、日本の野心を完全に否定できなかった。日本が勢力圏を再編し、軍備など必要な準備を整えれば何かしら行動を起こすのではないかと考える者は少なくないのだ。
 そんな考えを増幅させていたのは、言うまでもなく日本の快進撃だった。並大抵では考えられないほどの成果を短期間で叩き出し、並み居る列強を蹴散らして今の地位についたのだ。その勢いが続かないと考える者がいたら余程の楽観論者と言えた。

(空海軍の増強は急がなければならない。それに原子爆弾の開発も急がなければならん)

 そんな焦りにとらわれるヒトラーに諫言を行ったのが、ヒトラーから信頼を寄せられているシューペア軍需大臣だった。芸術家志望だったヒトラーは建築家であったこの大臣と馬が合ったのだ。そしてその関係ゆえに欧州の覇王であるヒトラーにシューペアは諫言することができた。
 総統官邸を訪れたシューペアは、大西洋大津波で欧州が受けた被害や戦災の影響を説明し、ヒトラーに自重を求めた。

「今は雌伏の時です。我が国がイギリス、フランス、ソ連を打ち破れたのも、総統閣下が先の大戦で疲弊したドイツ社会と軍を立て直せたからです」
「ふむ……」

 シューペアはヒトラー自身の功績を持ち出し、ヒトラーを持ち上げることでヒトラーを納得させようとする。
 そして連日のヒトラーへの説得は多少は功を奏していた。ヒトラーは膨大な予算が必要となる原子爆弾の早期開発を諦め、手頃な化学兵器の開発と生産に舵を切った。
 ナチスや研究者の中にはアメリカ風邪の兵器転用を考えた者もいたが、制御が効かない危険な兵器ということで却下されることになる。
 だがヒトラーに現実路線を取らせるのと引き換えに、シューペアは連日のようにヒトラーの趣味の話に付き合わされることになる。

(……この話はいつ終わるのだろうか。私も仕事があるのだが)

 建物の模型を前に上機嫌で饒舌に語るヒトラーを遮ることができないシューペアは、適当に相槌を打ちつつ、早く話が終わることを神に祈っていた。
 ちなみに、シューペアが退席した後は、ヒトラーに謁見したゲッペルスが延々と愚痴に付き合わされることになる。
 何はともあれ、少数のドイツ高官の尊い犠牲(笑)によって再建を重視するようになったヒトラーの意思を受け、反英感情に凝り固まったフランス政府も渋々ながら復興事業に舵を切っていた。
 当初、フランス海軍はサルベージし魔改造した元英国製戦艦2隻に加えて新型戦艦の建造計画を立てていた。
 また旧米海軍関係者を囲い、独自の空母を建造する計画も進めていた。日本から融通してもらった空母と艦載機で調子に乗っているライミーに一泡吹かせるべく、彼らは正規空母(それも基準排水量2万〜3万トン程度)の建造を考えていたのだ。
 正気を保っている人間はこの艦隊整備計画に反対したが、かつてイギリス海軍の卑劣な騙まし討ちにあった者達は頑固だった。日本海軍にやられたように真っ向から叩き潰されるならまだ諦めも付く。しかし先日までの同盟国に騙まし討ちにされ、袋叩きにされたとなれば話は違う。

「忌々しいジョンブル共自慢の艦隊を、連中が後生大事にする伝統もろとも海の藻屑にしてやらなければならない!」

 フランス海軍強硬派の高官達はそう言って憚らない。しかし何かをするには先立つものが必要だったし、軍事力を支えるには国の力が必要だった。

「今は雌伏の時か……」

 そんな彼らにとってイランでトラブルが起きているのは幸運(?)であった。何しろこの当時、シリアはフランスの勢力圏なのだ。
 中東で問題が起きた場合、フランスにも介入の余地はあった。北米とインドは遠いが、中東は近場であり地の利(フランス独自の拠点)もある。
 こうしてフランスはイギリス人に『多少』の仕返しをするべく、再建をあまり引っ張らない程度での策動を開始することになる。




           提督たちの憂鬱外伝 戦後編4




 北満州から不穏分子が一掃され満州が一定の安定を取り戻しつつあったのとは対称的に、韓国国内では再び反日ムードが高まっていた。
 多くの日本人からすれば理解不能だったが、彼らは「裏切り者を始末したのに、我々を冷遇するとは!」と不満を抱いていたのだ。また過剰な反日取り締まりが更に反日を煽ることになった。
 中にはソ連への奴隷輸出は日本政府が陰で推し進め、韓国人をすり潰して得た利益を日本が吸い上げているなどと考える者さえいた。
 これを聞いた夢幻会の面々は「ああ、平常運転だな」と呆れるしかなかった。

「……連中の脳味噌は、どんな構造なんでしょうね」
「想像がつかんよ。しかし……彼らの行動を見ると史実の日米政府の苦労がよく分かる」

 勿論、日本のバックアップと日本式教育を受けていた政府や軍首脳、良識を備えた皇帝は反日に舵を切るような真似をしないが……守旧派である宮中の人間たちは違っていた。
 守旧派、そしてその思想の影響下にある者達はひそかに不満をため込んでおり、不穏な動きも見られる……そのような報告が日本政府に極秘裏に報告されていた。

「最小限とは言え、支援を実施するにも拘わらず、この始末か……」
「武力制裁が無かっただけでも感謝してほしいものです」

 近衛宅の応接室で私的に会っていた辻と近衛は不快そうな顔でそう吐き捨てた。

「小中華思想の者達にとって、今の境遇は面白くないらしい」
「韓国には自力で立って貰いたいのですが……正直、それまでにどれだけの時間と手間がかかることやら」
「手間を惜しまないなら併合して、強引に上から改革するのが手だが……」

 近衛は半ば冗談で言った台詞に、辻は苦虫をダース単位で噛み潰したような嫌な顔をする。

「洒落になりませんよ。あんな不良債権など抱え込みたくありません。そもそも併合したら戦勝国の国民を自称して、どんな狼藉を働くことか……」
「全く、厄介な隣人だ……まぁ力ずくで押さえつけていれば当面は無視できるだろう。あと韓国軍に供与する兵器は流出しても惜しくないものだけを与えれば良い」
「それには賛成なのですが、世の中にはアジア主義などと戯けた考えを唱える馬鹿も多い……困ったものです」
「大東亜共栄圏構想を唱える連中か。奴らはインド解放も煽っていたからな」

 支那や朝鮮を含めたアジア諸国をまとめ上げ、欧米列強に対抗する思想はしぶとく残っていた。
 夢幻会としては朝鮮だけでも嫌なのに、支那まで面倒見切れるかというのが本音であった。このため、そのような思想は共産主義思想と併せて排除すべき思想でしかない。

「腹立たしいことだが、中華民国や華僑はアジア主義派と接触を図っている。奴らはあれだけ反日行為をしておいて、状況が変わったら手のひら返しをしている」

 戦前からその手の人間に手を焼いた経験がある近衛は、苦々しい顔でそう言った後、湯呑に注がれていたお茶を飲んで喉を潤す。

「どうやら奴隷貿易で成金となった連中も動いているようです。そして彼らと積極的に手を組んでいるのがアジア主義にかぶれた一部の大陸浪人たちです」
「連中はどうしても帝国を泥沼に引き入れたいのか?」
「むしろあの手合いの連中は自分たちの存在感を示すと同時に、本国の人間を見返したいのでしょう。落伍者も多いので……」
「誤った政策を進め、帝国の富国強兵を妨げている現政府の方針を転換させる、と?」

 どんなに日本が大国化しても、すべての人間が幸せになれるわけがない。そして日本国内で競争がある以上、落伍者がでるのも当然の摂理だった。また日本社会に幻滅したもの、アジア主義に被れた者も皆無ではなかった。
 そう言った人間たちが中小企業のように東南アジアに趣き、新たなフロンティア開発に携わるのなら文句はないのだが……戦前においては中国に流れた者も少なくなかった。
 戦争中、彼らは一部の企業と同様に中国市場や利権確保を目論み戦争を煽った。当然、沿岸部のみの制圧に止め、現在も支那封じ込め政策を推進する嶋田内閣は面白くない存在だった。
 何より彼らには、『自分たちは本国でぬくぬくとしている連中とは違う』という意識もあった。

「支那の広大な土地と領土、人民を支配すれば、日本帝国は世界帝国として君臨できると思っているのでしょう。世界帝国であった大英帝国を支えたインド。あそこと同じような機能を果たすと考えていてもおかしくありません」
「あの広大な土地と膨大な数の人民を統治するなど考えたくもない」
「私も考えたくもありません。朝鮮を含め、あんな人治がまかり通るような国など不要です。まぁ人間がいない『土地だけ』なら『多少』の魅力はあるかも知れませんが……」

 辻だけでなく夢幻会上層部は『恩を仇で返すような人間たちを統治するなど、御免こうむる』……そう考えていた。

「我々の方針に従ってくれれば飴も与えてもよいのですが」

 大陸浪人の中には、軍や情報局の手足となって働く者も多い。彼らは麻薬の密売なども手掛けており、里見甫は史実通り麻薬王と異名を得ていた。
 このように夢幻会は飴(実利)と鞭をもって敵対勢力を切り崩していたが……思想的に団結している者達の扱いには苦慮した。

「まぁあの手の連中は内ゲバを煽って瓦解させるのが良いでしょう。日本国内のシンパには左翼思想の持ち主も多いので、彼らの一掃にもなります」

 辻の意見を聞いた近衛は、この場にはいない者達をあざ笑うように言う。

「ふっ理想論を唱えるのは否定しないが……失敗したときの次善の策や失敗の責任をとる程度の覚悟は欲しいものだ」

 日本のアジア主義派、左翼勢力は今回の戦争における共産主義国家の本家『ソ連』の失墜や中華民国の横暴によって大打撃を受けた。
 最終的に共産主義勢力は特高の活躍もあってほぼ壊滅していた。日中連合(勿論、日本優位が前提)を主張したアジア主義派もその影響力を低下させた。
 しかしアジア主義派は諦めなかった。彼らは中国が米国と組んだのは日本が大陸進出を怠ったことが原因として、これまで以上に大陸への積極的な干渉を行って中朝をあらゆる面で配下に置くことで日本主導の北東アジアを構築し、それを中心としたアジア秩序構築を主張するようになっていた。勿論、反省の言葉などない。

「夢想論を唱える連中は今の政府を転覆させた後のビジョンなど持っていませんよ。全く、中国人全員に日本人並の倫理観を持たせるなど……どれだけの労力と時間がかかることか。人類が火星に行くほうが早いですよ。ああ言った連中が政権を取るのは阻止しなければなりません」

 辻はそう言って肩をすくめる仕草をする。
 辻に同意するように近衛は頷くと、話題を元に戻す。

「あとはプロパガンダだな。支那と朝鮮を重視した大東亜共栄圏など、どれだけ日本の足を引っ張るかを強調しなければならん」

 「腕が鳴る」と言わんばかりに近衛は意気込む。

「だがもう一つ、対外プロパガンダも進める必要があるだろう」
「対外ですか? 飽食の国扱いされることを避けるために手は打っていますが、ほかに」
「『辻蔵相』、帝国に向ける諸外国の視線。違和感を感じたことは?」
「………」

 辻はやや苦い顔をして口を閉じた。

「我々は勝った。勝ち続けてきた。ありとあらゆる手を使って、日本の前に立ち塞がった敵を打ち倒し勝ち続けてきた。無間地獄に落とされても一言も文句を言えないほどの悪行を積み重ねた上で」
「しかしそれは表沙汰になっていません」
「表沙汰になっていなくとも不審に思う連中は居る……これは辻さんも分かるはず」
「………」

 暫く黙った後、辻は息を吐く。

「別の意味での負の遺産。これを少しでも清算する必要がある、と」
「日本人をユダヤ人以上の脅威と捉える者もでる。黄禍論が声高に唱えられれば、今の体制が早期に瓦解するリスクも高まる」
「ふむ……『近衛公』は何か手を考えていっらしゃると?」
「第二次満州事変の真相解明。これが大きなカードになると思っている」
「第二次満州事変ですか……」

 戦後になって第二次満州事変の真相解明が進められていたが、真実にはまだたどり着いていない。

「調査の結果、日本の仕業ではないことは分かっている。ならば答えは限られる」
「中国共産党か、それとも張学良か、あるいは……米国か」
「犯人を突き止め、日本は嵌められたこと、陥れられたことを明らかにする。そして……今の欧州、旧アメリカ地域の現状に対する不満や日本への不信を彼らに向けさせる」
「しかし欧州諸国は乗るでしょうか?」
「彼らも『今のところ』対日関係を破綻させたくはない筈だ。それに国民に不満が溜まっている国も多い。ストレス解消と一時的な反日感情の解消のために乗るだろう。何より愚かな行為で戦争を拡大させ、多数の犠牲を強いたとなればどんな良識的な人間も怒る」
「仮に共産主義者が犯人なら、スターリンと毛沢東に更なる汚名を着せれば良い。北京政府が犯人なら、彼らの海外での影響力を排斥できる。旧アメリカの場合は、北米地域の住民と欧州の間に溝を作れる」
「旧アメリカが犯人なら、欧州の人間は間違いなく植民地人に対して憤りを覚えるだろう。白人世界の中で、旧アメリカを孤立させれば西海岸の頑迷な白人至上主義者も黙る」

 同じ白人たちから敵視されたとあっては、日本の庇護を頼まざるを得ない……それは日本にとって都合がよかった。

「だが懸念はインド、中東地方。あの一帯が欧州を巻き込んで大規模な騒乱となれば……こちらの努力が水泡に帰す可能性がある」
「その辺りは英国に期待する他ないでしょう。しかしこうも立て続けに問題ばかり起こるとは……これまでのことを纏めたら『月刊・世界の危機』として本にできそうです」
「……嫌な雑誌だ。そして締切(手遅れとも言う)前にデスマーチをしているのは編集者や作者ではなく、我々だと」
「そういうことになるでしょう……すいません、自分で言ってて凹んできました」
「「………」」

 二人は黙った後、黄昏た雰囲気を背負ったまま茶菓子として用意されていた栗饅頭を黙々と食べた。まるで気分を紛らわせるかのように。
 かくして精神的に自爆した2人の高官の思いとは他所に、英国勢力圏の混乱は短期間で収束する気配がなかった。
 インドでは独立派によるデモ、下層カーストによる暴動、民族間の対立などが次々に吹き出てイギリスの手を焼かせていた。
 この事態を受けてイギリスは各民族の更なる分断を進め、シーク教徒などには自治権拡大を約束するのと引き換えに協力を要請していた。あらゆる手段を用いて事態を沈静化するべく動いていたのだ。

「世界帝国だった英国のメンツにかけて、これ以上事態を悪化させることは出来ん」

 ハリファックスの後を継ぐ形で首相に就任したイーデンは円形テーブル(円卓)が置かれた会議室でそう呟くと、他の出席者も同意するように頷く。
 彼らこそ、英国版利害調整組織『円卓』の構成員たちだ。荒廃した英国を立て直すには真の意味で挙国一致体制が必要ということで設立された組織は活発に動いていた。
 世界帝国から滑り落ちた英国であったが、彼らは大人しく欧州の一島国に転落するつもりはない。あらゆる手を尽くして足掻くつもりだった。特にこの組織に参加できるような者達はその気概が強かった。
 英国の各界から集められた者達は傾いた祖国を立て直すべく、議論を進める。

「あの忌々しい禿げ頭の坊主は?」
「断食中だ。あのまま飢え死にしてくれれば清々するが……そうなれば独立派による大規模テロが続発するだろう」
「忌々しい限りだ」
「……インドはいずれ手放さざるを得ませんな。我が国の力では維持は困難だ」
「イランも反英・親独派の台頭が著しい。今は湾岸諸国の繋ぎ止めに全力を注ぐべきだろう」

 インドにこだわりつつも、インドをいずれ独立させなければならないことを円卓の面々は理解していた。もはやインドを強引に押さえつけ続けるのは困難だった。
 またイランからの撤退もやむを得ないと円卓は判断していた。だが何かしらの形でイギリスの影響力を確保し続けることを彼らは諦めていない。また在イランの英国資本を無償で枢軸陣営に譲ってやるつもりもない。

「アデンに集結している軍を動かし、イラン政府へ圧力をかける」
「イラン内部、それに周辺地域がまとまるのも阻止しなければならない。宗派問題、水問題と火種は多い。付け入る隙はいくらでもある」

 地中海を失った英国は、同地域に展開していた戦力を湾岸諸国、特に要衝として整備していたアデンへ集めていた。これにより英国は枢軸の中東、印度洋進出に対抗する意思を見せたのだ。

「海軍は?」
「東洋艦隊はセイロンで活動していますが……」
「戦前よりも効果が薄い、か」
「はい」

 また血を吐く思いで再建を進めた水上艦隊をインド洋に出張らせたことも『一定』のプレゼンスとなっていた。まぁあくまで『一定』であり、昔日ほどの威光は発揮できない。
  実際、英国海軍の凋落ぶりは目を覆うばかりの状況だった。老朽化した戦艦は次々に退役しており、英国の誇りと言われたフッドも退役寸前で、最後の奉公としてセイロンに派遣されている。

「ふん……独自に軍艦さえ建造できない連中が」

 忌々しそうに円卓の面々はつぶやくが、彼ら自身、英国海軍の凋落は自覚していた。

「やはり日本海軍との合同観艦式が必要になるでしょう」
「ふむ……英日関係が修復されつつあると内外に示し、かつ万が一の場合は英国海軍が戦力を大西洋に集結させることができることを示す機会だ」
「主役は日本海軍か……」

 今や、自分たちは主役になりえない……そんな諦観の念を込めた呟きに、円卓の面々はやや渋い顔をする。
 彼らとて世界帝国を支配してきた男たちだ。それなりのプライドがある。一人の男が周りを鼓舞するかのように言い放つ。

「悲観するのは早いぞ、諸君。この星を舞台とした演劇はまだ終わったわけではない。それに……この演劇は主役だけで成り立つものではない。他の登場人物がいるからこそ成り立つのだ」

 この台詞にイーデンは頷く。

「我々は当面、名脇役として振る舞えるように動くだけだ。たとえ主役という名がなくとも、それに代わる実を取る」




 日英独の首脳部が頭を悩ませていた頃、『萌えによる世界革命』を目指す尾崎は黒いやり取りを繰り広げていた。

「なるほど、それは中々に興味深い(どうみてもお前らが足を引っ張るのが見え見えだ)」

 北京の某高級料理店。その店で尾崎はポーカーフェースを保ちつつ、華僑や中華民国の有力者との会食を行っていた。

「ですが残念なことに日本政府は満州再開発よりも、東南アジア開発を重視しています。これを覆すのは容易ではないでしょう」
「尾崎先生が親しくされている近衛公は嶋田首相とも懇意の仲と聞きます。日中の新たな友好のために、なにとぞ」

 有力者の近くには某党のアジア主義派の衆議院議員と外務官僚、それに仲介した大陸浪人が座っており、しきりに頷いていた。
 彼らは上手い話に釣られて、華僑側に丸め込まれていたのだ。

(近衛公が働きかけても無理に決まっている……)

 中華民国は日中関係修復のため満州共同開発及び日中軍事協定締結を日本側に打診していた。
 戦前、日米によって開発された満州は先の大戦によって大きな打撃を受けていた。さらに顧客であったアメリカが消滅したこと、日本が満州開発より東南アジアや北米に目を向けたことで寂れていた。さらに昨今の飢饉と経済的混乱、中央政府の失墜によって発生した地方政府の離反による内戦によって中華民国は疲弊の極地に達している。
 この状況を打破するためとして、中華民国政府は日本に対して満州共同開発及び日中軍事協定を打診したのだ。日本の負担への見返りに中華民国領内での日本資本の優遇措置の実施、日本製武器の購入、満州産食糧を優先的に日本に輸出することも提案していた。
 しかし外交ルートで打診したものの、日本側の反応は芳しくなかった。

「金と時間と人の無駄」
「下手に開発したら漢人が更に流れ込んでくるだけ。だいたい、我々の金と技術で満州を再開発しても……最終的には乗っ取られるだろう」

 夢幻会はそう切り捨てた。
 またアメリカ崩壊のドサクサに、中華民国政府は在中米資本を次々に接収した。かつて多大な恩恵を与えてくれた国を裏切った挙句に、その資本まで収奪する姿は強烈な不信感を諸外国に与えるのに十分だった。これらの事情から中国側は裏ルートでの交渉を図っていたのだ。

(そもそも強大化した途端に、米国を組んで日本を圧迫したのがどこの誰だか分っているのか……そもそも在中の米資本、旧同盟国資本を裏切ったうえに容赦なく没収したような連中を信用できるか)

 そんなことを考えつつも、尾崎は話に戻る。

「しかし幾ら政府が音頭をとっても、民間が動かなければ意味はありません。かつての戦争の記憶はまだ新しい」
「いや、行き違いがあったが、日中は隣国。友好的に付き合うに越したことは無いだろう。中華民国が日本の資金と技術で発展すれば、反日も収まり友好的な市場が手近な場所に手に入る」

 尾崎は思わず「殴り倒してやろうか」とさえ思ったが、楽観的な某議員に続き、中華民国側の高官が腰を低くして言う。

「勿論、我々も不安に思われるのは分かっています。ですので非武装地帯を設置しようと思っています。また北満州鉄道も正式に日本側に譲渡しようと思っています」

 曲がりなりにも名目上、北満州は中華民国領であり北満州鉄道は中華民国の財産だった。
 日本政府は北満州の情勢悪化を受けて、中華民国の了承をとってから北満州鉄道を利用して掃討戦を実施していた。勿論、列車の運行については臨時に日本が行ったが。
 何はともあれ、北満州鉄道が日本側に譲渡されれば、満州は完全に日本の影響下となる。それは実質的に満州の支配権を日本に譲り渡す行為に他ならない。

「(満州に未練がある人間ほど、魅力を感じる提案だな)なるほど。ですが先の暴動において政府への矛先を逸らすため、反日を煽った者もいたと聞きますが?」
「その提案をした人間は共産シンパであることが分かりました。すでに自白しています」
「自白ですか」
「はい。ただ自白した後、監獄で命を絶ったようで、詳細までは不明です」
「(蜥蜴の尻尾切りか)なるほど」

 適当な相槌を打つ尾崎。

「日本でも指折りの大陸通である貴方が助言すれば、近衛公も耳を傾けざるを得ないでしょう。アジア新秩序構築のため、お国のために動いてくれませんか」

 この言葉に他の有力者も頷く。

「有色人種を劣等人種と見下す白人達、忌々しいナチスドイツに対抗するためには、アジアの人間が一致団結しなければならないでしょう」
「日本と中国は元々は友好国、戦略的互恵関係を築くのは不可能ではありますまい。そして中華民国が再建されれば、長江以北の広大な土地と資源を利用できるようになります」
「上海事変など不幸な行き違いこそありましたが、それを乗り越えてこそ真の利益が得られるというもの」
「それにアメリカ軍とアメリカ人は、大陸で散々に狼藉を働いていました。上海での中国人の行動は、これまでの鬱憤が爆発してのことでしょう」

 辻が聞けば鼻で笑うようなことを言ってのける面々。その顔の皮の厚さには尾崎も感心せざるを得ない。

(辻さんとこいつらの顔の皮の厚さを比べてみたいものだ)

 しかし有色人種=劣等人種を教義とするナチスが世界の三分の一を支配している状況を考えるとアジア連合というのは魅力的に感じないことは無い。だがそれはあくまでも、足を引っ張る国や裏切りを働く国を除いての話だ。

(恩を仇でしか返さない貴様が信用される訳がないだろうが。貴様らのような連中には文明の恩恵である『萌え』も『燃え』も不要だ)

 そんなことを思いつつも、尾崎は最終的に大量のお土産を断った後、「話はしてみる」とだけ告げてその場を後にすることになる。
 不愉快な気持ちを表に出すことなく、表面上は『にこやかな』顔で退出していった尾崎、そして手駒として取り込んだ日本人を見送った中国人達は次なる手を考えていた。

「さて、日本人はどうでる?」
「反応を見る限り、今のところは望み薄だろう」
「近衛公が動いたとしても、日本は容易には動かんだろう。今の宰相は海軍出身で大陸への深入りを嫌っている」
「そもそも海軍出身の男が陸軍の拡張に手を貸すつもりはないだろう。大陸進出となれば陸軍の出番だからな」
「それに日本陸軍もアラスカ、北米、東南アジアと広がった版図の維持に力を入れざるを得ん。これまでの行動から日本陸軍が政府の命令に反して大陸に食指を動かすことはないだろう」
「ふむ。では、やはり軍が積極的に動くことは無い、か」

 男達は飄々とした顔で話し続ける。

「民間から動かすしかないだろう。初期に進出してきた者達には多大な恩恵を与えれば良い」
「大陸支配の夢を見せる、と?」
「日本人は今、威勢がよい。対外信用を失墜させ、孤立無援となった中国など組み伏せられる……そう判断する人間は少なくない」
「『無敵皇軍』の力で『野蛮な』中華の民を組み伏せ、支配すれば、貧乏人も豊かになれる……そんな夢を見せる、と?」
「日本は豊かなのだろう。だが全ての人間が満ち足りている訳でもあるまい。まして福建や東南アジア、北米ではそうそう無茶はできん」

 『多少』、目減りしているものの中華の民はまだ多い。ソ連やドイツがしているように中華の民を情け容赦なく酷使し、搾取すれば利益をあげられるだろう。

「そして餌につられて、より多くの日本人がこの地に流れ込めば、日本政府も無視することは出来なくなる」

 日本が内陸に深入りした時、彼らはこれまで中華を支配した異民族を組み込んだように、日本を取り込むつもりであった。
 中華を支配した異民族たちの多くは一時の繁栄と引き換えに、最終的に中華の地に呑み込まれていった。その実績を考慮すれば、この大地は一種のブラックホールと言っても良かった。

「そして日本が大陸支配に注力すれば、必ず隙が出来る」
「日本を警戒している欧州列強は、日本の大陸支配を邪魔するために反日派を支援せざるを得なくなる」
「今すぐは難しいが、将来的には欧州列強との関係を修復する切っ掛けにもなるだろう」
「我らと欧州に挟み撃ちになった日本はいずれ弱体化する。その時が好機となる。日本人が築き上げた領土も、文化も、技術も何もかも我らのものとするのだ」

 日本人が聞けば「ふざけるな!」と激怒すること間違いなしな陰謀だったが、彼らはまるで当然とばかりに話を進めた。

「だが日本人の威勢も、日本政府が迅速に手を打った所為で一時よりも落ち込んでいる。これを盛り上げるのは些か手間が掛かるかも知れん」
「……忌々しいことだ」
「あの総合戦略研究所とやらはよほど優秀のようだ。日米戦争でも多くの提言を行っていることから、政府及び軍からの信頼も厚いと見える」

 男達は威勢のいい日本人を挑発、或いは甘言で惑わして大陸に誘い入れる策略を、総研の政策によって木っ端微塵にされたと思っていた。故に大陸封じ込めを提唱しているとされる総研、そしてその総研を後押しする者達は目障りな存在だった。

「判っている。総研にシンパを送り込むか、日本人を分断し対立させ、彼ら自身の手で、かの研究所を排除させる。或いはその方針を転換させる」
「日本人は熱し易く冷めやすい。そして脇も甘い。我らが付け入る隙は幾らでもある。幸い、かの国の政治を司る者は選挙で選ばれた者だ」
「そして帝国軍がいくら強大であっても、皇帝に代わってその統率を行う者が無能ならば……」

 彼らはニヤリと笑った。

「ただし長期戦になるだろう。香港経由で華南連邦への影響力を確保しなければならん」
「福建にも浸透する用意を進めておくのが良いだろう。東南アジアの同胞とも連絡を密にせねばならん」
「たとえ、華北の大地が荒廃しても後背地があれば幾らでも立て直すことが出来る」
「幸い、資金調達には事欠きませんからな。流民のおかげで」

 彼らが新たな資金源としたのは、ソ連との奴隷貿易であった。そう彼らは故郷を捨てた、或いは捨てざるを得なかった流民達を売りさばいていたのだ。
 当然、ソ連は奴隷を安値で買い叩いたが、それとて『数』が多ければ大きな利益となる。だが男達には同胞を売り渡しているにも関わらず、良心の呵責に苦しめられている様子はない。例えその行いを咎められても、彼らは平然と言い返すだろう。

「中華だけではない。世界中で間引きが行われているのだ。我らがそれをやって何が悪い?」

 そんな彼らと別れた尾崎は、車の中で今後のことを憂慮していた。

(南満州鉄道に関わっていた者達が食指を動かす可能性がある。軍は何とかなるだろうが……南満州に根を張っていた商人や浪人共も動く可能性があるか)

 残念なことに日本国内にも満州利権を重要視する者もいる。新たな利権が与えられても、戦前の旨みを忘れられない人間はいるのだ。彼らの抑え込みも必要となる。

「近衛さんとも話をしておかないと」

 そう小さく呟いた後、尾崎は窓の外を見る。そこには内戦中にも関わらず、平然と生活する中国人達の姿があった。

「ふむ。さすが中国人は図太い」
「連中にとって内戦は恒例行事のようなものです。尤も裏切り者だらけの連中には相応しいかも知れませんが」

 無表情で毒を含んだ言葉を口にしたのは現地で尾崎の部下を務める男だった。だが驚くべきことに、尾崎の右横に座る男の肌の色は白かった。

「中国人にもまともな連中は居るだろう。極僅かだろうが……」
「大勢に影響がなければ意味が無いのでは? 悪貨は良貨を駆逐するという諺もあります」
「一本取られたな。それにしても随分と日本語が上手くなったな」
「奴らに復讐できるのです。そのためなら私は何だってしますよ」

 男は暗い憎悪を瞳に宿して車外の中国人を睨む。
 上海で同僚を、部下を、そして妻と娘を裏切りによって無惨に殺された男の憎しみは深かった。彼にとって嘗て敵であった日本人よりも目の前の裏切り者のほうが遥かに憎い存在だった。

「仕事熱心なのは有難いが、あまり無茶はしてくれるなよ?」
「判っています。それと件の記事……『上海虐殺の虚構』ですが」
「ああ大々的に出せそうだ。うまくいけば列強も喜んで連中を叩くだろう。国内の憂さ晴らしもかねて、な」
「それは良かった」

 男の笑みを見て、尾崎は元アメリカ人が抱く『敵意』がまだ持続していることを確信できた。

(元アメリカ人と中国人の対立は根深いか。まぁ我々にとっては都合が良い)

 特に上海大虐殺を経験した者達は、中国人を毛嫌いしている。中国人も上海で民間人を大量に殺害した元米国人を忌み嫌っていた。まして 日本人という同じアジア人に敗北し、国家が崩壊した連中など恐れるに足らずというのが一般的な中国人の考えだった。そんな考えにますます 元米国人は反発しており、負の連鎖は止まる気配が無い。

(尤も、そう仕向けたとは言え、こうも暗い情念を燃やす人間を長時間相手にするのは些か疲れるな。おまけに中国人は露骨に媚を売るようになった)

 大陸では余裕がある者ほど日本に友好的な態度を示す者が増えていた。勿論、それは単に親日になったわけではない。日本と友好的に接したほうが利益になるからだ。
 勿論、その生き方を否定するわけではないのだが戦前を知る者達からするとその変遷振りは、見ていて気分の良いものではない。
 尾崎は気分転換も兼ねて窓の外を見る。だがそれも余り気分転換にはならなかった。

「羽振りが良さそうな人間もいるな……奴隷成金か」

 奴隷貿易と飢餓と内戦によって華北の地は荒廃していた。
 しかしそれでも尚、同胞達を踏み台にして富を得る者はいる。そして富を得た者達はその富を増やすために、或いはその安全を 確保するために信用して運用、或いは保管できる場所に富を移動させる。
 だがこの荒廃した大陸で安心して財産を預けられる場所は少ない。その少ない場所のひとつが国際都市である天津や上海だった。さらに その財をもってすれば日本企業、銀行に一定の影響力を与えることは出来る。

(最近、元大陸浪人が経営する会社があの議員に多額の献金をしていると聞く。ふむ。その点も突いていく必要があるか)

 新聞記者ということでその手の情報には聡い尾崎は、今後の展開を想定して眉を顰めた。

(大陸を封鎖すると言っても、完全に交流を断つ訳にはいかない。まして大陸で活動しているからと言って日本企業からの献金を禁止するわけにもいかないだろう。会合の面々も頭が痛いだろうな)

 日本の威光が高まれば高まるほど、大陸から富は集まるだろう。
 しかしその富によって日本自体が振り回されることもあり得る……今回の事例はそんな可能性を示しているように尾崎には思えた。

(煮ても焼いても、喰えない連中だ。我の強さとその粘りっぷりに限ればアメリカ人並だな。いや、だからこそ連中は手を組んだのかも知れないな)







 あとがき
 提督たちの憂鬱外伝 戦後編4をお送りしました。今回、珍しく辻さんが自爆しました……さすがの彼も疲れているのでしょう(笑)。
 片や欧州では黄禍論に加えて日本人陰謀論(笑)が囁かれ始めます。まぁこれまでの所業の報いと言えるでしょう。
 それでは戦後編5でお会いしましょう。